第6話 クリスマス
クリスマスにはまるで縁がない。恋人とクリスマスを過ごせたことがないのがいつからかこの時期は私の鉄板自虐ネタになっている。またそれが楽だった。同じような人間は安心し、彼氏がいる人間は自分の方が優っていると優越感に浸れる便利な私ではないだろうか。あーいかん、闇ってきた。街がクリスマスの装いをはじめるとよそよそと周りは騒ぎ立てる。やばい恋人作らなきゃ。私にはその感覚はなかった。誰かと一緒に過ごすことで、嬉しくなることや楽しくなることがある、それはわかっている。でもどうしてみんな、その逆の可能性をもっと考えないのだろうか。誰かと過ごそうとすることは、誰かに近づこうとすることは相応のリスクを伴う。必ずしも人と人との組み合わせが幸せに繋がるとは限らない。昨夜のテレビでは男女間の交際のもつれで女性の方が刺し殺されていた。男の方はストーカーと呼ばれていた。そうやってなんなら殺されることだってある。誰かを殺してしまうほど好きになれるってなんか羨ましい、とTweetしてすぐ消した。クリスマスが近付くと、そうやって捻くれを混ぜては自虐的に過ごしていた。閉まるドア、いつものサイレン。美味しいそうな骨つきチキンと赤い装飾を見つめながら私は、自分の心模様の変化に気づいていた。今年は、今年の私は違うみたい。
「あれからも彼女と会っている。」
突然に彼はそれだけ告げた。私はどことなくわかっていた。彼が、彼の心が私じゃない誰かに向いていること。女の勘というやつを駆使しなくとも私からすれば彼を見ていればわかる。それでも、クリスマスに告白しようかなと密やかに思っていた私には残酷な世間話だった。こっから入ってはいけませんと唐突に線を引かれたみたいに感じた。彼は穏やかに柔らかく、どこか遠い目をして彼女と会っていることを話してくれた。彼と初めて居酒屋でお酒を飲んだ夜。彼の初恋の話、その時と同じ目をしていた。まだもっと浮かれて、はしゃいでくれた方がいいかもな。私は、何も言葉にできなかった。(彼女って、どっちの彼女?はつみさん?でも彼女は亡くなっているんじゃないの?お姉さんとのこと?)何を言っても、彼にもうこの件で嫌われたくなかった。それが怖かった。やっとこうして普通に話せるように戻れたのに。私はいつも傍観者だ。なんだよ、脇役にすらなれていないじゃないか。だめだ、泣きたくなってきた。
「あの、、大丈夫ですか?」
「・・・え?ぁ、、うん。全然大丈夫。しかし急に寒いね今日。」
圭介くんと新規のリース契約先を訪問しホッと肩を撫で下ろしたところで、ピューッと冷たい風が2人の目の前でくるりと巻いて、お互いの顔が(温かい物でも飲みますか)と切り替わった。それから入ったカフェもまたクリスマスを着飾っていた。お生憎様、クリスマスの話題にはならない。私はどこか怖くて話題を振らなかったのかもしれない。クリスマスは私のような女をぎこちなくさせる。圭介くんはクリスマス何するのかな。怖くて聞けない。もう気にするな私。頑張れ私。帰って映画でも観ようぜ。
「何にも、聞かないんですね?」
「え?」
ちょっとthの時の発音のそれみたいに舌がぎこちなく慌てて動いた。そうか、彼は自分の話を聞いてほしいんだな、それをうまく言えないし、自分でも気付けてないのだろう。無意識というか無神経というか、にしても鈍感だな、いや彼は悪くないか。すごくムカつくけどちょっとかわいい。私はズンと鉛のような塊の悲しみを顔に出さまいと下腹部の奥へと押し込んだ。聞くにしたって、何をどっからどう尋ねればいいのだろうか。やっぱり私はあの場に居合わせるべきではなかった。彼からは続けての言葉はなく、私の落とした目線の先にあったコーヒーカップが向かいに座った彼の綺麗な左手に掴まれ、視界から奪われていった。私は彼が私の気持ちに気づいていようといまいと、これから始まる思いを寄せる男性の恋バナを聞く覚悟を決めた。
「彼女って、、東雲さんのことだよね?」
「うん。」
「その、、つまり、、ななみさんに会ってるってこと?」
「いや、違う。」
