第15話

 その顔を見て、しまったと心の中で悔いた。電話口では思わず弱音を吐いてしまったが、情けない姿を見せるべきではなかった。沢里は【linK】のファンなのだから、がっかりするだろう。


 その考えを肯定するように沢里は立ち上がってどこかへ行ってしまった。

 やってしまった。私の考えはいつも浅い。悪い方へと転がっていくのを止められない。 


 【linK】のファンを一人減らしてしまった。


 やはり【linK】でない私には誰も興味を持ってはくれないのだ。ぎゅっと目を閉じてその事実に耐えていると、突然顔に冷たいものが当たり全身が跳ね上がる。


「ひえっ!?」


「はは、これで手冷やしときな」


 目の前には手に缶ジュースを持って戻ってきた沢里がいつもの笑顔を浮かべていた。


 自動販売機でわざわざ買ってくれたのだ。見捨てられたわけではなかった。差し出されるがままに冷えた缶を受け取ると、安堵で両目からぼたぼたと涙が落ちてくる。


 沢里はあたふたと慌てながらまた隣に座って、私の泣き顔をじっと覗き込んで言った。


「な、そんなに泣くなって。誰だって喧嘩くらいするさ。見ず知らずの人に殴りかかったわけじゃないんだろ? 俺も友達と殴り合いになったことあるよ。結構手が痛いんだよなーあれ」


 ぽんぽんと頭を軽く叩かれる。喧嘩ではない、一方的に私が殴ったのだ。そう説明しようとした口は全く別のことを呟いていた。


「がっかりした?」


 自分でも驚くほど弱弱しい声だった。到底【linK】の声とは思えない、小さな情けない声だ。


 それでも沢里は私の怪我のない方の手をぎゅっと握って言った。


「そんなわけない。俺はリンカの友達だから」


『【linK】かどうかは関係なく、まずは……友達からお願いします!』


 その台詞を聞いたときは半信半疑だった。友達とはわざわざ言ってからなるものだっただろうか。そんな始まりを経験したことがなかった。けれどそれは確かに私が心の奥底で望んだ言葉でもあって。


 そして今、泥濘でいねいに沈み込んだ私を引っ張り上げる、強烈な力を持つ言葉でもあった。


「んで、誰と喧嘩したんだ?」


「……あに、と」


「兄妹喧嘩か! だったらなおさら気にするなよ。家族だろ? そんなこともあるって」


 私を泣き止ませるためか沢里は明るく笑い飛ばそうとする。


 沢里は友達。【linK】のファンというだけではなくて、【linK】のことを分かったうえでちゃんと私の友達になろうとしてくれている。


 ならば私も、沢里に応えたいと思った。


「本当の家族じゃないの」


「え」


 親の再婚でできた義兄だと説明すると、沢里は複雑な顔をする。


 家族のことを説明するのは緊張する。けれどこれを言えないと、ここまで駆けつけてくれた沢里の気持ちに応えられないと思った。


 もらったジュースを一口飲み、意を決して口を開く。


「本当の私はね。家にいるのが嫌で嫌で仕方がない、ただの暗いやつなの。死んじゃったお父さんが唯一私に残してくれた音楽が救い。でも、あの家にいたらそれも取り上げられてしまうかもしれない。音楽より勉強しろって言われる。ピアノなんてって……。私は【linK】の陰に隠れないと音楽が続けられない。【linK】はたくさんの人に愛されているけど、本当の私は自分のやりたいことすら口に出せない。どうしようもなく情けない人間なんだ」


 沢里は黙って私の話に耳を傾けていた。


「でも私は、それでも…………」


「それでも歌いたいんだよな、リンカは」


 言いよどんだ私の言葉を、沢里が引き継ぐ。言い訳のしようもない。まったくそのとおりだった。黙り込む私をよそに、沢里は突然立ち上がって大きく息を吸う。


「歌おう!!」


 そして、広い公園の隅々にまで響くほどの大声で叫んだ。


 驚いてその顔を見上げると、星空を背にした沢里が背負っていたギターを手に取り音を鳴らし始める。


 『Just The Two of Us』に沢里の声が乗る。それは一週間前に渡した楽譜どおりだった。


 まだピアノでしか音を確認していなかったが、ギターでもいいな。なんて思っていると歌がピタリと止む。


「そうだ、ここを聞きたくて電話したんだった」


「どこ?」


「ほらここのリズム」


「ああ、ここはできれば――」


 差し出された楽譜を確認すると、ふと柔らかい視線を感じた。見ると沢里がどこかほっとしたような笑顔を浮かべていて、


「涙、止まったな」


 私は自分の頬に手を当てて、ようやくそのことに気が付いたのだった。


 沢里は愉快げに声を上げ、また歌い出す。


 沢里は不思議な人間だ。突然私の前に現れて、当たり前のようにそばにいる。その歌は私の涙さえ止めてしまった。


 まるで神様が私に音楽を続けさせるために沢里を寄越したのではと疑ってしまうほどに。


 認めてしまおう。沢里は私を救い上げることにおいては天才だということを。


 静かな公園に響くギターとバリトン。そこに、ワンフレーズだけメロディーが重なる。


 ぽかんとしたその表情を眺めながら、私はまた新たな一歩踏み出した。

 

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