十一、ステイ・ウィズ・ユー

第26話

 ただ時間に身を任せているだけで週末がやってきた。


 私の息もれを治すために、沢里のお父さんがわざわざ時間を作ってくれる。その贅沢さに眩暈を覚えつつも、これで少しでも息もれが治るならば! と気合を入れて沢里との待ち合わせ場所へと向かう。


 今朝焼いたばかりのアップルパイを手土産に、失礼のないようにしなければ。


 家から二駅分電車に乗って、駅前のモニュメントのそばに立つ。沢里がうちに来た時は自転車を使っていたが、私にはその距離を漕ぎ続ける自信がない。


 思えば沢里は、私が泣いたあの夜、その距離を駆けつけてくれたのだ。


「リンカー」


 一人むず痒さを感じていると後ろから沢里の声が聞こえてきた。振り向くと私服姿の沢里が手を振っている。


「立っているだけで目立つな!」 私は心の中でそう突っ込まざるを得なかった。


 駅前で人目が多いこともあり、道行く人々が沢里をチラ見している。学校でも長身爽やかで人気者、外に出ても注目の的。


 私は居心地の悪さを感じつつそんな沢里と三歩ほど離れた場所で呼びかけに応えた。


「いやー待たせてご」


「早く行こう今すぐ行こう」


 へらりと笑う沢里を目で黙らせ早口で促す。


 沢里は「そんなに俺んち来たいかー」なんて勘違いをしながらさかさか歩く私を先導し始めた。


「ところでリンカ、俺の親父のこと知ってるっけ?」


「知らない」


 有名なアーティストとは聞いているが、どこの誰かは知らなかった。沢里の音楽を聴く限り、かなりしっかりとした音楽教育を施せる人物であることは想像がつくが。


「交響楽団の人とか?」


「全然違うなー」


「んーじゃあピアニスト?」


「それも違う」


「んんー?」


 一向に正解できずに沢里の家にたどり着いてしまった。重厚な門の奥には広い庭とおしゃれな白いタイルの小道。まさかと目線を上げると、普通の家三軒分くらいの大きさの家がそこに鎮座していた。



「さ、さすが有名アーティストの家……」


「ま、気楽にしてくれよ」


 そう言われても肩身が狭いものは狭い。


 手入れの行き届いた庭を抜け、玄関のドアを開ける沢里にぴったりとくっついて靴を脱ぎ、案内されるがままに家の奥へ奥へと通される。


「おじゃまします」


 美しい絵画やセンスのいいドライフラワーが飾ってある廊下をびくびく歩いていると、沢里がくつくつと笑い出す。


「笑わないでよ」


「悪い、なんか借りてきた猫って感じでつい」


 むむっと口を引き結んで遺憾の意を表すが、まだ沢里は笑い続ける。


 自分はゴールデンレトリバーのくせに。と言いたいがビビっているのは事実なので黙っておく。


 長い廊下の突き当たり。重たい扉を開けたその先の光景を見て私は言葉を失った。


「こ、ここって……」


 音響設備の整った部屋の中央に透明なしきりがなされ、その奥にはマイクと楽器が並んでいる。


 そう、立派な音楽スタジオが目の前に広がっていた。


「すごい! ねえここ、スタジオだよね?」


「親父の専用スタジオなんだ。今日リンカが来るって言ったら喜んで開けてくれてさ」


「家にスタジオがあるとか……! 羨ましいっ!」


 沢里のお父さんが何者かはまだ分かっていないが、このスタジオの規模を考えるととんでもない人なのかもしれない。


 沢里に促されスタジオの中を見せてもらう。自分の部屋と比べると当たり前だが声がよく通り、音の反響も違う。


 空間全てが音楽を生み出すためにある。私はドキドキする胸を押さえてマイクの前に立ち、この場にいる幸せを噛み締めた。


「ここにいるだけでワクワクする」


 ふと仕切りの向こうで沢里が生温かい目でこちらを見ていることに気付き、はしゃぎ過ぎていたことが恥ずかしくなる。


「ごめん、はしゃいじゃった……」


 おずおずと沢里に寄ると、ぽんと頭に手を乗せられて顔を覗き込まれる。


「緊張ほぐれたか?」


「え?」


「家に入った時、ガチガチだったろ」


「そりゃあね。規格外のお家だとは思ってなかったし……」


「まあ俺もリンカの家行く時は緊張したからお互い様だな」


「え? そうだったっけ」


 それは沢里の声を録音した日のことだろうか。


 思い返しても緊張していたとは思えない、自然体だったはずだ。第一私の家はごくごく平凡で、緊張する要素はなにもない。


 首を傾げていると沢里は悪戯っぽく笑い、「まあ分かんないならいいよ」なんて言ってみせるので、そうだったのかもしれないということにしておく。


 スタジオのソファに座り、沢里が誰かに電話をする姿を見つめる。


 憎たらしいほどにスタイルがいい。カジュアルな服装なのにやたらと目を惹くのはそのせいだ。背が高いからスポーツも得意そうだが、本人曰く「中の中」なのだそう。


 単なる推測ではあるが、指を痛める危険があるからあまり好まないのかもしれない。私の割れた爪を見た時の反応が過剰だったのも、沢里の中では耐え難い出来事だったからではないだろうか。


 そうだとしたら沢里の世界は音楽を中心に回っている。

 

 親の英才教育と立派な自家スタジオ、柔らかな声に器用な指。


 気付くと私はごくりと喉を鳴らしていた。うかうかしていられない。きっと沢里は私なんてあっという間に越えて行ってしまう。今はまだ世の中が沢里を見つけていないだけなのだ。


『リンカが他の人と楽しく歌っている姿を見たくない』


 そう言った沢里の気持ちが少し分かった気がした。


「親父もうすぐ来るって」


「は、はい」


 沢里の言葉に私はピンと背筋を伸ばす。緊張がぶり返してくるのを感じ、私は縋るように沢里を見る。


「ね、ねえ結局沢里のお父さんって――」


 誰なの? と問おうとしたその時、重い扉が開き一人の人物がスタジオに足を踏み入れた。


 白髪混じりの髪を後ろに撫でつけ、頭にサングラスを引っかけたド派手なアロハシャツ姿の男性が、ビシッと二本指を顔の横に構えて沢里に歩み寄る。


「ういーっす」


「親父! ちゃんとした格好しろって言っただろ!!」


「おいーっす」


「聞けよ!!」


 奇抜なデザインのシャツに映えるダンディで彫りの深い顔立ち。沢里によく似たすらっとしたスタイル。


 私はそんな男性を見て、思わず口元に手をやった。

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