喉の奥がカァッと暑くなる。耐えかねて少し背が丸まる。まさか、やっぱり、そのどちらともが混じり合って、私は正常な脳の機能を失いつつあった。だけど、だからこそ今は彼の話を聞いてあげることに集中しよう。きっと話したいんだ。きっと彼にとって私だけだ。うん、そうだ。彼がこんな話をしてくれるのは私だけ。そうやって私は、必死に座っていた。私はいま、彼の特別なんだ。
「え、、でも、、はつみさんは…」
「やっぱり、知っているんですね。彼女が亡くなっていること。」
「うん。あの日、あの後、ななみさんから聞いた。」
昔はよく入れ替わっていたことは私からは言わなかった。彼の言葉でどう表現するのか聞きたかった。こんな瞬間でも頭が働くのかと我ながら関心した。
「確かに、はつみさんなの?」
「不思議なもんですよね。ななみさんと瓜二つなのに、全然違う。」
「そうなの?着てる服や髪型やメイクが違うとか?」
「いや、一緒ですね。言われてみれば、もう少し変えればいいのにって今更ながら思いますね笑。」
彼はニヒルにクシャッと笑って、コーヒーを口へ運ぶ。恋をしている。嬉しそう。楽しそう。ななみさんは大丈夫なの?ななみさんが倒れたこと、そのことは知っているの?言葉が喉の奥で突っかかる。
「昔は今よりもっと頻繁に入れ替わっていたらしいんです。」
「うん。」
思わずノータイムノーリアクションで発言してしまった。彼も一瞬、動きを止めたように見えたがすぐに元通りになった。
「ななみさんから聞いたんですか?」
「うん。でも、ななみさんが倒れてから、はつみさんは居なくなった、って。」
「そうですね。」
ななみさんが倒れたこと、今度は私から言ってやがる。気色悪い。彼もななみさんが倒れたことを知っている。あれ、なんだろう。違和感を覚えた体が私の胸をドックンドックン突き動かす。頭に浮かんだ言葉をこのまま吐いてしまおうかと考えていると、彼の言葉が遮った。
「二重人格の一種だと思います。」
「え?」
思いがけない活字の登場に思わず目を見開き、俯き加減だった頭が持ち上がる。彼は窓の外、ビルの間に間に見える遠くの空の青から漏れる光に目を細めていた。
「ななみさ、、、あ、、はつみさんが言ったの?」
「いや、違うけど。僕なりに考えた結果、そうなのかなぁって。」
今度はまるで人ごとのように語尾を丸める彼に、少し苛ついてしまい空気をピリつかせてしまった気がした。私が感じ取るこの空気感は、彼も同じように掴めるのだろうか。言葉は無くともそういう場面が人と人との間にはあるのは確かだ。喉の奥で突っかかっている言葉が居心地悪そうにしている。
「じゃあ、ななみさんに会う前に圭介くんが会ってたのも、、、はつみさん?」
「ですね。」
「いいなぁ、私も会ってみたい。はつみさんに。」
「え?」
そういうとまた会話が滞る。私は次第にヤキモキしてきた。あいつがまろび出そうになっている。これはもう、ダメだ。止められない。私はどうせいずれ飛び出してくるであろうその言葉を認めて、勢いよく飛び出るのを止めるよう促し、できうる限りそうっとそこから出してあげた。
「圭介くんは、どうしたいの?」
「・・・」
黙り込んでしまった彼をみた言葉は、出てきてすいませんという風に私の方を振り返った。私は、もうすっかり冷え切ったカフェラテがまだ半分以上も残っていることに気がついた。ごめんね、と添えながら熱を帯びないカフェラテをごくりと飲み込む。彼もほとんど残っていないコーヒーを口に運ぶ。ゆっくりカップを置く、コトッと音がなる。
「わかんないです。」
「そっか、、、まあ、、焦らず、、」
何言ってんだ私は、と思ったが、おそらくもうほとんどHPが残っていない自分を責める気にはならなかった。私はよくやった。
「ただ、ハッキリしてるのは」
語気を強めた彼の言葉にハッとした。一瞬油断していた私は、その先の言葉を受け止めるべく構えを取る。
「シンプルに、もっと一緒に過ごしたい。それだけですね」
「そっかぁ、、、わかるな、その気持ち。」
辛かった、とても胸が苦しかった。私も圭介くんともっと一緒に居たい。それだけだ。それだけなのにな。ななみさんのことは心配じゃないの?
