第8話

 うちの高校にはピアノの練習部屋がある。以前に音楽科があった名残らしく、生徒は誰でも使うことができる。本当にピアノを弾くためだけの部屋で、ピアノ一台と人が二人入れるかのスペースしかないが、私にはそれで十分だ。


「今日駅ナカのパンケーキ食べて帰らない?」


「あっごめん、今日はちょっとピアノ弾いてから帰ろうと思ってて。また今度」


「そっか。凛夏ピアノ好きだもんね、りょーかい!」


「ピアノ!?」


 そんな土井ちゃんとの会話にピクリと耳を立てたのはゴールデンレトリバーのゾンビ。


 急にキラキラとした目で見下ろされ、私はたまらず反り返ってしまう。


「見学させてください!」


「い、いや練習室狭いから無理」


「大人しくしてます! 静かにしてます! いい子にしてます!」


「ええ……」


 勢いよく迫りくるその姿は散歩に連れて行ってほしい犬にしか見えない。土井ちゃんすら若干引いているのが分かる。


 沢里が断っても断ってもめげない習性を持つことはすでに理解済みだ。こうなったら私のOKが出るまでこの場で粘り続けるに違いない。


 ――適当に弾いているところを少し見せれば満足して帰るかも。


 それになにより、このままこの不毛な戦いに土井ちゃんを付き合わせるのも悪い。


「分かった。少し、すこーしだけなら」


「やったーーー!!」


「ゴールデンレトリバーのゾンビって意味がなんとなく分かったわ」土井ちゃんはそう言って私の肩を叩き帰って行った。


 新曲の完成がまた遠のきそうだ。そのことを心の中で土井ちゃんに謝りながら、沢里と並んでピアノの練習室に向かうのだった。


 

 ▽


「強引すぎるって言われない?」


 ピアノの準備をしながら練習室の隅に立つ沢里に問いかける。


「言われたことないなあ」


「ああそう……」


 周りからの人気ぶりを考えると、無茶苦茶が許される環境で生きてきたのだろう。にこにこしていれば人生なんとかなるなんて、得なキャラクターだ。そんな憶測をされているとも知らず、沢里はニカっと白い歯を覗かせて笑う。


「まあ、こんなに必死になるのはリンカに対してだけだから」


「はあ……」


 それは、できればやめてほしい。と言っても恐らくやめてはくれないのだろう。その必死さは向けられる方も体力が削られるのだ。突っ込む気にもなれず私は黙ってピアノ椅子に腰かけた。


 まずは指練習のためにハノンを弾く。指の感覚を確かめながら鍵盤をなぞる。これはピアノを弾くためのウォーミングアップのようなものだ。しかしその時点ですでに沢里がソワソワしていることに気付いてしまった。


 目の前のご飯に「待て」をされているように落ち着かない視線に、私は指を止めてため息をつく。


「なに? 気になるんだけど」


「あ、ごめん。そういや最近歌ってなかったなと思ったらつい」


 そう言って部屋の隅で縮こまる沢里。私はその姿に見覚えがあった。


 歌いたくても歌えない、昔の自分の姿によく似ている。


「……じゃあ、歌ってみる?」


「え?」


「はいオクターブから」


 こんな提案はただの気紛れだ。ただ、歌いたいというその気持ちはよく分かる。


 私はピアノを弾きながら、ドレミファソファミレドを「」で歌い、一音ずつ上げていった。基本的な発声練習。それを繰り返し、喉を温める。


 少しして私の声に沢里の声が遠慮がちに重なった。


「もっと腹から。息使って」


 そう言うとようやく沢里の本来の歌声が練習室に響く。柔らかなバリトンから高音域のファルセット。幼い頃から音楽に慣れ親しんでいるのが分かる喉の使い方。


 相性は悪くない。いやむしろ、いい。


 どくりどくりと脈拍が上がる。


 人と一緒に歌うのは中学生の時以来だった。


 一人で歌うと決めたきっかけとなった、あの悪夢が脳裏に蘇る。


 責めるような目、冷たい声。


 指が止まる。同時に重なる声も消えた。


 かすかに指が震え、呼吸が浅くなっていることに気付く。


 もしかしたらもう大丈夫かもしれないなんて希望を抱くべきではなかった。


 ああ、私はまだ人と歌えない。


「やった……」


 ぐるぐると巡るビジョンを裂いたのは、横から聞こえた小さな声だった。


 ふと顔を上げると、沢里が喜びと驚きが混ざったような奇妙な表情でこちらを見つめている。


「リンカと一緒に歌えた!」


「……ただのウォームアップでしょ」


 たかが一往復もない発声練習で、そこまで嬉しそうな顔をされてしまうと困る。


 そう、そのたかが発声練習を最後まで歌いきれなかった事実が私の心を重く押し潰した。


「――私は今日、調子がよくないみたい。ピアノだけにするね」


「あっあのさ! だったらアレ弾いてほしい」


 沢里の言うアレとは【linK】が初めて再生数ランキングに入った曲だった。思い入れのあり過ぎる曲のリクエストにぐらりと心が揺れる。


「いいけどこれ終わったらもう帰ってよね」


「おう!」


 ネットシンガーの【linK】は本当の私。【linK】の歌は私の救い。もう誰とも歌わない。【linK】こそが私だけの不可侵領域。


 そう思っていたのに。


 楽しそうに、嬉しそうに。私のピアノに合わせて【linK】の歌を歌う沢里が、とても眩しく見えて。


 その歌声をずっと聴いていたい。なんて思ってしまったのだ。

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