四、アーリー・サマー

第7話

 家に帰ると透流さんは既に部屋で待っていた。学校を出る時に連絡してからもう大分時間がたってしまっている。


「ごめんなさい! 遅くなりました」


「構わないけど次からは遅れそうなら連絡くれるかな」


「はい、」


「これでも暇じゃあないんだ。大学の課題もあるし。でも凛夏ちゃんのためを思ってこうして時間を使っているんだよ」


「わ、分かってます。あの、本当にごめんなさい」


 透流さんの言うことはいつも正論だ。遅れた私が悪い。けれどどうしても、相手が柾輝くんだったらこんなにねちねち言わないのにと思ってしまう。いや、がつんと怒られるだろうが、その方が百倍マシだ。


 ピリピリとした雰囲気の中参考書を開き、透流さんの指示に従いながら数式を解いていく。数学は苦手ではない。なぜなら数字に音を感じられるからだ。


 これはあまり人に理解されたことがないが、マスノートに並ぶ数字の羅列はどこか五線譜の上の音符に似ている気がする。


 好きなものに似ているものは簡単に好きになれるなんて、我ながら単純だ。


 透流さんにも特になにも言われることなく黙々と手を進める。時々視線が気になるのは気にしないことにした。


 透流さんの視線が厳しいのはいつものことだ。その眼鏡の奥の瞳を、私は見ることができない。不真面目で遅刻魔の私を責めているように見えて、しかしどこか観察しているような目が苦手なのだ。


 応用問題に取りかかっていると透流さんがふと口を開いた。


「不思議な解き方をするね」


「え? そうですか」


「確かにベクトルを使っても解けるけれど、これは微積分の範囲の問題だから好ましくないね」


「答えが合っていても……ですか?」


「そう、過程の点がつかなくなってしまうよ」


 答えが正しくても、それに至る過程が試験の範囲外であるから減点になる。ということらしい。


 私はペンを持つ手を止める。


 ベクトルを使ったのは私がそうしたかったからだ。それで導き出した答えは合っている。けれどそれではだめだという。つまり私は答えを間違えたのではなく、答えに至る方法を間違えたということだ。


「透流さんは答えと過程のどちらが重要だと思いますか」


「それは数学の話かい?」


「いえ……それに限らず」


 透流さんは眼鏡のフレームに触れながら少し考える素振りをし、隣に座る私に向き直る。


「質問が漠然としているけれど……そうだね、例えば僕たちの話だとしよう。お互い連れ子同士、気を使うこともあるけれど同じ時を過ごしていくうちに本当の家族になれると僕は思うんだ」


「透流さん……」


 僕たちの話、そう言われ心が読まれているかと思った。私もまさに、今の家族を当てはめて考えていたからだ。


「だから、『家族になる』という結果を得るための過程として『時間』はとても重要だ。凛夏ちゃんはどう思う?」


 そう言って透流さんはペンを握る私の手にそっと自分の手を重ねる。一瞬ぎくりとしたが、家族になろうとしてくれているその気持ちを無下にしたくはなかった。


「あ……ええと、私もそう思います」


「よかった。僕だけが凛夏ちゃんともっと仲良くなりたいと思っているんじゃないかと心配だったんだ。凛夏ちゃんはまだどこか、僕に対して壁を作っているだろう。遠慮せず本当の兄だと思ってくれていいんだよ」


 撫でるような声に私はこくこくと頷く。


 透流さんには申し訳ないが、私は仲良くなりたいとは思っていなかった。


 どんなに優しい言葉をかけられても、その目は私を観察している。一挙手一投足を注意深く見られているような居心地の悪さはどうしても拭えない。


「さあ、勉強を続けよう」


「は、はい」


 自然と肩に置かれる手にぞわりとしながら、私は大声を出しながら暴れまわりたい気持ちをなんとか押し殺して下手くそに笑うのであった。


 ▽


 時期外れの転校生が現れてから数日が経った。


 沢里には二度と校門で待つなと釘を刺したおかげで、登校時は平穏無事に過ごすことができている。


 しかし一旦教室に入ってしまうと凪いでいた空気が一瞬で暴風に変わってしまうのが最近の悩みであった。


「おはようリンカ! 昨日の音楽番組見たか?」


「今週の洋楽チャートはもうチェックした?」


「今日のお弁当のおかずは?」


「リンカ? なあリンカ」


「あーもううるさいな! 今は土井ちゃんと話してるんだからあっち行って!」


 沢里の友達になろう宣言の後、学校にいる間は授業中以外ずっとこうだ。延々と話しかけられ、土井ちゃんとの話にも混ざろうとしてくる始末。


 クラスメイトたちは驚きはしていたが特に止める様子もなく、またやってるよという目で眺めてくる。


「凛夏、あんたどんだけなつかれてるのよ……なんだか私まで疲れちゃうよ」


「そんなこと言わないで土井ちゃん! お願い、親友でしょ」


「リンカの親友は土井かー。相手にとって不足はないな!」


「凛夏、どういう意味なのか通訳して」


「ごめん私にも分からない」


 そんな沢里の行動が大きな悩みの種であることは間違いないが、私にはもうひとつ、なんとかしなければいけないことがあった。曲作りが思うように進んでいないのだ。


 家でピアノを弾いていたらまた母や透流さんに嫌味を言われるかもしれない。そもそもそうやってびくびくしながらだといい音が浮かばない。


 そこで私は放課後の学校で作曲をすることを思いついた。


 

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