ズルいような気がして言えなかった。梨花がこの場に居たなら今頃、胸ぐら掴んで怒鳴り散らしているだろうか。
「大丈夫あんた?なんか顔色悪くない?」
「え?」
今日は久しぶりに梨花とランチにきた。先に着いていた私の顔を見るや否や梨花はそう言った。顔色が悪いなんて私自身思いがけなくて、はつみのことが心当たって私は必要以上に焦ってしまったような気がした。それはほんの一瞬だったけど、梨花は鋭いからドキドキする。
「最近、ハードワークだからなぁ〜」
「そうなんだ。どのクライアントにいじめられてるの?」
「いやいや、そんなんじゃないけど。ちょっと詰め込みすぎたな、我ながら。」
毎日鏡をみている自分より、久しぶりに会う時の他人はその人の変化に敏感になる。梨花からそんな風に判断されたことがショックだった。はつみのことを悟られていやしないかと、メニューを見るようにして、チラリと梨花を覗き見するも、カニカニ〜♪と小声で言っている梨花にひとまずはホッとした。しっかりしなきゃなと、メニューに隠れた私は人知れず気持ちを結び直す。私は話題と空気を変えようという焦りと普段通りにしなきゃという緊張が、温めた牛乳の膜のようにぬたんと私を覆っていく。普段、普段どおりってなんだっけ。『考えてもわからないときは、いったん考えるのをやめること。』いつか自分が担当した記事の言葉がよぎって感謝した。たくさんの人や言葉と関わること、蓄積されたそれらは巡り巡って時にふとこうして私を手助けしてくれる。
「調子はどう?」
「うーん、、、、とりあえずやっぱ寒いの無理。」
「梨花は夏女だもんね。」
「うん、やっぱりカニにしよう!」
そういうとパンっとメニューを閉じだ。梨花に釣られた私もクリスマス限定メニューと書かれたパスタとアヒージョのセットを眺める。私は寒いのは苦手だけど嫌いではない。その分、得られるものもある。特に冬の星空なんて大好き。
「じゃ、私もそれにしよっと♪」
「ミラーリングしてるねー。」
「それはあるかもね。」
「お、さすがだね。知ってんだ。」
人は好意を抱く人の仕草や口癖を知らず知らずの内に真似してしまう、それをミラーリングという。知識としても知っているし、そうだろうなと私は私をもって体現している。私とはつみとではどうだろうか。
「でもスープも飲みたいな。ほら、あれ、なんていうの?ザクザク壊すやつ。」
「そういうのは知らないのかよ笑」
梨花はそう言うとメニューを拾い上げて、目を澄ましてパラパラめくると得意げに「スープパイ」という文字を指差して私に見せた。
「分けっこしよ」
「いいね」
「あ、ガーリックトーストはつける?」
「ついてま、す。」
トントン。メニューをつく梨花の指が音を立てる。ネイルとか付け爪とかしているところをみたことがないけど、爪の手入れをしているって聞いたことがある。変に着飾ったりしない艶めいて丸っこい梨花の指が私は好き。
「ちょっとお昼から食べ過ぎじゃない?太めになっちゃう。」
「ななみは線が細いから、もうちょっとくらいお肉がついても大丈夫だし、丸みを帯びた方が可愛いんじゃない?」
「えー、そうかなぁ。つくところにつけばいいけど。」
「ななみって、抜けるところと抜けないところが私でも今だによくわからん。天然なところもありながら、知的で可愛いところもあるし。ミステリアスガール。」
最近密かにはつみと入れ替わっている私は、抜けているという言葉に心がヒクッと跳ねる。察したわけではなかろうけれども、梨花が被せるように続ける。
「それはね、2面性があるからなのかなぁって、やんわり思ってて、自分的にはこっそり納得させてるんだけどね。」
「え?」
「ななみとはつみさんと、がね。悪い意味ではないよ。例えそれで2面性があるにしたって受け入れていいことだろうし。」
梨花の口からサラッとはつみの名前が出ること自体、珍しい瞬間だった。わざとなのかな。何か言葉を返さなきゃと思っていたところ、梨花の背後から優雅に両手の平を広げたウェイトレスさんが二つの料理を運ばれてくる。私はお尻をキュッと上げて背筋を伸ばしその助け舟を待った。
「お待たせ致しました。クリスマス限定ランチでございます。」
梨花の背筋がもおっ!と伸びる。可愛らしい声をしたウェイトレスさんだった。瞳を覗き込むとクリンとカールしたまつ毛がなお一層可愛らしかった。ピンクがかったチークにプクッと膨れた柔らかそうな彼女の頬もクリスマス限定かもしれないな。
