第28話

 私はすごすごと戻ってくる沢里の二の腕をがしりと掴み、高い位置にあるその顔を思い切り見上げた。


「沢里! お願い、力を貸して。私息もれを治したい!」


「うおっ」


「特訓に付き合ってください!」


「……俺でいいんだな? だってずっと顔見て歌うんだぞ?」


「首が痛いのくらい我慢する!」


「そうじゃなくてさあー……ああもう。もちろん協力するよ」


「ありがとう!」とその両手を勢いよく掴むとまた沢里はぶつぶつとなにか言い始めた。上手く聞き取れずに耳を寄せようとすると逃げられてしまう。


 息もれを治す道が見えた。私はそのことにひたすら安堵する。これから沢里と言われたように特訓をし、一曲歌いきれるようになりたい。いや、必ずなる。


 心の中で決意していると、視界の端にまた一人スタジオに入ってくるのが見えた。


「ちょっと、二人とも! テラスで待ってるって言ったでしょう?」


 ゆるいパーマがよく似合う小柄な女性だ。よく通る声が沢里親子に向けられたと思ったら、彼女は私を見つけて目を輝かせ始める。


「あなたがお友達ね? いらっしゃい、駅から歩かせちゃってごめんなさいね。疲れたでしょうお茶にしない? テラスに紅茶を用意しているの。まったくうちの男衆は気が利かないんだから。あらこれわざわざ持ってきてくれたの? 気にしなくていいのにありがとうね。ええとお名前は確か――」


「い、五十嵐凛夏です」


「凛夏ちゃんね!」


 ゆるふわな見た目とは裏腹によく回る口だ。かろうじて名乗ると沢里が慌てて私たちの間に入る。


「母さん! 急に詰め寄るなよ!」


「えっ沢里のお母さん?」


 横に並ぶと姉弟に見えるほど若い。素直にそう言うと沢里のお母さんはにっこり笑う。その笑顔は沢里とそっくりだ。


 沢里のお母さんは沢里の抗議に耳も貸さず、私の手を取ってスタジオの外へと連れ出そうとするので、思わず沢里に助けを求める。


「ええと、どうしようか沢里」


 沢里が返事をする前にsawaさんが「行ってらっしゃい」と手を振った。


「じゃあ俺も」


「待て春! さっきのふぬけた発声はなんだ! もっぺん歌え!」


「急に歌わせるからだろ!」


 唐突に始まってしまった親子の言い合いを止める暇もなく、私たちはスタジオを後にしたのだった。



 ▽


「もう、せっかく初春のお友達が来てくれたのにいきなりスタジオに引っ張って行っちゃうんだから」


 ふわりと微笑むその姿は女神のよう。沢里はお母さん似だなと思いながらいい香りのする紅茶を頂く。


 お洒落なお茶請けに混ざって私の作ったアップルパイが並ぶのを複雑な気持ちで見つめていると、沢里のお母さんはまたふわふわ笑う。


「初春がお友達を家に連れてくるなんて小学校の時以来。仲良くしてくれてありがとうね」


「あっいえこちらこそ沢里くんにはお世話になりっぱなしで。今日はsawaさんに相談したい事があって、お邪魔しました」


「そうだったの。最近あの子がよく笑うのはきっと凛夏ちゃんのおかげね」


 パステルカラーのマカロンを頬張りながら私は首を傾げた。沢里はいつも笑っている気がする。そう告げると沢里のお母さんはまん丸の目をさらに丸くする。


「そう……なら初春は転校して正解だったのね。少し心配していたの。新しい学校では上手くやれてるのか」


 転校。その言葉を頭の中で反芻する。確かに沢里は時期外れに現れた転校生だった。口の中に貼りつくマカロンに苦戦していると、沢里のお母さんは宙を見つめて話し続ける。


「前の学校は芸能科のあるところでね。セキュリティもちゃんとしているから中学受験させたんだけど……お父さんがあれだし、悪目立ちしちゃったみたいでね。なにをしても親の七光りだって文句を言われて、嫌な思いをしていたんだと思う」


 ごくりとマカロンを飲み込む。そんな話を沢里もしていた。ただの沢里初春として歌いたい、その望みを叶えるために沢里は勇気を持って自ら足を踏み出したのだ。きっと大変な決断だったと思う。すごく悩んだだろう。


 たった一人で新しい世界に飛び込んだのだ。変わりたいという願いを叶えるために。


 それに比べて私は中学時代の悪夢から目を逸らし、楽になろうと一人で歌うことを選んだ。


 それではどうにもならないと分かっていたのに。


「沢里くんは学校ですごく人気者ですよ!」


「ふふふよかった」


 沢里のお母さんは安心したように笑うとハムスターのようにアップルパイを頬張る。その姿を見て私もつられて笑った。


「おーいリンカー」


「あ、戻ってきた」


 ぐったりとした沢里とsawaさんが並んでこちらに向かってくる。どうやらsawaさんに厳しく指導されたようだ。二人は私たちの座るテーブルのそばに立ちお菓子をつまみ出す。


「なに話してたんだ?」


「ん? ふふ、内緒」


 母親と同じ仕草でアップルパイを口に詰め込む沢里がおかしくて笑ってしまう。


「あの、sawaさん。本当にありがとうございました。sawaさんに教えてもらった方法で練習続けます!」


 沢里が隣でせるのを無視して、私はsawaさんに頭を下げる。


「その意気で頑張りたまえ。ところで娘よ、うちのスタジオに興味があるそうだね?」


 その言葉に思わず顔をがばりとあげる。私のはしゃぎようを見ていた沢里がsawaさんにバラしたに違いない。赤くなる顔を押さえながら私は頷いた。


「すみません、あまりにも立派で」


「よければ好きに使っていいよ」


「えっ!?」


 突然のありがたい申し出に飛び上がって驚く。あのスタジオを使わせてもらえるなんて夢のようだ。【linK】の楽曲のクオリティを高めることができる。


「ただし条件があーる!」


 そう言ってsawaさんは一枚の紙をバシンとテーブルに叩きつけた。

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