第29話

 そのカラフルなチラシには大きな文字で『Sawa Sonic』と書かれている。その意図を読みかねていると沢里がわなわなとそのチラシを指差して言う。


「ま、まさかそれって」


「そう! サワソニだ!」


「サマソニ?」


「ノンノン! Sawa Sonic……通称サワソニ! 毎年夏本番を迎える頃に開催している音楽イベントである! 数々のアーティストがしのぎを削り本気で歌いまくるsawaプロデュースの野外ライブさ!」


「野外ライブ……あっなるほど! そのお手伝いをすればいいんですね?」


 ライブ会場の設営は人数が必要で大変なのだと柾輝くんに聞いたことがある。


 スタジオを借りるためなら一日二日骨を折ることくらい喜んでしよう。


 意気込む私にsawaさんはチッチッチと舌を鳴らして指を振った。


「春と二人で出なさい」


「え?」


「スタジオを貸す条件は、サワソニに出演して二人で一曲歌い切ること!! オゥケィ!?」


「ええーーーー!?!?!?」


 どうだい? と得意げにウインクをするsawaさんに、私たちは思わず顔を見合わせた。



 ▽


 考えさせてください。そう言うとsawaさんはぶーぶー文句を言いながらも一日の猶予を設けてくれた。たった一日かと落胆しつつもイエスかノーかを判断するだけのことに何日もかけていたら迷惑がかかる。相手は多忙なプロだ。


 sawaさんはプロデュース側であるのだから、私が断ってもいくらでも替えは用意できるだろう。


 一生に一度あるかないか、音楽を志す者なら喉から手が出るほど欲しがるチャンスなのだ。


 【linK】は有名になりたくて歌っているわけではないが、多くの人に聞いてほしいという思いはある。


 しかし真夏のライブでは顔を隠すのは難しいだろう。家族にも友人にも【linK】であることがバレてしまう可能性がある。特に【linK】の大ファンである土井ちゃんの前で歌ったらきっと私が【linK】だと分かってしまうに違いない。


「リンカ」


 頭に手を置かれて私ははっと伏せていた顔を上げた。今は沢里の家から駅に向かう途中だった。


 わざわざ駅まで送ってくれている沢里の隣で完全に思考に溺れていたことに反省する。


「あっごめん。ぼーっとして」


「いや、親父が急にすまん。多分あれ、意地悪で言ってるんじゃなくてな。リンカならできると思って言ってるんだ」


「うん分かってる。今日、息もれは必ず治せるって思ったの。それを間延びさせないために、サワソニまでに治せって意味だっていうのも分かる。これがめったにない機会だってことも。でも……」


「顔出しか」


 沢里は私の不安を的確に言い当てる。私はこくりと頷いた。


「私が【linK】だってことを中学時代の部活仲間に知られたくない」


 そう思ってずっと顔出しはしなかった。再生数ランキングに入っても、ファンに望まれても絶対に手元しか映さずにいた。


 私は恨まれている。特に最後の全国大会を台無しにした同期たちは、私を許しはしないだろう。その悪意が【linK】という不可侵領域にまで及ぶのが怖かった。


「なあリンカ、さっきテラスで俺の前の学校の話してたんだろ?」


 隠すことでもないかと沢里の問いに素直に頷く。


「あ、うんごめん。聞かれたくなかった?」


「いやいいんだ。前にも少し話したし。まあその続きなんだけど。俺は前の学校では親のビッグネームのせいで浮いてたんだ。教師でさえ親の顔色を伺ってたせいで、えこひいきだって言われて。親のすすめで入った芸能科の、音楽コース。そこのやつらには本当に嫌われたよ。あまりにも思うように歌えないから、そいつらから逃げてきたって言っても過言じゃない」


 やはり大変な思いをしていたのだ。沢里が私のことをおもんばかってくれたのも、自分の経験からきた行動だったのかもしれない。私は沢里の話に相槌を打ちながら、歩幅を合わせてくれるその横顔を見つめる。茜日が目に染みた。


 沢里はふと歩みを止め、私に向き直る。私も沢里をじっと見たまま続く言葉を待つ。


「だからリンカが中学時代のやつらを気にする気持ちもわかる。表舞台に立ってまた負の感情をぶつけられるのが怖いんだ。でもな、俺はそいつらにこそリンカの歌を聴かせてやりたい。リンカはそいつらに潰されてなんかない、どうしようもなく歌を愛して歌に愛されてるんだって、思い知らせてやりたい!」


「沢里……!」


 夕日を背負う沢里がどんな表情をしているのか、逆光で見えない。けれどその言葉はストレートに私の胸を打った。沢里の方が私よりも私のことを考えてくれる。いつだって沢里が明るい方へと導いてくれるのだ。


 沢里にだって不安はあるだろう、辛い思いをしてきただろう。なのに自分のことは後回しにする。そういう人間なのだ。もうとっくに理解している。


 そんな沢里のために、私も一歩踏み出したい。


「私も同じだよ、沢里。沢里の前の学校の人たちに、沢里の歌を聞いてほしい。親の名前なんかなくてもすごいんだって、分からせてやりたい。だから私、私は……」


 勢いでそこまで言って息を吸う。これからは呼吸すら沢里に頼ることになる。それでも私はやり遂げたいと思った。思わされてしまった。沢里の強い力に引っ張られて、私という存在がどんどん形を変えていく。


「私、沢里のために歌うよ。沢里が私のために歌ってくれるように」


 そんな在り方でもいいんだと思った途端、体の力が抜ける。音が私の周りを取り囲んで、音と音が繋がる。一小節、二小節とどんどん鳴り響き、鼓動がリズムを刻んでいく。


 私は歌が好きだ。誰かと合わせて歌う歌も、誰かのために歌う歌も。それを思い出させてくれたのは他の誰でもない沢里だった。


 気付くと沢里の両手が私の頬を挟んでいる。見えるようになったその表情は酷く真剣だ。


「いいのか、リンカ」


「うん、今度は私から言わせて。沢里……私と一緒に歌ってほしい!」


 沢里の目を見つめて言うと、次第に沢里の目が潤んでいく。また泣かせてしまったかと一瞬焦るが、沢里はそのままがばりと私の肩に顔を伏せた。


「うん」


 それは今まで聞いた沢里の声の中で一番小さくて、そして一番嬉しそうな声だった。

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