第2話 はじめまして、世界
「さあさあ坊ちゃま、朝ごはんの時間ですよ」
ニコニコと人の好さそうな笑みを浮かべて手際よく衣服を用意してくれるのは、絵にかいたような『ばあや』だ。白髪が混じって灰色になった髪をおくれ毛一つなくきっちり結い上げ、足元まですっぽり覆う黒いスカートに清潔感のある白いエプロン。
(メイドさん、ってやつ……?)
女性の服の知識に乏しい司には詳しい判断はできなかったが、マンガで見たような衣装だった。
「坊ちゃま?どうなさったのですか?」
優し気な笑みを向けてくる老婆が呼びかけている『坊ちゃま』が自分のことであると認識するまで、暫しの時間を要した。
「え、あ、ああ…」
ハッと我に返り、ベッドから降りる。窓の外の日差しは明るく、老婆の発言からして今は麻らしい。
(いやおかしいだろ。俺、晩飯食べてたんだぞ?)
促されるままに着替えつつも頭の中はパニックだ。知らない洋服のはずなのにスルスルと手が動くのは、やはり『知っている』からだろうか。ほとんど無心で着替え、どこをどう歩いたかもわからないうちに辿り着いていたのは食堂だった。
(うわ、広…)
だだっ広い室内は、司の自室がゆうに三つ分は入りそうだ。ど真ん中に据えられているのは両端に座ると会話などできないだろうと思うほど大きな長方形のテーブル。その上には淡いクリーム色のクロスがかけられている。
「遅かったな、さあ座れ」
一番上座に腰かけている壮年の男性が父親だろうか。尊大な仕草で司に着席を促したが、その態度よりなにより、司が気になったのは父親と思しき男性の体格だった。
(ほっっっそ!)
初対面―実際には違うが司の気持ち的には初対面で間違いない―の相手にその言葉を口に出すのは失礼だと、流石にこの状況でも理性が働いたので何とか言葉を飲み込み、まるでブリキの玩具のようなぎこちない仕草で老婆が進める席に腰を下ろす。
男の年の頃は50代ぐらいだろうか。黒々とした髪を整髪料でオールバックにしており、眉も目もキリリと吊り上がっていてキツイ印象を受ける。頬は細く尖っていて、顔つきと合わせて神経質そうにも見えた。スーツに近い服に包まれた体は、着やせを考慮しても随分ほっそりしているように思える。
(やっぱあんまり細いと見てて怖いな。俺もデカく…なり…な…)
自分を鏡で見て細いな、と落胆したことは幾度もあったが、同じぐらいの体格の相手を客観的に見たことはあまりなかった。こうして見てみるとスーツを着ていてもどこか不安定で、やはりもう少し肉をつけたい、と俯いて溜息を吐く。
と、自分の手が視界に入った。
「え?!デカくね?!」
記憶の中の自分より、三周りぐらい手が大きい。思わず声を上げてガタリと立ち上がると、向こうにいる父親(らしき男性)から𠮟責が飛んできた。慌てて座ろうとして、見下ろした自分の足も丸太のような太さであることに動揺する。ガタガタと派手に椅子を鳴らしてようやく座ったが、心臓の鼓動はまるで全力疾走した後のように跳ね上がっていた。
(え?どういうこと?これ、俺?)
先ほど着替えた時には現状の把握で精一杯で、自分の体格の変化にまで気が付いていなかった。確かに、何となくいつもより服が大きい気がしたが、明らかに異世界である以上、それまでのサイズ感など何の役にも立たないだろうと気にしていなかった。
「さあ、お召し上がりください」
音もなく目の前に皿が置かれる。広いテーブルが無駄に感じるぐらい、皿は少ない。ホカホカと湯気を上げる焼き立てのパン、透明なスープ、飲み物にコーヒー(らしきもの)。
(え?!これだけなの?!)
用意してもらっておいて失礼だが、司は唖然とした。正面に座っている父親(多分)は何も言わず食べ進めている。これが、この家での普通の食事なのだろう。
司の家では、朝から白米、肉または魚、野菜、汁物、とガッツリしたものが並ぶので食事のギャップに眩暈がした。仕方なく手を伸ばしてパンを口に入れる。幸い、知っているものと同じ味がしてホッと肩の力を抜いた。スープからも、優しい野菜の甘みがする。
(肉食いてえ…)
この食事が日常だと言うのなら、司が入ってしまったこの体の持ち主はよくもまあこれだけ成長できたものだ。世話をするためか、食堂に留まっている使用人らしき人たちも軒並み細身の体躯をしているのも、食事事情がこれならわからなくはない。おそらく、お金を持っているだろう自分たちでさえこの食事内容なら、そうでない人たちはもっとひどいのではないだろうか。
(この世界を、知らないといけないな)
そもそも、司は今の自分の名前さえ知らないのだ。まさか、私は誰ですか、なんて聞くわけにもいかない。誰か呼んでくれるかな、と思っていたのだが坊ちゃまとしか呼ばれず、父親らしき男性も呼びかけようとはしなかった。
(とにかく、俺自身のことと、この場所のこと。何とかして調べないとな)
アニメや漫画の異世界転生なら、こういう時もともと持っている知識が発動するのだがいくら頭を振り絞ってみても浮かんでくるのは茂屋司、という自分の名前だけだった。そう都合よくはいかないらしい。
「ご馳走様。私は仕事に行く。しっかり励むように」
一足先に食事を終えた男性が立ち上がり、司に一声かけて出ていく。どうせ声をかけるなら名前を教えてほしかった、と思いつつペコンと頭を一つ下げた。
(何に励むの?)
勉強、とかだろうか。まずこの世界の文字が読めるかも不安なのだけれど。前途多難、という四文字が脳内で踊り始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます