背理に抗う天秤-9-

 沈黙が僕達の間を隙間なく通過していく。異常な能力を持つ僕という存在への疑惑がぐるぐると渦巻いていく中で、どちらとも疑念を確信へと移行できぬまま時だけが過ぎ去っていく。お互いに言葉を発することなく過ぎていく時間が何だか途轍もなく長く感じられたのは、二人が互いから視線を逸らさなかったからであろう。

 そんな静寂な空間を打破したのは、ティムさんからの無線通信であった。ザザっと少しノイズの入った音がした後、慣れ親しんだティムさんの低めのバリトンボイスが、墨を落とした闇に吸い込まれていくように浸潤していく。


「……隊長、隊長? 対象が現場に突入するまであと僅かしかないが、まだ突撃命令は下りないか?」


 焦ったような声色を耳にした途端、その身は一挙に現実へ引っ張られる。レンさんと僕の絡み合っていた視線が、双方咄嗟に侵蝕者イローダーに向く。討伐対象は着実に三渡みわたり家へと近づいていた。かそけき光閃は最早侵蝕者イローダーを捕捉してはおらず、そこから十数メートルほど離れた位置で、それはずりずりと身体を引き摺るように目的地へと向かっている。

 レンさんはこの話はまた今度にしようと言わんばかりに目配せをし、ティムさんの通信に直ぐ様応答した。


「諸君、待たせたな。突撃の時間だ! 」


 号令と同時に第一部隊の面々が森の中から一斉に飛び出し、殲滅対象たる侵蝕者イローダーを滅さんとばかりに押し迫る。一切の死角がないように、四方を取り囲むように。四人共が各々正確な配置を取って距離を詰めていく。僕も「逃してなるものか」と気勢を上げて、ぐんぐん距離を縮めた。脳内では、確実に仕留める方法をシミュレーションしながら――。


 あと十メートルほどでその体躯を鉤爪で掻き切れる段階まで差し掛かったところ。このままのスピードでいけば、間違いなくその背面から致命傷を与えられるであろう状況下で。事態は一変した。

 侵蝕者イローダーは一瞬止まったかと思えば、刹那の瞬間にはロケットのように加速し、三渡みわたり家の窓をち破って屋内に侵入したのである。突然の高速化に唖然とせざるを得ない。砕け散る硝子片がスローモーションのように減速していく視界の中。僕の目は確かに俊敏に動く侵蝕者イローダーの動きを捉えていたが、如何せん身体だけは一時停止した映像にも似た状態のままであった。


 悲鳴が反響する段階で、漸く弾かれたかの如く視界が元通りになり、身体も金縛りから解かれる。「不思議な感覚に襲われたのは一体何だったのだろう」などと考えている余裕なんてなかった。ただ只管に絶叫の根元を辿る。たった数秒のロスタイムにも拘わらず、胸の内を暗澹が占拠するような嫌な予感を覚えたのだ。


 リビングの方向からだろうか。男女の叫び声と共に、食器の割れる音、壁床に物が衝突する音が鳴り止まない。「こっちに来るな、化物!」と威嚇する怒号や「いやよ、誰か助けて!」と懇願する喚声が飛び交っている。じわじわ迫り来る侵蝕者イローダーに向けて、僅かばかりの抵抗で手元の物を手当たり次第に投げ付けているのだろう。そんな光景が容易く予測できた。

 正しく犯行が起きているであろう現場を明確化するように声々が沸き上がる。その拠点へと向けて、僕はレンさん達の傍を離れ一人急行する。扉を開け放ったその瞬間、目に映るのは今正に三渡柊司みわたりしゅうじに向けて片手斧が振り下ろされる真っ只中であった。


「待っ――!!」


 ――伸ばした手は虚しくも空を切る。声を掛ける間もなく、鈍い音がした。三渡みわたり家の大黒柱たる父親の脳天に割斧が直撃している。流れるような動作で侵蝕者イローダーが頭蓋に埋まった斧を引き抜けば、鮮やかな深紅を為す血飛沫と桃色を為した肉片と脊髄液が、勢い良く飛び散った。更に阿鼻叫喚を極める母親が震え上がるのを遮るように、瞬き一つの間で彼女の右耳から鼻筋まで手斧がり込む。一瞬何をされたか分からないといった表情を浮かべる彼女であったが、次の瞬間にはその眼球がぐるんと上を向いた。斧を引き抜いて、またもや飛び散る鮮明な紅と桃。地獄絵図とはこのことをいうのだろう。無惨な情景がそこには広がっていた。

 二人の身体は、まだ死んだことを受け止めきれないといった風にビクビクと動いていた。浅瀬に打ち上げられた魚が活発にえら呼吸を繰り返しながら飛び跳ねる様を想起させるそれは、生に縋り付く本能そのものだ。しかし、その足掻きでさえも、やがては静まっていく。生の終わりと死の始まりがやってきたことを告げるのを、否が応でも悟ってしまった。


「うっ、……おええ……」


 人が死ぬ様を初めて目にして、拒絶反応を示す僕の身体は、無造作にガスマスクを外して嘔吐していた。模擬戦シミュレーションで目にしたあの酸鼻を極めた作り物とは全く違う、紛れもない現実の姿。予想だにしない惨い有様に、胃の内容物が迫り上がり、遂に全てを吐き切った暁には胃酸が胸を焼いた。

 想定外の動きに着いていけなかった、など言い訳にもならない。咄嗟の判断ミスが二人の死を招いたのだ。言葉の通じる相手ではないことを理解していたのなら、声を掛けるなんてことをせずにそのまま攻撃を仕掛けていれば良かったのに。そんなタラレバが脳裏を過っていく。


 血飛沫で染まったカーペットにへたり込み、二人の内臓を食い荒らしながら遺体を損壊していく侵蝕者イローダーを眺めて、僕は改めて護衛に失敗したと、嗚咽混じりに悔やまずにはいられなかった。

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