第20話
驚かせてしまった、心配をかけてしまった。それなのに沢里は、私の息もれについてなにも聞いてこなかった。
「ん」
「あ、ありがとう……」
なんでもないようにコンビニで買った二連のアイスを割ってこちらに差し出してくる沢里に、辛抱ならず問う。
「ねえ、どうしてなにも聞かないの?」
「んー」
沢里はアイスをくわえながら空を見上げる。私はいたたまれない気持ちを持て余し、もらった片割れアイスをひたすら揉んでいた。なかなか柔らかくならないそれを両手で包み込むと、急速に熱がアイスに吸われていく。
「つらかったな」
不意に投げかけられた答えに、ぼとりとアイスを取り落す。沢里がそれを拾うのを、私は動けずにただ見ていた。
「思うように歌えないって、すごくつらいから。だからリンカは、つらいの我慢してたんだと思うとなんか……」
沢里はもごもごとそう言うと、急に片手で目を覆い隠して「なにも言えねえ!!」と叫んだ。テレビで見た覚えのあるそのパフォーマンスに私はがくりと首を下げる。
「あんたねえ」
「そして俺は勝手に反省中デス」
「なんで?」
「リンカと一緒に歌いたいって俺がしつこく言うからリンカはつらいのに歌ってくれたんだろ? それに比べて俺は、なんでこうなんだって。優しいよな、リンカ。……ぼくももっと優しい人間になりたいと思いました、まる」
「なんじゃそりゃ」
「せめて俺の前では力抜けよ。俺に優しくしなくていいし、リンカはなーんも気にしなくていい。素のままのリンカでいてほしいんだ。嫌なことは嫌って言っていいからさ」
「沢里……」
渡されたアイスを握った手の感覚が失われていく。目の前の男はやはりなにも聞かないのだ。それどころか勝手に自分の行動を省みてしょんぼりとしている。
沢里にこんな顔をさせるくらいなら、歌わない方がよかったかもしれない。
そこまで考えてふと気付く。歌わなかったらあの一体感は味わえなかった。沢里は思慮深い人間だ。きっと私に無理をさせないように、もう一緒に歌いたいと言わないだろう。
本当にそれでいいのか?
高鳴る胸の前でアイスを強く握る。あの時私は世界に沢里と二人しかいないような、そんな気分になっていた。そしてそれを心地いいと感じたのだ。
『やりたいことを諦めてはいけないよ』
義父の言葉が脳裏に浮かぶ。本当につらいのは、やりたいことから逃げること。
「沢里と歌うのはつらくないの」
斜め前を歩く沢里が振り返った。
「声が合わさった時、すごく気持ちよかった。沢里が私に合わせようとしてくれるのも、私が沢里に合わせるのも、すごく楽しい」
「リンカ……?」
「つらいのは、昔のこと思い出すから」
握り過ぎたアイスから水滴がしたたりアスファルトに落ちる。丸く染みたその跡は、いつかの涙によく似ていた。
「聞いてくれる? 私の――中学時代の話」
▽
それは秋の終わりが近づく頃だった。
所属していた中学の合唱部は全国でも強豪と名高い名門で、毎年全国合唱コンクールの大舞台に立っていることを誇りとする厳格な性質を持っていた。
地方大会を勝ち抜くことは当然であり、全国で賞を取ることだけが目標。部員たちは毎日歌に向き合い、声を重ね、コンクールに向けて真面目に取り組んでいた。
私もその中の一人で、また副部長という立場上、部員たちを厳しく指導することも多々あった。当時の部長は気が弱く、人に注意をすることを苦手としていたから余計に私が怖がられていたと思う。
部長が飴、私が鞭役になり部を目標へと導こうというのが私たち三年生の方針だった。
そんな私たちのやり方が功を奏し、無事に地方大会を勝ち抜いて全国への切符を手に入れたそんな矢先のことだった。
『俺と付き合ってほしい』
部長の言葉に私は耳を疑った。皆で全国に向けてラストスパートをかけているという時に、告白をしてくる神経が分からなかった。
今思えば全国のプレッシャーに押し潰されそうになっていて、心の支えがほしかったのかもしれない。けれど当時の私は真剣に合唱に取り組む中に恋愛ごとを持ち込むのは裏切りだとすら思った。
『ごめん……私は歌に集中したいから』
だからあなたも目の前の大会に集中してほしい。そういう意味を込めて断った。
しかし、次の練習から部長は姿を現さなくなった。顧問に退部届を提出し、学校にも来なくなってしまった。
一人抜けただけに見えても、その穴は巨大だ。三年かけて磨き上げたメンバーの声のバランスは、あっという間に崩れてしまった。
毎日毎日厳しい顧問に怒られ、部員たちは疲弊していた。さらに悪いことに、全国大会で部長だった彼と副部長の私はソロパートを歌う予定だった。
それも急な代理を立てることとなり、担当することになった二年生は急なパート変更と顧問の厳しい指導に今さらできないと涙を流していた。
恋愛沙汰はあっという間に噂になる。部内では私が彼を手酷く振ったから部を辞めたのだとまことしやかに囁かれた。
そうして次第に部員たちの私に対する視線が、悪意を持つようになった。
歌っても歌っても声がひとつにならない。ソロパートを歌うと冷たい視線が突き刺さる。
部を混乱に陥れた原因とされた私は、受け入れられない異物と化してしまったのだった。
そして迎えた全国大会。
私はソロパートで息もれを起こし、途中で歌えなくなった。
ステージを降りるや否や酸欠で救護室に担ぎ込まれ、それからのことはよく覚えていない。
ただひとつ強烈に残っているのは、部員たちの責め立てるような視線だけだった――。
賞を逃した代償は、息もれという形で私の中に残った。
責任を取るつもりで、私は部を辞めた。もう二度と、他人と声を合わせないと誓って。
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