首輪に従う黒狗-4-

 ざわり――胸騒ぎがしたのと同時、脳の片隅に疼痛が走ったのはほんの一瞬のことだった。一度頭を強く打ち付けられているため、「その後遺症か?」とも考えはしたが、電流が走るようなピリピリとした痛みが果たしてそうなのかと問われると、生憎と自信や確証などは持てない。一説によれば、脳挫傷・硬膜下血腫・くも膜下出血の類で起こる頭痛は、ズキズキとした疼痛がおもむろに悪化したり、嘔吐を繰り返したりすると聞く。現在生じている頭痛は静電気で弾かれるような感覚が継続する状態で、鈍器で殴られたような痛みではないことを踏まえると、重大な脳疾患に陥ってるとは考えにくい。素人ながら、緊急性はないと判断して、僕は目前に準備された重大イベントをクリアするため、思考を再開することにした。


 だが、ふと「頭痛の発端は何だろう?」と考えてしまう。これから行われる生死を賭けた男性の尋問に緊張したのか、或いは好々爺然とした柔和な見目にも拘らず隙を感じさせない男性の完全性に躊躇したのか。双方共に、原因の追及には至らぬほどのもので、それが何だか腑に落ちない。然れど束の間に迸る神経系の激痛のようなものに、僕は片膝を着いてぐっと蹲るを得なくなってしまった。蟀谷こめかみを押さえ、鋭い痛みが通過するのを粛然と待つ。徐々に和らぐ頭痛に安堵した直後、ひたと今現在置かれている状況を再認識した。


「あ……」


 判事の目前で醜態を曝すなど、一体僕は何をしているんだ? 瞬く間に鳴り止んだ頭痛の正体など、今この場において気に留めている暇などない。「大丈夫?」と心配の声が掛かる中、「気にしないでください」とだけ答えてすっくと立ち上がる。


「お、初にお目にかかります。……えっと、閣下……?」


 先の失態を取り繕うべく、苦笑いで場を切り抜けんと目論む。すると眼前では六つ釦ダブルの高級スーツを身に纏った四十前半の男が首を傾けていた。オーダーメイドと思われるスーツを着熟きこなし、貴紳の雰囲気を醸し出す人物の前で、何とも無様な恰好を見せてしまったことは、汗顔の至りである。


「具合が良くなさそうだが、これからの長話に耐えられそうかい?」


「軽い眩暈です、本当にお気になさらず。それよりも閣下、話を続けましょう」


「ああ、何も畏まることはないよ。君は僕の部下でも何でもないからね。僕のことを閣下と呼ぶ必要もない。普通に【おじさん】と呼んでくれても構わないよ」


「い、いえ。初対面の方に向かって【おじさん】呼ばわりは失礼なので、遠慮します。……では、大変恐縮ながら【桐生きりゅうさん】と呼ばせて頂きますね」


「君は随分と律儀な子だね、関心関心。最近の若い子はすぐに四十台を【おじさん・おばさん】と呼びたがる気がしてね。てっきり君もその部類かと決め付けてしまっていた。これは失敬」


「四十台男性は十分に【おじさん】の部類に所属するものと小官は思量致しますが」


「少佐、君は黙ってて頂戴。現に彼は僕を【おじさん】とは呼ばなかったんだから、断じて僕は【おじさん】じゃない。分かるかい?」


 存外よく喋る男性に、僕は少し親しみを感じた。が、親しみなど今は不要だと切り捨てる。何故なら隣に佇むこの銀髪の男もまた、邂逅直後近い距離感でこちらの波長を乱してきたからだ。後から恐怖を演出する、なんてことが今後有り得るのだとしたら、不用意に親しみなど持たぬ方が良い。この数時間で学んだ教訓である。


「僕は桐生真澄きりゅうますみ。この軍における陸軍中将かつ陸軍参謀総長で……と言っても一般人には分からないか。【第一級接触禁忌種厳重管理区域の監視官総括役の一人】だ、とでも言えば、少佐の正体を知った今の君にも何となくは通用するかな?」


 第一級接触禁忌種厳重管理区域監査官総括役、桐生真澄きりゅうますみ。これだけでも大層な肩書だというのに、今この男は陸軍参謀総長だと言ったのか。参謀総長と言えば軍上層部においても錚々たるメンバーの一人に違いないというのに、こんなぽっと出のキャラクターみたいに出てきて良いものなのかとほとほと困惑する。奇天烈なお偉方の登場に、僕はただただ目を丸くしていた。


「君の名は、っと。……ああ、そういえば今の君は記憶喪失なんだったね」


 この重鎮は、まず手始めにとでも行きそうな勢いのまま僕の名を尋ねるが、ひたぶるに僕が記憶喪失で名すら持たぬ厄介児であることを回顧する。「何故僕が記憶喪失であることを、少佐からの報告も受けずに知っているのか?」と怪訝に思っていると、ばつが悪そうに苦笑する桐生きりゅう氏に違和感を覚え、そして唐突に気付いた。


「……そうか。あの白い窓の外から全部見てた、んですよね」


 心中に薄らと暗雲が立ち込めた。何故ならそれは、先刻の僕達の血腥い遣り取りを見ていたからこその発言で。分かってはいたものの、僕がやられるがままだった流血沙汰を彼はただ黙認していたのだ。そう思えばこそ、やはり最初に親しみを持たずにいて良かったと落胆する。

 次いで訪れる申し訳なさそうな言葉に対し、「あの暴力行使を見ても助けてはくれなかった癖に」と、少し暗鬱とした感情が胸の内で蟠るのは、仕方のないことだった。


「銃弾で肩と腿を撃ち抜かれるなんてことは初めての体験だろうけど、処置後の傷口はもう大丈夫だろうか。すまないね、ウチの馬鹿犬が。君に与えた苦痛が許されるとは思わないが、あれも命令通りに動いただけで悪意はないんだ。許してくれなど簡単に言える身ではないのは十分承知の上、どうか一思いに恨まないでやって欲しい」


「そんな、簡単に言われても。――無理がありますよ……」


 卒然と飛び出した言葉は、赦免たるものではなかった。そりゃそうだ。悪いことをしたという自覚がないまま暴力による制裁を受けたのだから。今要求するものは謝罪でも贖罪でも何でもない。ただ唯一、欲しいのは――。


「全て見ていたなら、僕の状況説明は必要ないですよね? それならば、まず状況の説明を願えますか。桐生きりゅうさん?」


 そう。今必要とするのは、右も左も分からぬ環境から脱するための状況把握。何故訳も分からぬまま禁足地に放り出され、何故訳も分からぬまま暴力を行使され、何故訳も分からぬまま生死を左右される被告人の立場に立たされているのか。その理由が欲しいのだ。これまで何の説明もないまま、言われるがまま、されるがままにこの身を預けていたが、既に意味不明な状況に曝されるのも限界であった。


「そうだね、こんな状況だ。事情を説明しようか。君の処遇はそれから決めよう」


 桐生きりゅう氏はそう言い、見ていた者だけが知り得る情報の提供をし始めた。

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