「うーん、カニさまお久しぶりぶりですねぇ。お元気でしたかぁ?うふふ〜、いただきますぅ。」
美味しそうなものを目の当たりにすると、こちらも二度見してしまうほどの可愛さを発揮する梨花。本人には自覚はないようだし、私の前でしか見せない姿だといつか語っていたのを思い出す。ぎゅーって抱きしめたくなる。クルクルと巻いた本日のパスタに、ちゃんとした身ぶりのカニを乗せて大きな口で迎え入れる。ぉぉぉお蟹味噌きた。見た目にはその存在を知り得なかった彼が私の鼻腔を駆け抜けていった。かと思えば、トマトの甘く優しい後味がふんわりと口一杯に咲いていった。
「え、ちょっと待って、、美味しい〜。」
「うん。これは、、大当たりでんな殿下。」
加えて梨花は美味しいものを捉えたその瞬間は、『あんた誰?笑』みたいな瞬間がある。そんでもってすぐ元の梨花に戻るから面白い。そう思った矢先、そらきたぞ。
「あれから、連絡取ってないの?小津くんとは」
「うん。」
なんでかは分かんないけど、ある程度予想できていた私は不自然なほど穏やかで平静にそう答えることができた。だけど、飲み込もうとしていたパスタが少し喉に痞えた。出ていった言葉は私で、パスタが痞えた喉ははつみの反応だったのかな。そう思うと少し可笑しくて口元が緩んだ。
「いやいや、なんのニヤつき?」
「だって、梨花面白いんだもん。」
「はぁ?何を今更。いつもの風景じゃん。」
「そうだけど、、ちょっと久しぶりに見たよ可愛いバージョンの梨花。」
「はぁ?なんだそりゃ。まぁしかしお互いよく働くもんだ。」
「梨花はクリスマスどうするの?一緒に過ごせそうな男子はできた?」
「いいや全然。あんまし良いの居ないよね、マジで。無理に組み合わせ作る必要もないでしょ。」
梨花はパスタやカニらをごくりと飲み込むと、ワイングラスを持つように水を飲んでからそう言った。梨花って男勝りな風に見られがちだけど、こうやって一緒に過ごすと本当に魅力的な子だと思う。と同時に同じ年代の男の子たちでは梨花と釣り合うような人はそういないだろうなとも思える。それくらい大人びているし、このギャップを簡単に手にできてたまるものかと名前のついていない変な感情すら湧いてくる。
「まぁでも、予定はあるっちゃある。」
「え、どんな?」
「彼氏の居ない女子のクリスマスの予定なんて尋ねるもんじゃないでしょう。」
「ぇぇぇ笑。言わないのかよ!」
「ななみはどうなのよ?」
しまった油断していた。実は私はクリスマスの予定がある。正確には私ではなく、はつみに。我ながら私って編集者でありながら、こういうところは仕事で培っているであろう能力を発揮できない。でもそれでいいと思う。梨花と過ごしている時は両手離しでリラックスしているだろうし、気を張っていたくないもの。
「うーん、仕事してるかな。」
「え、日曜日なのに?」
「え、あ、、うーん、予定ないってことよ笑!優しく察しなさいよ笑!」
「ま、私たち仏教徒だし?気にしない気にしない。」
梨花はクルクルさせながらフォークの先に視線を落としたので私も手元の刃先に目をやる。一定のリズムでクルクル回るフォークを見つめていると、ぐわんと突然それはきた。あれ?ちょっと眩暈がしたように思えたが、余韻がなかなか引かない。なんだろう、フォークが重なって見える。目が回ったのかな?ふと視線を梨花の顔へと起こす。
「あ、スープパイがまだだった。カニで忘れてたわ。」
そう喋る梨花が重なって見える。だけど、目が回ったのとはやはり感覚的に違う。梨花の声がふたつするような。
「そうだったね。」
私は極力平然とそう声にした。自分の声もふたつする。なんだこれ。はつみ?はつみが出てきてる?いや、でも私の意識、私の言葉。やはり眩暈が続いているわけではないし、なんならこのまま過ごしてこの場は取り繕えそうなくらいだ。いや、だけど、梨花に私の異変を気づかれてしまうかもしれない。そう考えてしまったことがきっかけで今度は全身にほんのりと汗をかいた。まずいバレると回り始めた思考は周回し、ますます余裕がなくなってしまう。
「お待たせ致しました。スープパイとセットのガーリックトーストでございます。」
「んー、いい香り♪」
ウェイトレスさんの声もやはり全てが重なって聞こえる。とりあえず一旦トイレに逃げよう。立ち上がれるだろうか。こんなことは初めてだった。
「ちょっとトイレに行ってくるね。あ、まだ崩さないでよ〜。」
