第8話 彼と彼女の話-5





「別れよう」










たったそれだけを彼は静かに放った。









突然だった。

理由を尋ねても「もう無理なんだ」としか言わない。

そしてまた、最初の言葉を繰り返すだけなのだ。


その言葉に何の感情も持たせずに。

何度も飲んだお店のコーヒーだけが私の感情を表すように波打った。








3年という時間を共に過ごしていくうちに、将来への期待が生まれていた。





俗にいう適齢期というのもあるけれど、素直に彼と一緒にいたい、結婚したい、そういう気持ちが芽生え始めていた。


ただ、その感情が生まれているのは私だけだった。

何度か会話の中に”結婚”を連想させるようなフレーズを出してみたが、途端に嫌悪感を全面に出されたのを覚えてる。




湊くんに相談した時、

「店長は結婚に対して壁があるじゃない?文那さんから店長のペースに歩み寄ってあげたら?」と言われた。


この言葉の本当の意味がわからなかったけど、これ以上喧嘩が増えたりするのも避けたかったので、あまり積極的にその話をしなくなった。

それ以来、彼が全面的嫌悪感を出すことが減ったので、これでよかったんだと安堵した。






少しづつ、2人のペースで進めばいいんだ。

そうすればいつか彼も向き合ってくれる。


ゆっくり、焦らず前を向けば、未来はあるんだ。






そう解釈していたのはこの世界で私1人だけだった。













彼から言われたたった5文字の言葉が頭の中を駆け巡る。


私の何がいけなかったの。ダメなところがあったら直すから。


そんなこと言わないでよ。私は別れたくない。


昔読んだ恋愛指南書に別れ話を切り出された時絶対言っちゃいけないと書いてあった台詞を全て並べてしまった。


こんなとき、これを言ったら仲直りできます!みたいな文献があったら世界で賞を取れるはず。


でもきっとそれがないのはそんな魔法は存在しない、ということなんだろう。





別れたくない。

ずっと一緒にいたい。






だけど、いつかこうなることを頭のどこかでわかっていたような気もする。


時間の問題、ということを。







付き合う前から、恋愛の話になると黙ってしまうことがあった。

でもそれは付き合いが始まってからも変わらなかった。

根掘り葉掘り聞くつもりもなかったけど、その話題を避ける姿に違和感があった。



将来について話したいと思っても向き合う姿勢は見せてくれなかった。

別に結婚にこだわっていたわけではないけど、特別大きな問題がないのならそこに踏み切ってもいいんじゃないかと思っていたし、子供とかを考えると早いに越したことはないと思っていた。


