首輪に従う黒狗-5-

「まず少年と少佐。君達二人が共に認知していないであろう核心たる急報が存在するので、先んじてそこからことの次第を話し始めたい」


 全ての元凶となった総説叙述の皮切りとして、桐生きりゅう氏は僕とその真隣に佇む白髪の男・ルベルロイデ少佐が知り得なかった情報展開の開示を申し出る。口元の前で両手を組み、厳めしく告げるそれは、ただただこちらに切迫感ばかりを強要する。


「だが少年。これから話を進めるにあたって【君の名前がない】というのは、説明における最大の妨げになる。間に合わせでも何でもいい。まずは君の仮の名を決めようじゃないか。生憎僕は名付けのセンスがないのでね、君が思いついたものにしよう」


 確かにこれから切り出す解説において、僕の名前がなければ積もる話もスムーズに運ばないだろう。適切な仮名を案出することも適わぬため、僕は嫌々ながらも先ほどコールマン大尉から命名された【ハチ】という呼称を提言した。


「なるほどね。君のその秋田犬の顔隠し仮面から忠犬ハチ公名犬の名前をチョイスするとは、コールマン大尉も存外ユーモアに満ちているようだ。子犬のような坊や、君にぴったりの名じゃないか。何より呼び易いというのがいい」


 くつくつと目尻を下げながらも皮肉る桐生きりゅう氏に対し立腹するほど、最早気力は微塵たりとも残されていない。半ば諦めの如く、「笑いたけりゃ笑えよ」といった面持ちでいた。無論気に入らない名前ではあるが、馬鹿や阿保などの侮辱的乃至ないしは嘲弄的な渾名で弄られるよりはマシだ。何より自身に命名の感性があるとも思えない。碌でもない名前を己自身で付けたことで、後になってから恥を掻くのは、もっと御免である。そんなこんなで、これから【ハチ】を名乗ることへの抗いを喪失した僕は、桐生きりゅう氏にこれまでの粗筋の釈明を急かすようにして、「それで、僕達二人が双方共に認知していない本題の核心たる急報とは?」と世田話をった切った。


「ああごめん、話が逸れたね。そうだな。ハチ、君の正体はね――」


 ――この第三師管区総司令部における密偵スパイとして、軍管区総司令部総本部から招致された、上層の監査官たるお役人だよ――


「「……は!?」」


 初めて、少佐と反応が被った。それも当然。僕も彼も、まさか【ハチ】という人間が秘密裏に用意された軍部上層の役人であることなど、知りもしなかったことなのである。しかし、己が重要な密命を担った役人だとしても、記憶喪失であることの説明が付かない。その根幹たる理由を問えば、桐生きりゅう氏曰くそれは先の任で負傷した後遺症なのだそうだ。

 思わず訳が分からないと不審が口を衝いて出た。起床時から記憶喪失のスタートを切った自分にとって、先の任務というのも知り得ないことであるからだ。徐々に疑問を紐解いてみれば、何とこちらに派遣される前に負った傷で記憶喪失を生じた僕は、先日戦線復帰したばかりの新米密偵スパイなのだと言う。そこから更なる記憶喪失を生じたとは誰もが想定しなかった事実であり、何故記憶喪失のオーバーラップが生じているかについても誰もが感知しないところにあるのだと。


 当初は桐生きりゅう氏自身も、【ハチ】が突如上層部から根回しされた監査官であることを認知していなかったらしく、上からの下知があって即座に少佐の暴行停止合図を送り出したようだった。「情報共有が杜撰過ぎやしないか?」とも考えたが、秘密警察のような監査任務が大っぴらに周知される訳もないので、この事故自体は言わば仕方のない出来事だったのだと、何となしに納得はした。そう、あくまで納得しただけで、この突然の暴挙を免じたのではない。


「閣下。何故ハチが密偵スパイに選抜されたので? 何故小官の私室に居たのです?」


 少佐が声を上げる。彼は何故片生かたなりの【ハチ】が重要な役割を背負う密偵スパイとして選定されたのか、何故送出先が第一級接触禁忌種厳重管理区域だったのか、それらが知りたいらしい。上層部の役人である僕に与えた暴行の罰則を少佐本人が受けるのかどうか、それ自体はどうでもよいのか、「必要とされる罰なら甘んじて受ける」といった態度を示した。しかし少佐の問いに桐生きりゅう氏は明確な答えを出さなかった。


「少佐、これは君のことを既にこちら側・・・・と認識して教示した情報提供だ。とは言え、誰がいつどこで裏切り者と内通しているかまでは僕も掴めていないからね。故に仔細は話せない・・・・。故意に話さないのではなく、話せない・・・・んだよ」


 まあ、計画の要となる【ハチ】が現地に召喚されたにも拘らず、任務続行が困難になる程度の負傷で記憶を喪失したため、計画は頓挫した訳だが。桐生きりゅう氏は取り繕った笑顔でそう付け加える。一軍人たるもの、任務遂行の不履行によっては、己の不甲斐なさに打ち拉がれるところなのだろうが、幸いにして何も覚えていないパッパラパーな僕の気分は酷く平常運転である。果たしてそれがよいことなのか不明だが、精神的な健康が保たれたのだとプラスに考えておく。


 また、現状新たな密偵スパイが用意されるかどうかも不明で、それが総本部より桐生きりゅう氏に下知されたとしても、今後少佐に共有するつもりはないとのこと。そうして、桐生きりゅう氏はルベルロイデ少佐の質問を軽く受け流した。

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