2本に見えるフォークでパイをツンツンするそぶりを見せた。私なりの、私は大丈夫だよという合図だった。私の右手が掴んでいるフォーク。右目だけで見た時と左目だけで見た時とでは、見える景色は若干ズレる。普段は重なり合って一つに見えるその両の目からの景色がそれぞれに独立独歩している感じ。ドキドキと高鳴る鼓動も重なって鳴り震わす。梨花にできるだけばれないようにエイッと立ち上がって見せたが、今思えばそれ自体、不自然だったことだろうか。よし、少し風景が重なって見えるだけで大丈夫。トイレまで凛と澄まして歩いてみせた。店の雰囲気に合わせた素敵なトイレだった。大きな鏡の前には化粧ポーチやカバンを十分に置けるスペースがあった。フーッと息を吐き鏡を見つめる。さっきまで重なって見えた世界とは違っていつもの私を鏡は映し出していた。気分も悪くない。大丈夫。なんだったんだろう。早く戻らなくちゃと改めて鏡に映る自分を見ると口元に赤いトマトソースがついているのが見えた。え?と思って二度見して鏡に問いただす。着いていたのは鼻血だった。慌てて洗面所に置いてあった紙ナプキンに感謝しながら血を拭う。待てよ、あの時も鼻血が出ていたっけ?いや、そうだ。この感覚は、あの時と同じ…。それに気付けた瞬間、目の前の大きな鏡にピシッとヒビが入って鏡に映る私は引き裂かれた。
それから夢を見た。はつみと楽しそうに散歩する夢。もうすぐクリスマスだね、年末ってイベントがぎゅうぎゅう詰めでお金がかかるよね、お正月とクリスマスが近すぎるから、お正月を旧正月に合わせればいいのに、とかって俯き加減に微笑みながらそんな話をしていた。ひゅるんと冷たい風が巻いて私たちは澄んだ空を見上げた。私は言う、どうせ寒いなら粉雪が降って欲しい。はつみが言う、そうすればホワイトクリスマスだね。
はつみがとととっと2、3歩弾むように前を行き、くるりと振り向いて見せる。
「ごめんね、お姉ちゃん。」
吐く息は仄かに白く、風に運ばれていく。謝ることなんか何にも、何にもないのにと私は言う。
「私も、生きたかったな。」
そう言うとはつみはそのまま背後の池の水面に身を投げて大きな水しぶきがあがった。だけどそれは存在しないかのように、何にも音はしなかった。目覚めた時には、見知らぬ天井を見上げていた。
何本にしようかな。スマホの画面を眺めながら、2と3の間を幾度もスクロールしている私。別にクリスマスは嫌いじゃない。四季折々の国に生まれることができて幸せだと思っています。目や耳を塞いだところでクリスマスを感じずにはいられないし、この際きちんとチキンでも食べようじゃないか。思えば去年も仕事帰りにチキンでも買って帰るかと折角思い立ったと言うのに、どこもかしこもチキンがない。ましてや普段は並ぶ行列に、チキンを求めて独り並ぶ気にはなれなかった。ひとつ席を飛ばして並んで座る後輩たちは、クリスマスをどう過ごすのかのお決まりの話が始まった。小さなミーティングルームでは彼女たちの控えめな声に合わせてその音も控えめに反響していく。私はパソコン越しに圭介くんを盗み見る。なんならあんたたち圭介くんにクリスマスの話題振ってくれよ。
「田中さんは、クリスマスどうするの?」
「ちょ、いま、聞くそれ。まぁでもすいません、興味あり。どうぞ差し障りのない範囲でお答え下さい。」
同期の都築くんのフォローとも言えないフォロー。彼はいつもそういった中立ぶった立ち位置にいて印象が薄いというか、尖っていないというか。色々な人が居てこそ組織であり、チームである。それをまた纏めるのもまぁ大変。私は特に取り繕う気力もなく、ある意味タイミングよく投げかけてくれたボールをそっと送りバントするイメージで答えた。
「うーん、今まさにどうしようかなぁと悩んでたところです。」
「おぉ!予定ありですか。」
「いや、本数。」
そういってさっきまで開いていたスマホの画面を彼らに向ける。チキンの本数は2本のところにチェックが入ったままだ。
「本数?」
「ぁぁあ、チキンっすね!あれ、マジ当日は争奪戦ですからね。」
「何本にするんですか?」
それをこそ今それ聞くか?とツッコむところじゃないのかと隣でスマホをいじっている都築君を節目がちに睨みつけた。睨みつけの帰り道、目頭をぐるりと回した途中、無意識に圭介くんに視線が落ちる。あ、目が合った。圭介くんが私を見ていた。私の話を聞いている?興味あり?私のチキンの本数に興味ありなんですか?
