NAMO AMITAABHA

沢田和早

NAMO AMITAABHA

 篝火に照らされた夜闇には百姓たちの喧噪が満ちていた。野良着の者がほとんどだが手製の粗末な具足を身に着けた者もちらほら混じっている。己の姿を見てみれば藍染木綿の上衣に継ぎだらけの野良袴。右手に握った鎌の刃だけは研ぎ澄まされて鈍い光沢を放っている。


教如きょうにょ様のお言葉だけを信じっておったらええ。武田の動きに合わせて小島様は必ず富山城を攻め落とす。わしらもこの機に乗じて鳥越城を取り戻しょまいや」

「おおー!」


 頭領の飛ばした檄に鼓舞され喚声をあげる門徒衆。靄がかかったようにぼうっとしていたこれまでの記憶が次第に鮮明になってくる。違う。こんな場所にいるはずがない。こんな場面に出くわすはずがない。自分は大学生。夏休みを利用した自転車輪行旅行の途中だったはずだ。


 自転車は分解して輪行袋に入れれば手数料無料で電車に持ち込める。東京から富山まで北陸新幹線で行き、そこから自転車で金沢、福井、米原と進み、東海道新幹線で帰京する。これが今回の旅程だ。


 その旅の途中で石川県白山市に立ち寄ることにした。ここには約二十キロに及ぶ自転車専用道、手取キャニオンロードがある。廃線になった北陸鉄道金名線の加賀一の宮駅から白山下駅の跡地を利用して作られた道だ。自転車も鉄道も大好物な自分にとっては垂涎すいぜんものの道と言えよう。


「雨、やまないなあ」


 昨晩からの雨はまだ降り続いていた。警報も出ている。だからと言って旅の予定を変更するわけにもいかない。長靴と上下雨合羽の重装備で朝早く宿泊地の金沢を出発した。

 進路を西に取って日本海に出た後は海岸線と平行に走るしおさいロードで南西に向かう。松任市からは加賀海浜自転車道で美川港まで走った後、手取川に沿って東進し北陸鉄道石川線の鶴来駅近くにある十八河原公園に到着。手取キャニオンロードはここから始まる。


「神社みたいな建物だな」


 加賀一の宮駅の駅舎は休憩所になっていた。入口が唐破風屋根なのは近くに白山比咩神社があるからだろうか。廃線になる前は初詣客で大いに賑わっていたのだろう。ついでに参拝したかったが大雨なので断念した。


 手取川に沿って南へ進み、大日川と合流する辺りで自転車道を外れた。行きたい場所があったのだ。鳥越一向一揆歴史館。信長に鎮圧されるまで百年に渡って加賀を支配した本願寺門徒たちの歴史と、彼らの最後の拠点となった鳥越城に関する資料が展示されている。古いモノが大好物な自分にとっては垂涎ものの施設と言えよう。だが、


「うわー、休館か」


 下調べが足りなかった。空調設備工事のため八月いっぱいは休館となっていた。


 気を取り直して大日川の対岸にある鳥越城に向かう。登り口から山上までは舗装道なので自転車でも余裕で登れる。

 駐車場に自転車を置いて城跡を歩く。中世の山城にしてはよく整備されており、石垣造りの本丸枡形門、土塁に挟まれた本丸櫓門が復元されている。


「晴れの日はさぞかし気持ちのいい眺めなんだろうに、残念」


 本丸西の木柵に手をかけて麓を見下ろす。山に囲まれて田園風景が広がっている。この地で激しい戦闘が繰り広げられたとは信じられないほど長閑な眺めだ。


「どうしてあんなに抵抗し続けたんだろうな」


 三河の一向一揆は家康に、越中は謙信に、長島と越前は信長によって鎮圧された。そして教団の総本山である石山本願寺も十年の抗争の末、ついに信長に膝を屈した。

 それでも白山麓門徒衆は己の信念を曲げようとはしなかった。勝家の調略によって一度は落城した鳥越城を取り戻し、盛政によって鎮圧されるまで「百姓の持ちたる国」を守ろうとした。彼らをそこまで突き動かした原動力は純粋に宗教上の理由だけだったのだろうか。


