蜜月のワイン煮込み

 赤黒いソースに染まった肉がひとかけら、中年の貴婦人――王太子妃殿下の口へ消える。青い目が何度か瞬き、次いでうっとりと細められた。


「これは何のお肉ですの?」


 向かいに座る王太子殿下が、苦笑いしつつ答える。


「牛肉のワイン煮込みだよ。さっきラウル料理長が言っていただろう」

「でも……信じられませんわ。牛肉は、もちろん何度も食べておりますけれど、ここまで美味しいものだとは」


 語らう息子夫婦を、上座の国王陛下と王妃陛下が微笑みつつ見守っている。純白のクロスに覆われたテーブルには、全員の目の前に同じ肉料理の皿が並ぶ。最上級の牛もも肉を、王立醸造所が手がけた最高品質の赤ワインで煮込んだ一皿だ。

 まあ、どうということはねえ。良い肉を良い酒で調理してるんだ、大きな間違いさえしなけりゃあ、それなりに美味しくはなる。あとは香草や香辛料だけ少々工夫してやりゃあいい。百人のうち九十九人までは、いや、千人のうち九百九十九人までは、それで満足させられる。

 もっとも――今日この卓に、その程度のものを出したつもりも、俺は毛頭ねえんだが。




 白髪の客人こと、お忍びのフェルディナンド国王陛下を店に迎えてから二か月後。

 俺はデリツィオーゾ城の宮廷料理人として召し出されていた。豪勢な厨房と下働きたちを与えられ、国王陛下と御家族の日々の食事を作っている。

 陛下と王妃、王太子殿下とその奥方は、俺の料理を毎日毎食手放しで絶賛してくれる。あふれんばかりの賞賛と笑顔は、城下町で店を持っていた時と変わりない。……まあ当たり前だ。天才料理人の技術にも味付けにも、素人がわかる水準のほころびなんざ、あろうはずがねえ。

 だが。千人のうちたった一人、素人に――いや、俺自身にさえわからねえほころびを見抜くやつが、ここにはいやがる。


「今日の煮込み肉、セージとローズマリーが少し効きすぎていましたね。使うワインも、あと少し熟成したものが良かったでしょう」


 洗い物をする下働きたちの間を抜け、毒見役レナートがいつものように言いにきた。俺は厨房の隅で、椅子にだらりと腰かけながら聞き流す。


「聞いていますか」

「聞いてねえよ」


 レナートが吹き出した。


「聞いていない言葉に返事をするとは器用ですね」

「俺は天才だからな」

「確かにそれは認めますよ。今日の香料の具合にしても、私以外にはわからないささいな差ですから」

「ささいな差をわざわざ言いにくる、『神の舌』様の性格の良さには涙が出るぜ……」


 俺は、厨房の隅に置かれていた発注用の黒板を手に取った。今は何も書かれていない面を、レナートにひらひらと見せつけながら、白墨チョークで書きつける。


『ドクゼリ 一束』

『ドクウツギの実 一籠』

『トリカブトの根 五本』


 レナートが、声を殺してくっくっと笑った。俺の手から黒板を取り上げ、白墨で一行を書き足す。


『絞首台 十台』


 線の細い、神経質そうな整った字が、いかにもこいつらしい。


「なんで十台なんだよ」

「私が毒見をする皿は、国王御一家が召し上がる皿ですからね。私への害意は、すなわち陛下への害意。大逆の罪が、あなたの身一つで収まるとお思いですか? 親類縁者、元の店の店員たち……十台用意しても、休ませる暇はなさそうですよ」

「人質かよ。やり口が汚ねえ」

「まるで、他人に毒草を食べさせようとする人間が善良であるかのような言い草ですね?」


 口でもこいつに勝てねえのは、少しばかり悔しい。レナートはこれ見よがしの大きな溜息をつきつつ、黒板を俺に返してきた。


「正直、あなたには少しばかり失望しましたよ。『神の舌』を既知の毒物で害そうなどとは、あまりにも浅知恵が過ぎる」

「……どうだかな」


 目を細めてにらみつけてやると、レナートはわずかに首を傾げた。


「ドクゼリもドクウツギも、私は食べたことが……食べさせられたことがありますよ。一度口にしたものの味を、この舌が見過ごすことなど――」

「あんた、俺を誰だと思ってる?」


 レナートの返事が、止まる。

 俺は素早く、黒板に行を足していく。岩塩、酢、ワイン、オリーブ油、ニンニク……書きつけつつ、俺はレナートを横目で見て、にやりと笑った。


「食べる途中で手が止まるような皿を、天才料理人が作ると思ってんなら……ずいぶん、見くびられたもんだぜ」


 思った通り、レナートはくっくっと声を潜めて、愉快げに笑いはじめた。そうして、俺の手を取った。

 日頃ナイフとフォークより重い物を持っていなさそうな手は、洗い場で荒れた俺の手と並ぶと、卵の肌のように白く艶やかだった。


「あなたなら、たとえ地獄の底であっても、無上の料理を作り上げられそうですね……灰の林檎も硫黄の苺も、この手にかかれば美食の一皿に化けるのでしょう」

「まあ、な。冥府の悪鬼を手なずけるくらいのことは、やってやるぜ」

「とんでもない」


 にやついた笑いを浮かべながら、レナートは首を横に振った。


「悪鬼の舌になど、くれてやりませんよ。至上の食味は、それに値する者だけが味わうべきです。……ですので」


 レナートが、また俺から黒板を取り上げた。ぎっしり書き込まれた行を、手早く消していく。ドクゼリもドクウツギもトリカブトも、絞首台も、綺麗になくなった。


「くれぐれもおかしな気を起こさないことです。このデリツィオーゾ王宮で、国王陛下のために究極の美味を追い求めること……あなたという存在は、そのためにここにいるのですから」

「他人の人生の意義、勝手に決めて楽しいか?」

「楽しいですよ。とても」


 訊いたことを少しばかり後悔しつつ、俺はまっさらになった黒板を取り返した。レナートは相変わらず、にやにや笑っている。


「極上の味をさらなる高みへ導くことが、今の私の使命です。あなたの技が、はたしてどこにまで至れるのか、期待していますよ」

「そうかい……」


 とはいえ、俺もまんざらではなかった。明日の食材の注文内容を考えつつ、俺はレナートの後ろ姿を見送る。

 俺の作る皿を、おそろしく精緻に味わえる人間がこの世にいる。小言は鬱陶しいが、確かにこいつの存在は、料理人として励みであり希望だった。




 あの日までは。

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