第14話
私はあ然としてしまって、それを拾うこともできない。
衝撃的な勘違いに思考回路が停止する。時が止まってしまったかのようにその場が静まり返った。
透流さんはあのファミレスでの光景を見て、男女の修羅場だと勘違いしてしまったのだ。
脳内は混乱を極め、なにをどう言えばいいのかさっぱり分からない。
「柾輝くんは実の兄です」と言えば、せっかく母に黙ってくれるというのに、真偽を確認されてしまうかもしれない。
憐れむような透流さんの視線を、ただただ冷や汗をかきながら受け止める。
「ふ、ふられてないです……」
限界を迎えた思考回路ではまるで強がっているようにしか聞こえない言い訳しか出てこなかった。
「別に隠さなくてもいいさ。さすがの僕も失恋した直後の女の子に説教する気にはなれないよ。でも凛夏ちゃん、むしろ振られて正解だったんじゃないか」
『正解』。その言葉の意味を理解できずに、私は固まった首を無理やり動かし透流さんを伺う。
それは妹を慰める兄の姿に見える。しかしその視線にはどこか人を馬鹿にしているような――明らかな侮蔑が含まれていた。
「あんなガラの悪そうな男、ろくなもんじゃないに決まっている。付き合うことにならなくてむしろ正解――」
透流さんの言葉はそこで途切れた。
私はこの日生まれて初めて綺麗なアッパーを繰り出し、人を黙らせることに成功したのだった。
▽
悪いことが立て続けに起こると、もういいことなんて起こらないような気分になる。透流さんの眼鏡が綺麗な放物線を描くのを横目に、私は家を飛び出した。
右の拳がじんじんと痛む。それは初めて人を殴った代償だった。さらには治りかけていた爪も呼応するように痛みだし、自分のしてしまったことの重大さに体が震え始める。
なにも殴ることはなかった! けれど体が動いてしまったのだ。なお悪いことに怖くなって逃げ出した。行くあてもなく走り続けているうちに後悔で涙が止まらなくなる。
いくら柾輝くんを馬鹿にされたからといって暴力で解決しようとするなんて、沢里の件で言いがかりをつけてきた先輩たちと同じではないか。
無意識のままふらふらと行き着いたのは家の近くの自然公園だった。日も暮れて子どもたちの遊ぶ姿も見られない。
とにかく落ち着きたくて目に入ったベンチに腰掛ける。浅く座り足をのばして、涙が落ちないように空を見上げた。
右手を目の前にかざすと、中指の爪に貼った絆創膏が血で汚れていることに気付く。
全力で走って体が熱く、鼓動が収まらない。乱れる息を整えようと深呼吸を繰り返していると、ポケットの中でスマホが震えた。
着信の相手が透流さんだったらどうしよう。おそるおそる画面を確認するとそこには『沢里』の文字が表示されていて、思わず眉をひそめる。そういえば、先日連絡先を交換していた。
なぜこんなタイミングで、初めての電話をかけてくるのか。今はとても話す気にはなれなかった。
「リンカ? ごめんなー急に。ちょっとコーラスの部分で聞きたいことが」
――いつもどおりの沢里の声を聞くまでは。
その声を聞いた瞬間、後悔と安心感が押し寄せてきた。自責の念が渦巻く中、なにも考えず普通に接してくる沢里に気持ちが救い上げられる。
空を見ながらぼろぼろと涙が零れるのを感じた。少なくとも今沢里だけは私を責めないでいてくれるような気がして、
「――沢里、」
「リンカ……泣いてるのか?」
耳のいい沢里には泣いていることがすぐにバレてしまったようだ。私は嗚咽をかみ殺しながら、なんとか声を絞りだす。
「私……殴っちゃった。人を、グーで思いっきり。私、私……っ」
「――リンカ今どこにいる?」
「……えと、星合公園のベンチ」
「すぐ行く」
ぶつりと通話が途切れた。私はスマホを持つ手をだらりと下ろし、今の会話を反芻する。
人を殴ったことを沢里に言ってしまった。幼い子供のように泣きながら。段々情けなくなってくる。沢里はきっと心配してくれていて、家が違う方向でも駆けつけてくれようとしてくれている。
どうして一人でなんとかできないのか。沢里を待っている間、私はひたすら星を見ていた。
「リンカ!」
どれくらいそうしていただろう。聞こえてきた沢里の声に私はほっと胸を撫で下ろす。自転車乗って猛スピードで迫ってくるその背中から、ソフトカバーに入ったギターが見え隠れしている。
どたばたと自転車から降りてそのままの勢いで私の隣に腰かける。肩を上下させながら、沢里は私の頭や肩をぺたぺたと触り始めた。
「怪我してないか!? 大丈夫か!?」
「う、うん」
現れて早々に真面目な顔で問われてしまうと触るなとも言えない。右手を隠そうしたのがバレて、袖を掴まれ目の前に引きずり出される。赤く染まった絆創膏を見て沢里は眉間に皺を寄せた。
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