五、ウィスパー・ノット
第9話
夜の繁華街はいつ来ても場違いな気持ちになる。
日はとっくに暮れているのに肌を撫でる空気は生ぬるく、春の終わりを感じさせた。
少し湿ったアスファルトをローファーで踏みしめる。
帰路を急ぐ大人たちの波に逆らうように駅前の喧騒を抜けると、ネオンの輝く目抜き通りに出た。
両親の帰りが遅くなることが分かっている日だけ、私はこっそりある場所へと向かう。
表通りから一本外れた雑居ビルに混ざってぽつんと建つライブハウスの前で、まるで好きなアーティストの出待ちをするファンのように、その人が出てくるのを待つ。
以前中に入ろうとしたら高校生NGを言い渡されてしまったため、こうして大人しく外で立っているのだ。
防音壁を突き破るほどの歓声が上がってしばらく経った。そろそろ私のメッセージを見てくれている頃だろう。
バタンと重い扉の開く音に、スマホを眺めていた顔を上げる。そこには待ち人の――怒り顔があった。
「制服で来るなって言ってんだろ!」
「あいたっ!!」
ごつんと一発、脳天にゲンコツをくらう。反射でにじむ視界のその先で、ライブ後の熱冷めやらぬアーティストがじっとりとこちらを睨んでいた。
パンクロッカーにふさわしい派手な衣装にメイク、耳元で銀色に輝くいくつものピアス。
その人物はパンクバンド【モルフォ】のメンバー、Masaki――言わずもがな柾輝くんである。
この姿の柾輝くんは我が兄ながら最高にクールだと思う。高校時代のジャージでゴロゴロしながら泣けるドラマを見て号泣している普段の姿とは大違いだ。
「来るなら来るって先に言えよ」
「ごめんって」
どうやらメッセージを見て慌てて出てきてくれたらしい。外で待ってる、なんて簡潔な文章に元々返信は期待していなかったが。
「ご飯連れてってよ、お兄ちゃん」
「……着替えてくる」
両親の帰りが遅い日は、柾輝くんとご飯を食べに行く。なぜこそこそとする必要があるか。その理由は私たちの母にある。
外食自体はなにも後ろ暗いことはない。事前に連絡さえしておけば趣味と習い事と新しい父のご機嫌取りで忙しい母は私のことを気にしない。
けれど相手が柾輝くんだと事情が変わってしまう。
柾輝くんの音楽活動に反対している母は、私と柾輝くんが一緒に居ることにいい顔をしない。
売れないミュージシャンだった父に散々苦労させられたからだろう。子供に同じ道を歩ませたくないと思っているのかもしれなかった。
だからいつもこうしてお忍びで柾輝くんに突撃しているのだ。
顔を見て話したいことがたくさんあるから。
▽
「補導されたらどうすんだこの不良娘」
「保護者同伴だから平気でしょ」
「母さんに叱られるぞ」
駅近のファミレスでハンバーグを崩す手を止めた。
ジンジャーエール片手に柾輝くんは他人事のように母の話題に触れる。
実の父が死んでからの一定期間、柾輝くんと母の仲は険悪だった。進路のことで揉めに揉め、二人は毎日言い争いをしていた気がする。
その頃の柾輝くんには相談事なんてとてもできる雰囲気ではなかったけれど、今ではすっかり頼りっぱなしだ。
「久しぶりに他人と歌った」
ぽつりとそうこぼすと柾輝くんは目を丸くする。
「それは――また、珍しいこった」
「ただの発声練習だけど。ほら、【linK】のことがバレた転校生とね。成り行きで。彼結構歌えるみたいでさ。……でもダメだった。私が止まっちゃった。私はまだ人と一緒に歌えないみたい」
水の入ったグラスを握りしめる。ゆらゆらと動く水面に映るのは無表情の私。
「一歩前進、だな」
「え?」
「誰とも歌おうとしなかったお前が、気紛れでも声を合わせようとしたんだ。――歌えなくなってた頃を考えれば、前進だろ?」
「それはまあ、そうだけど」
「俺はな、凛夏」柾輝くんはジンジャーエールを飲み干してから口を開く。
「あの頃のお前の力になれなかったこと後悔してる」
「柾輝く、」
「あの頃の俺は母さんといがみ合ってばかりいて、お前が歌えなくなってることにも気付かなかった。……だから今、お前が前に進もうとしているならいくらでも背中を押すつもりだ」
それは柾輝くんなりの罪滅ぼしのつもりだろうか。そもそも柾輝くんが気に病む必要はないというのに。それでも胸の辺りが熱くなってくる。
「柾輝くんは私をやる気にさせる天才だね」
「分かったなら音楽から逃げるなよ」
「うん」
私はいい方向に向かっているのだと、柾輝くんと話すと実感する。ほっとしたのも束の間、私は重要なことを言い忘れていることに気付き、いそいそと鞄から楽譜を取り出してテーブルに乗せた。
「これ今作ってる新曲なんだけど」
「おう」
「今回もコーラスお願いできる?」
【linK】の動画は基本的に私の歌声を使っているが、曲感や雰囲気に合わせてバックコーラスに男声を入れることがある。その時はこうして柾輝くんにお願いしているのだ。
しかしいつもならばぶつくさ言いつつも受けてくれるのに、なぜか柾輝くんは黙っている。
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