「雨脚が強くなってきたし、そろそろ帰るか」


 木柵から手を離そうとした時、周囲が激しく光った。間髪を入れずに雷鳴が轟く。視力と聴力を同時に失い何もかもが闇の中に消え去ったと思った次の瞬間、大勢の百姓に囲まれて突っ立っている自分に気づいた。


「わしらには教如様が付いておられる。阿弥陀様が付いておられる。怖れる者など何もない」


 いきなり時代劇の中へ放り込まれたような気分だ。先ほどまで楽しんでいた城跡散策とは似ても似つかぬ状況の中に自分は置かれている。


「あり得ない。こんなことが起きるわけがない」


 だが今目の前で繰り広げられている光景は紛れもなく現実だ。夢でも幻でもない。


「まさか、過去に飛ばされてしまったとでも言うのか。いったいどうして」


 覚えているのは稲光と雷鳴だけだ。近くに落雷したのか、あるいは直撃を食らったのか、いずれにしても原因はそれくらいしか考えられない。


「鳥越の城はわしらの城。何度でも奪い返す」

「織田勢は武田にかかりっきりやさけ、わしらまで手が回らんがや」


 彼らはこれから鳥越城に攻め込むつもりのようだ。会話から推測するに、飛ばされた時代は信長が武田を攻め滅ぼした甲州征伐の頃だと思われる。すると天正十年の二月あたりか。加賀一向一揆終焉の年だ。


「さあ、皆の衆、武器を取れ。夜明けは近い。一気に攻め込むぞ」

「おおー!」

「待って、みんな落ち着いて」


 自分で自分が信じられなかった。事もあろうに頭領の前に走り出て大声をあげてしまったのだ。


「何なん、おまえ」

「我らに勝ち目はありません。この城攻めは必ず失敗します。思い留まってください。そもそも石山合戦が終結する際、顕如けんにょ上人から争いを禁じる戒めのふみが届いているはず。織田との和睦を反故にするつもりですか」


 どうしてこんな言葉を口走ってしまったのだろう。ただの同情心か。それとも未来を知っていることへの優越感からだろうか。


「最初に約束を破ったのは向こうがやぞ」

「ほうや。出羽守様を松任城に呼び出してだまし討ちにしたのは誰じゃ。鬼柴田でねえか。顕如様は間違っておられる。正しいのは教如様や。わしらは教如様に従う」


 顕如の子である教如は石山合戦終結後も徹底抗戦を貫いた。各地を転々として残存する本願寺門徒に奮起を促していたのだ。戦国時代の僧は武士よりも執念深いような気がする。


「だからと言って勝ち目のない戦いに挑むのは愚の骨頂です」

「なんで勝ち目がないとわかるが。織田は武田との戦いで手一杯やろ。この好機を逃していつ戦う」

「逆です。今こそ辛抱の時なのです。勝頼はひと月も経たぬうちに自刃し武田家は滅亡するからです。織田家の勢いを止められる戦国大名はもはや存在しません」

「なんやと……」


 騒がしかった百姓たちは水を打ったように静まり返った。彼らがすがりついていた微かな希望が打ち砕かれたのだから当然だろうな。


「ならわしらはどうすりゃええが」

「信じられないかもしれませんが今年の六月、信長は謀反によって命を落とします。これを機に情勢は大きく変わります。次に台頭するのは羽柴秀吉です。彼は加賀の門徒衆を苦しめた柴田勝家、佐久間盛政と対立しいくさになります。そこで我らは秀吉方としてこの戦いに参加するのです。積年の恨みを晴らすと同時に秀吉に恩を売るのです。門徒衆が役に立つとわかれば秀吉も我らを生かし続けてくれるでしょう。門徒衆が生き残る道はこれしかありません」


 話が終わっても静けさは続いていた。こんな話、彼らにとってはあり得ない夢物語だろう。信じろというほうがどうかしている。だが迷いが生じているのは間違いない。その迷いによって城攻めを諦めてくれればよいのだが。


