第3話 理想の肉体、素敵かも…?

結局、朝食の席では自分の名前はおろか、今この場所のことすら何もわからなった。広すぎて案内がなければ迷ってしまいそうな家の中を、先導してくれる老婆に従って部屋に戻る。彼女によると、これから家庭教師が来るそうだ。

(それまでの間に…)

先ほどは呆然としすぎて部屋の中すらしっかり見ていなかった。改めて、ぐるりと見渡す。司は不動産に詳しいわけではないのでざっくりとしかわからないが、かなり広い。家のリビングぐらいだろうか。とすると、およそ22畳あるということになる。その一角にはクローゼットのような引き戸がついており、開けてみるとそこだけで一部屋になりそうな空間が広がっていた。全て服で埋まっていたらどうしようかと思っていた司だったが、予想に反してそこは書庫らしい。この体の持ち主は、4.5畳ほどのこの空間に本棚を並べ、そこに隙間ないぐらい本を詰め込んでいた。

「すげーな。なんだこの量」

ざっと背表紙に目を通す。文字がわからなかったらどうしよう、という懸念をしていたが、幸いなことに見慣れない文字ではあるが、意味はすんなり頭に入ってきた。

「えーと、なになに……『猿でもわかる白魔術~肉体改造編~』、『食べられる生き物とその調理法』、『ムスクルス王国史』……よくわからん」

雑学から勉強まで、幅広い内容があるおかげで持ち主の趣味がわからない。ひょっとすると、今から来るという家庭教師に勧められ、勉強の一環として入手したものも多いのかもしれなかった。

「そうだ、鏡…鏡ないか…」

一通り見て回ったところで、はたと気づく。先ほども手の大きさに違和感を感じたが、視線の位置もおかしい。今までより、少し高い気がした。

いいところの坊ちゃまの部屋なら鏡ぐらいあるだろう、と部屋を探索していると、大きめのタンスを開けたその扉の内側が鏡になっているのを見つけた。全身見れるほどの大きさはないが、仕方がない。その鏡を覗きこんで、司は悲鳴を上げそうになった。

「―――っ!」

そこに映っていたのは、知らない誰かだった。モヤシ野郎、と兄に揶揄されていたひょろがり体型の青年はそこにはいない。立っていたのは、ガッチリした肩幅を持つ、背の高い青年だった。パチ、と瞬きする目は丸くて大きい。そのおかげか、自分視点ではあるが威圧感はあまり感じない。広い肩から下に目を移せば、見事に盛り上がった上腕二頭筋が目に入る。試しにムン、と力こぶを作ってみるとものの見事に膨れ上がった。

「おおお…」

理想の体型、と言っても過言ではない。司は、つい状況を忘れて目を輝かせた。シャツのボタンを外し、上半身を露にする。鏡では胸元あたりまでしか映らないが、それでも十分だ。

「すげえ…ムキムキじゃん」

女性のような柔らかさはないものの、Cカップぐらいあるのではと思うような大胸筋にうっとりと目を細める。何度かポージングして、鍛えられ盛り上がった筋肉が自在に形を変えるのを楽しんだ。

「あの、坊ちゃま…?」

「ハッ!!」

むふふ、と含み笑いをしながら鏡と向き合っていた司は、控えめにかけられた声に飛び上がった。慌てて振り向くと、困ったような笑みを浮かべた老婆が立っている。滝のように、冷汗が流れた。

「や、あの、えっと……」

「先生がいらっしゃいましたよ。支度をなさってくださいませ」

流石プロと言うべきか。挙動不審にどもる司に対して、彼女は何も見ていません、と言わんばかりのアルカイックスマイルで非常に業務的な内容を口にする。いっそ何をしているのだと問い詰められた方が理由を説明できて気持ちも楽になったというのに、ただ彼女の中で処理されてしまった。

(どう思われたんだろ……)

感情の読み取れない微笑みが、いっそ怖い。




「こんにちは坊ちゃま。ご機嫌麗しゅう」

「こ、こんにちは…あの、体調でも悪いんですか…?」

「いいえ?私は大変元気ですよ」

「そ、そうですか」

きちんと身なりを整えてから連れて行かれた先に待っていたのは、これまたマッチ棒のような体型の男だった。老人のように遠目では見えたが、ハキハキした喋り方や近づいた時の肌の張りからまだそれほど年ではないことがわかる。遠目で年老いて見えるのは、細身なことと、少し猫背気味の姿勢のせいだ。

顔色も悪い。色白、と言えば聞こえばいいが、青白くて日に当たっていない、不健康な白さだ。教科書と思しき分厚い本を抱えている腕はその重みで折れやしないかと不安になる。長い指も骨ばっていて、血色の悪い、薄い爪が気になった。


勉強部屋は、司が思っていたよりも狭い。先ほどの自室の半分ほどだろうか。余計なものを置かないようにしているのは、気が散らないためかもしれない。机が二つ、向かい合うように並べられていて、机の端には紙が積み上げられている。紙の束の反対側にはインク壺と羽ペン。そっと手に取ってみると、思いのほか手に馴染んだ。壁際には背丈の低い本棚がいくつか置かれているが、空きが目立った。

「では、続きから…」

「え゛」

司が椅子に腰を下ろすと、老婆は一礼をして部屋から出て行った。向かいに腰を下ろした教師がさも当然のように続き、と口にするのを聞いた司の口から変な声が出る。

「どうなさいました?」

「えーっと…」

当たり障りなく、何を学んでいるのか聞く方法を頭をフル回転させて探した司は、早々に白旗を上げた。

「何してましたっけ、俺…」

目の前に座る教師の顔が直視できない。しばしの沈黙。

「おやおや坊ちゃま、また別のことをされて、復習を忘れておられたんですか?仕方ありませんねえ」

やれやれ、と溜息を吐く教師の口ぶりからは怒っている気配はない。むしろ、いつものこと、のような雰囲気だ。

(どんな奴だったんだ俺)

どうやら中々に不真面目な生徒だったらしい。懇切丁寧に前回の内容から教えて呉れようとする教師の声をメモするべく、司は積み上げてある紙を引き寄せた。

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