あっちの相性だって別に悪くない。

だから、彼がどうしてここまで頑なに拒否をするのか全くわからなかった。






ただ、1つだけ。






たった1つ、最悪な可能性が私の中に生まれてしまったのだ。


確信はない。

決定的な証拠もない。

あくまで私の中に生まれた可能性の1つに過ぎない。




でも、それが本当だとしたら全てに納得がいく。

今まで繋がらなかった点が綺麗に線を描くことができる。


最後まで認めたくはなかったけど。












言葉の魔法は存在しない。

一度口から出てしまったら修正もキャンセルも効かない。


頭でちゃんと考えてから言葉を発しなければならない。

言ってしまったら最後、後戻りできないんだから。






そんなこと、わかってる。

でも、もう我慢できなかったんだ。

その可能性を確認せずにはいられなかった。












そんなことを頭で考えていたら、つい口から溢れてしまった。
















































「結婚、してるから?」






















いつも会うのは彼の店か私の家。

彼の家がどこにあるのかも知らない。

最寄り駅が近いと聞いてるけど、どの駅かまでは知らない。

聞いてもはぐらかすか機嫌が悪くなるかのどちらかだった。



土日は1日中仕事だからと連絡が取れなくなる。

それでも私は彼がくれる言葉も、行動も、その優しい眼差しも全てが私だけに向けられていると信じていた。




いや、信じようとした。



でも、その可能性に気付いたとき涙さえも出なかった。

あぁ、そういうことかと真実を確かめる前に納得してしまった。

そうと決まったわけでもないのに、それまでの他の可能性が一瞬にして消え去った。





私の気持ちと一緒に。



残酷にも幸せな思い出だけを残して。















さすがに動揺するだろうと思ってたけど、裕太さんは表情1つ変えなかった。


むしろ、それが何か?と言いたげな憎たらしい顔だった。


あんなに好きだった人の顔がこんな一瞬で憎悪に染まるなんて。


もうあの頃の優しい眼を見ることは叶わないんだなと思い、席を立つ。






今日この話題を切り出すつもりは全くなかったけど、これよりいいタイミングが想像できなかった。





もう、会うこともないだろう。

涙も流さず意外と冷静でいる自分に驚いている。

少しは強くなったのだろうか。


いや、悲しいという感情にまだ脳内処理が間に合ってないのかもしれない。







彼に背を向けたまま出口に立った。


このドアを出たら、もう彼に会うことはない。

会ってはいけない。




大丈夫、私なら大丈夫。


多少は落ち込むかもしれないけど、きっと平気。

いろんなところから自分を励まし、ドアノブを握る。


手汗でうまく掴めない。

それでも今出せるありったけの力を込めた。






昨晩塗ったネイルが手のひらに刺さって痛い。

痛みでなのか、悲しみがやっと追いついたのか。

視界がぐらぐらと揺らぎ始める。


でも、力を緩めずにドアを開けた。

後ろを振り返ろうか考えたが、私の視線の先にある彼の影が動くことはなかった。






きっと、そういうことなんだろう。


私は大きく息を吸い、小さくさよならを告げて大きな1歩を踏み出した。


































帰り道、電車で泣いてしまったらどうしよう。

やっぱりタクシーに乗って帰ったらよかったかな。


そんなことを考えていた。

こんな時にもタクシー代を気にしてしまうなんて。




しかしそんな心配は無用だった。

駅の改札前で別れを惜しんでいる男女を見ても、

コンビニで手を繋ぎながらお菓子やお酒を楽しそうに選んでいる男女を見ても、

遠くでお父さんお帰りなさい!なんて可愛い声が聞こえてきそうな家族を見ても。



心が震えることはなかった。

というか、私の中にもう震えるものが無いのかもしれない。




空っぽの27歳女性の形をした容器。

でも万が一のことを考え途中で壊れたりしないように一応慎重に家まで持ち帰った。


鍵を開け、玄関へ入る。

靴を脱ぎ、そのままベッドに倒れこんだその瞬間。









シーツに染み込んでいた彼の匂いが、鼻腔を通り全身を蝕んでいく。




全身が震え、ダムが決壊したかのように涙が溢れた。




呼吸をするたびに言葉にならない声が響く。




その叫びが鼓膜を刺激し頭に響く。




もう自分ではコントロールできなくなっていた。




ただただ、いろんな音が鳴り響く頭の中で、




(終わった。終わっちゃったんだ。もう2度と裕太さんに会えないんだ)




そう繰り返しては喉が潰れるくらい泣き喚いた。







そして何度も会いたいと願った。


もっともっと深く闇に堕としてくれたらよかったのに。


闇で包んで光なんてものはないんだと信じさせてくれたらよかったのに。


私が余計なことに気付かないで済むように。


最後までちゃんと、あなたの世界に閉じ込めてて欲しかったのに。
















呼吸ができるようになった頃には、もう外が明るくなっていた。


カーテンから差し込む光がやけに眩しくて、身をよじって光から逃げた。





まだうっすらぼやける視界の中に、何も知らずに準備する昨日の可愛い私が見えた。


何を着るか悩んでそのまま出しっぱなしにしていた服や、毎回頑張ってたメイク道具。


足元にはヘアアイロンが転がっていた。


どれもこれも、裕太さんのためだった。


褒めて欲しくて、もっと好きになって欲しくて。







その時の感情が鮮明に蘇って、昨日あれだけ泣いたのにまた涙が溢れた。


もう泣いてもしょうがないのに。


彼がここに戻ってくることはないのに。


自分で離れるって決めたのに。







ため息をするたびに身体の奥が軋む。

そして頭が痛い。

もう全部がぐちゃぐちゃだ。

今日が休みでよかった。




鎮痛剤を飲んでまた横になろうと思い、バッグを探す。

ポーチを取り出すと同時に携帯が鳴った。










一瞬。


ほんの一瞬だけ、裕太さんじゃないかと期待した。






だが画面に表示された名前は佐川裕太ではなかった。


わかってた。わかってたのに。

今もこうやって心のどこかで期待してるのは私だけなんだって虚しくなった。


そんな自分を守るために鎮痛剤を流し込み、携帯の電源を切ってベッドに沈んだ。
















薬が効いたおかげなのか、さすがに泣き疲れたのか。

死んだように深く眠っていたらしい。

もう外は暗くなっていた。


思ったよりダメージが大きかったようで身体中を倦怠感が襲う。


明日の仕事の準備も全然終わらない。


このまま会社に行っても周りに迷惑をかけるだけだと判断し、消化を急かされていた有給を使うことにした。


その連絡をするため、1日ぶりに携帯の電源を入れた。


昨日ほどではないが、多少の期待は生まれてしまう。

そんなことしてもショックを受けるだけなのに。


頭ではわかってるのにどうもうまくいかない。

数時間ぶりに見た画面には着信が3件。メッセージが2件。

期待もむなしく全て湊くんだった。

別れたこと、裕太さんに聞いたのかな?


いや、自分の立場が悪くなるような話を自らするタイプじゃない。

現に私に対してそうだったんだから。




着信を折り返す気力は残ってなかったのでメッセージだけ開くことにした。


そこには私を心配していることと、裕太さんから欲しかった謝罪の言葉が並べられていた。


でも今は正常に頭が働かない。


まともに話せる自信がない。


とりあえず会社への連絡を済ませ、もう一度携帯の電源を切った。




















それからは何事もなかったように毎日が過ぎていった。


朝起きて会社に行き、定時まで仕事をして家に帰る。

適当に食事を済ませシャワーを浴びて寝る。


ただ、それを繰り返す。


今までのように上司や同僚は食事に誘ってくれるが行く気が起きなかった。


あの日以来人と関わるのが怖くて、面倒で、どうでもよくなってしまった。


社内では急に人が変わったと噂になり、段々と距離を置かれるようになった。




そして最終的には孤立した。




理由を知らない人はそれをイジメだ、なんて騒ぎ立てる人もいたようだけど、そんなことどうでもよかった。


何も考えたくなかった。






















そして数ヶ月経ったある日、誰にも相談せず、私はひっそりと会社を辞めた。

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