「もしそうなったとして」

 ようやく口を開いたのは頭領だ。

「この国はどうなる。加賀は今まで通り百姓の国であり続けられるがけ」

「それは無理です。武士によって支配される世を覆すのはもはや不可能ですから。しかし新しく加賀の領主となった前田利家公ならば門徒衆に対しても、」

「ほれでは意味がねえ!」

「ほうや。織田が羽柴に変わっただけや。わしらにとってはどちらでも同じがやちゃ!」

「城攻めや。柴田を佐久間を織田を蹴散らせ!」


 一気に戦闘モードになってしまった。ああ、どうすればこの人たち救えるんだろう。


「皆さん聞いてください。この戦いには勝てません、それどころか徹底的な残党狩りが行われ、三百余人に及ぶ門徒衆がはりつけになり、山内七村は三年間人影が途絶えるほどに破壊し尽くされるのです。四カ月です。たった四カ月待つだけです。そうすれば信長はこの世を去り事態は好転するのです」

「磔など怖くねえ。わしらには阿弥陀様が付いておられる。教如様が付いておられる」

「嘘八百でわしらをたぶらかそうするおまえなぞ門徒衆であるはずがねえ」

「敵や。さっきから話し方がおかしいと思うとったんや。こいつは間者かんじゃや。縛り上げろ」


 数人の百姓が襲い掛かってきた。鎌は取り上げられ手足は縄で縛られて大木の幹に括り付けられてしまった。


「こいつの命、取らんが」

「その必要はない。罰を下すのはわしらではのうて天やさけな。放っといても仏罰が下るやろう。皆の衆、時は来た。今度こそ織田勢をこの地から追い払うてしまおうぞ」

「うおー!」


 行ってしまった。周囲には再び静寂が戻ってきた。大木にもたれて考える。生きる時代も住む世界も違う彼らにどうして忠告なんかしたのだろう。何を言っても歴史が変わるはずなどないのに。


「やはり無駄骨だったようだな」


 男の声が聞こえた。縄を切る音。手も足も自由になった。夜明け前の薄明の中に男が立っている。


「あなたは?」

「おいおい、いつまで下手な芝居を続けているんだ。間者だってことはとっくにバレているだろう。戻るぞ。立て」


 間者? 自分は本当に織田方の回し者だったのか。とんでもない役割を押し付けられたものだ。

 男は城山のふもとを大きく回り込んだ後、積雪と灌木をかきわけて山道を登り始めた。鳥越城の本丸へ続く隠し道のようだ。占領後に新設された、門徒衆の知らない獣道なのだろう。


「ご苦労」

「どうぞ」


 途中で出会う警備の兵卒は全て顔パスで通してくれた。この男の身分はかなり高いようだ。


「しかし信長公が謀反で討たれるとは、でまかせにしてもよく言えたものだ。知られたら首を斬られるぞ」


 でまかせではないのだがここは話を合わせておこう。


「そこまで言えば城攻めを思い留まってくれるのではないかと考えたのです」

「そこまで言ってもあいつらの考えは変わらぬのだ。言葉で無理となれば武力で思い留まらせるしかない。天下布武、これこそが正義だ」


 鳥越城のある山の高さは百三十mほど。ほどなく本丸に着いた。大将らしき人物の前で男はひれ伏し報告を始めた。


「ただいま戻りました」

「どうだった。あやつらはまだ攻めてくるつもりか」

「はい。説得は無駄にございました。間もなく押し寄せて参りましょう」

「そうか、今度こそ根絶やしにしてくれる」

「攻め手を蹴散らした後は村を襲い完膚無きまでに破壊してはいかがでしょうか。一揆衆の主だった者は全て捕え手取川の河原にて磔にするのです。さすれば二度と織田家に逆らおうなどとは思いますまい」

「うむ。ならば磔台を百ほど作らせよ」

「百では足りませぬ。三百作らせましょう」

「河原の雪が血で染まるのう。ははは」

「山内惣荘もこれでお仕舞いですな」


 男はこちらを向くと薄笑いを浮かべた。心が凍り付くような気がした。残党狩りも磔も言い出したのは自分だ。あの悲劇を招いたのは自分なのか。余計なことを言わなければあんな惨劇は起こらなかったのか。


