第12話

 ▽


 ピアノは鍵盤を押せば音が鳴る素晴らしい楽器だ。多少指が痛くても、音が出せなくなるわけではない。


 今日も練習室で一人、作曲を進める。作っては直しを繰り返しているため当初配信した時とはかなり雰囲気が変わってしまったが、それも【linK】動画あるあるだ。


 ポップス寄りの曲調を一新し、ジャジーに仕上げる。そのためにはジャズのリズムと低音がほしいところだ。


 昼間あんなことがあったばかりだというのに、私はどうしようもなく根っからの音楽好きらしい。曲作りに集中している間は余計なことを考えなくて済むというのもあるが。


 じんじんと痛む指を休ませながら、五線譜に新しい音を書き込んでいく。


 なにかに夢中になると周りが見えなくなるのは自分でも悪い癖だと思う。


 けれど誰だって、ふと顔を上げたら『部屋の窓から人の目が覗き込んでいた』なんて状況になったら、飛び跳ねて当然ではないだろうか。


 五線譜から顔を上げたらホラー映画さながらに目と目が合った。練習室のドアの小窓から。こちらを覗き込む目と。


「ぎゃーーー!!」


 思わず狭い部屋の中でびょんと飛びのき、ピアノの影に隠れた。音楽の世界から一気に目が覚め、心臓が飛び出しそうになるのを抑える。


「驚かせてごめん。声かけるタイミングに迷って……」


 無遠慮に部屋に入ってきたのは目が合った相手――沢里だ。一体いつから見ていたのか、問おうとしても驚きすぎて言葉が出ない。


「や、やめてよ……ああびっくりした」


「ごめんな」


 もしも犬の耳があったらぺたりと垂れている。そんな幻覚が見えるほどに沢里はしょげていた。


「いやそこまでは責めていない」と言いかけたが、ふと向けられる視線を辿り思い直す。


 沢里が私の手を見ながら謝っていたからだ。


 感情を取り戻したらしい沢里はテーピングを巻かれた私の手を見つめ、触れようとして止まる。そのさまよう指をじっと見つめていると悔しそうに俯いてしまった。


「俺のせいだ。リンカがどう思われるかちゃんと考えなかったからこうなった。本当にごめん」


「沢里……」


「もうこんなことが起きないように考えて行動する。だから……その」


「沢里のせいじゃないよ」


 あの時土井ちゃんになんと言われて駆けつけてくれたのかは知らないが、怪我をしたのは私がぼんやりしていたからだ。そして地面に転がったままでいたのは考え事をしていたからだ。


「でも指が。リンカの指は特別な指なのに」


「特別?」


「曲を弾く大切な指。だからお詫びになにかしたいんだ。なんでも言ってほしい」


 音楽家の命とも言える指に傷を負ったことを気にしているらしい。口惜しそうに拳を握る姿に、私は逡巡した。


 気にすることはない、爪くらいすぐに治る。そう断ろうとして思い立つ。


 もしも立場が逆で、私が沢里の指を傷つける一因になってしまったら?


 とても気にする。かなり気にする。それこそ沢里みたいな顔をするに違いない。謝っても謝っても気が済まないかもしれない。


 どうにかして私も沢里もすっきりとする方法はないだろうか。うんうん唸りながら考え、ひとつ解決法が浮かぶ。


「ねえ、弾けるよね?」


「え?」


「ピアノ。沢里の指、ピアノ弾く人の指してる」


 子供の頃からピアノを弾いている人の指の形は見れば分かる。そう言うと沢里は目を丸くして頷いた。


「ああ、まあひと通りなら」


「じゃあ、弾くのかわってくれない? ずっとこのコード弾いててほしいの。いいって言うまで、お願い」


 ピアノの正面を沢里に譲り、父の好きだったコードを一回奏でる。


 指が痛んで休み休み合わせていた、コードに歌を乗せる作業。横でピアノを弾いてもらえるのならばかなり助かる。


 便利な音楽アプリを使えば特定のコードをループ再生することなど容易いことだ。


 しかし私の作曲スタイルは昔からピアノと五線譜のみのアナログだ。慣れ親しんだ方法を崩すことには抵抗があった。


 それに沢里がなにかしたいというならば、重くもなく丁度いい頼みごとになるのではないか。


 無茶振りとは思いつつ頼んでみると、呆気なく快諾された。


 沢里の長い指が鍵盤に乗る。差し込む夕日が影を作り表情は見えないが、その絵になる光景に思わず目を細めた。


 沢里のことを好きになる人は、どんなところに惹かれるのだろう。やはりステータス? 屈託のない笑顔や、気さくな性格だろうか。


 私には笑顔や性格よりも、今この時が一番魅力的に見える。彼のこの姿を知らないのはもったいない。今こうやって真剣に音楽に向き合っている姿を世界中の人に見てほしいような、独り占めしてしまいたいような、不思議な気持ちがせめぎ合う。


「これで合ってる? おーいリンカ?」


「――あ、うん! 続けて」


 声をかけられて我に返る。ピアノを弾く沢里の姿に見とれていた、なんて。私はよほど疲れてしまっているに違いない。


 繰り返されるコードに乗せて、メロディーを口ずさむ。時々止めて、五線譜に写し、また歌う。沢里は文句も言わずに黙ってピアノを弾く。作業的だと思いながら、どこか心が解けていくのを感じた。


「Just The Two of Us」


「え? ……それ」


 沢里が呟いた英語に、私は聞き覚えがあった。ピアノを弾きながら、沢里は穏やかに笑っている。


「このコード進行。『Just The Two of Us』って呼ばれるジャズのコードだな。リンカ、ジャズも好きなのか?」


「――あ」


 そう、それだ。父が教えてくれたこのコードの名前。小さい頃に母が好きだったジャズシンガーの曲に使われていた。大切な名前を取り戻したような気分に、胸が熱くなる。


「Just The Two of Us。――うん、そう。私の思い出の音なの」


「……そっか」


 沢里はそれ以上なにも言わなかった。ピアノの音につられて、引っぱられて、驚くほど五線譜が埋まっていく。まるで魔法にかかっているようだ。


『もう沢里くんに近づくなよ』


 そんな呪いの言葉さえ、かき消してしまうような。


「……【linK】のバックコーラス、やってみる?」


「え!?」


 今日の私は絶不調。おまけに、頭に浮かんだ言葉がそのまま口に出てきてしまうポンコツだったらしい。


「やりたい!」


 それはアンチの思い通りになりたくないという反骨精神からなのか、あるいは柔らかなピアノの音に心を動かされてしまったからなのか。


 分からないままに私はまた不器用な一歩を踏み出したのだった。

 


 

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