「来たぞ!」


 遠くで爆発音がした。城攻めが始まったのだ。周囲が慌ただしくなる。怒号、甲冑の音、打撃音、悲鳴、夜明けの鳥越城は陰惨な地獄絵巻と化した。


「ほう、雪ではなく雨が降ってきおった。これでやつらも火薬は使えまい。どうやら天は我らの側に付いたようだ」


 降り出した雨は次第に雨脚を強め本降りとなった。今はもう怒号しか聞こえてこない。本丸西側の木柵にもたれて目を閉じ耳をふさいだ。もう何も見たくない聞きたくない。


「なんだ?」


 不思議な調べが聞こえてきた。歌っているのでも喋っているのでもない調べ。ナムアミダブナムアミダブナムアミダブ、ひとつになった門徒衆たちの声は次第に力を増し、凄みを増し、猛獣の咆哮のように鳥越城の本丸を襲う。


「仏罰が下ろう、必ずや仏罰が下ろうぞ。柴田修理亮しゅりのすけ勝家、佐久間玄蕃允げんばのじょう盛政、おまえたちの命運はすでに尽きている。地獄に落ちるがよい」

「崩れるぞ!」


 本丸の西側が大きく揺れた。同時に周囲が激しく光った。間髪を入れずに雷鳴が轟く。視力と聴力を同時に失い何もかもが闇の中に消え去る。思わずつぶやいた。


「南無阿弥陀仏……」


 目を開けると灰色の空が見えた。大粒の雨が落ちてくる。怒号も念仏も争いの音も聞こえない。聞こえてくるのは逃げ惑う百姓たちのざわめきのような豪雨の音だけだ。


「ここは……城跡か。元の時代に戻ってきたのか」


 仰向けに倒れたまま周囲を見る。本丸の木柵は遥か上にあり、その下の斜面は大きくえぐれている。大雨で地盤が緩み土砂崩れを起こしたのだろう。木柵の近くに立っていたため斜面の崩落に巻き込まれ、本丸下の曲輪まで転げ落ちてしまったのだ。上下の雨合羽は泥だらけになっている。


「いてて」


 立ち上がろうとしたら左足首に痛みが走った。少し捻ったようだ。あれだけの高さから転げ落ちて足首の捻挫だけで済んだのは奇跡としか言いようがない。無意識につぶやいた「南無阿弥陀仏」この言葉が救ってくれたのだろうか。


「とにかく帰ろう」


 足を引きずりながら駐車場まで戻り自転車で登城道を下る。土砂崩れは道の途中でも起きていた。さらに県道に面した登り口は倒木と土砂で完全に埋まっていた。自転車を担ぎ上げて土砂の上に置き、這いながら自転車を引っ張ってなんとか県道に出た。城山のあちこちで崩落が起きている。たった今ここで激しい合戦が繰り広げられたかのようだ。


「撤退しよう」


 手取りキャニオンロードはまだ半分以上残っている。しかしこの状態で終着地「道の駅瀬女せな」まで走るのは危険すぎる。雨は激しくなるばかりだし、一般道でも崩落や陥没が起きているかもしれない。


「とにかく小松に行こう」


 北陸本線の小松駅までは十五キロほどの道のり。捻挫した足でも一時間もかからず到着できるはずだ。そこからは電車で今日の宿泊地福井に向かおう。とにかく早く休みたい。


「運休だと!」


 災いは重ねてやってくるものだ。大雨のために北陸本線は敦賀~金沢間が運休になっていた。この大雨の中、自転車で福井まで走る気力は残っていない。それに途中の道路事情も心配だ。ホテルに予約キャンセルの電話をしてその日は小松に宿泊。翌日も北陸本線は運休したままだったので旅行を断念。小松から金沢へ自転車で逆戻りし、北陸新幹線で帰京した。


「まだ復旧していないんだな」


 八月の大雨で土砂崩れを起こした鳥越城は半年近く経った今も立ち入り禁止が続いている。その原因が自分にあるわけではないのだが、それでも胸が痛まずにはいられない。門徒衆たちの最後の言葉「必ずや仏罰が下るであろう」あれは自分に対しても向けられていたのではないか。

 彼らが願った「百姓の持ちたる国」それは今、この国で現実のものとなっている。日本は間違いなく民主主義国家だ。だが、本当にそう言えるのか。門徒衆たちの目指した国を我々は実現できているのか。あの土砂崩れは時代を越えて彼らが我々に送ったメッセージだったのではないか、そんな気がしてならないのだ。

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