「2本か3本で悩んでたけど、2本かな。」
「へぇ」
なんか知らんけどシーンとしたミーティングルーム。え、ちょっと待って、1本って言えば良かったかな。へぇじゃないだろ。え、1人で、ですか?となぜ問わない?緒方‼︎緒方ー‼︎ その時だった。
「小津さんは、クリスマスどうされるんですかー?」
(お、緒方〜〜〜涙‼︎‼︎)
一瞬にして狭いミーティングルームに緊張が走る。寒くない?誰かエアコンつけて。ふと目をやると、スマホをいじる都築君の指すら停まっていた。
「僕は、、、」
ガチャ。
「よし。ミーテイング始めっぞ。」
ほんと、この男だけはタイミング悪い、空気読めない、気が利かない。TKKですよ‼︎
でもなんとなく予定ありげな目だったような。後で聞いてみようかな。あ、そうだ。この流れでチキンの本数のこともさりげなく相談してみよう。ありがとう、ありがとう、君がいてくれて良かった、緒方。きっかけをありがとう。ナイスアシスト緒方。
ミーティングが終わると、圭介くんは我先にすたこらさっさと部屋を出ていった。さっきの話の続きをさせないつもりだな。私も続いて部屋を出る。可愛い後輩が作り出してくれたチャンスを逃してはなるものか。
「お疲れ様。今年もあと2週間だね。」
「お疲れ様です。ですね〜。」
私が彼に追いつくと、彼は私に合わせて歩くスピードを落としてくれた。無機質な天井を見上げては今年は早かったなぁと振り返っている。この1年間、仕事とはいえ彼と多くの時間を共にできた。ひょっとして私って今年1番彼と居た女性なんじゃないのか?って1年を振り返ったりして悦の足湯に浸かる。
「今年は美沙さんとたくさん仕事したな〜。来年からもひとつよろしく。」
「うん。こちらこそ。っていやまだやや気が早い。クリスマスが立ちはだかっている。」
「ん、まあそうですね。あ、チキンってどこのチキンですか?」
改めまして緒方ありがとう。お姉さんお前のことはしばらく可愛がってやるからな。
「ケンタッキー。ベタですいません。」
「え、いや、僕もあんま知らないんでどこの買うのかなぁって。それにケンタッキーで十分ですよ。多分シェアも1位とかでしょ。」
「1本だとほら、1人なのか寂しい奴って思われちゃうでしょ?それで2本か3本か悩んでて。圭介くんはどう思う?」
「いや、知らんし笑」
訳のわかんないこと言っちゃったけど、クシャっと笑った彼の顔をこんなに近くで久しぶりに見たと思った。本当はクリスマスに圭介くんを食事にでも誘おうと思っていたのに、彼女と会っていることを牽制された私は今だに1塁ベースから動けずにいたのだった。リードを取っては投球モーションに入った彼をみて一塁に戻るを繰り返している。
「圭介くんは、クリスマスどうするの?」
「うーん、、、まだわかんないですね。返事がこないので。」
「返事?」
「ダメだったら、チキン3本にしといてもらえる?」
親指と人差し指、それと中指。指を3つ立てて歯に噛む彼。もう私の心臓はドッドッと鳴っていた。きっとダダ漏れなはずなのにそれでも彼は気付かない。鈍感すぎてイライラする。ダメだったら3本?なんだそれ?おいおい小津。あーもう、圭介くんったら…あたしもうダメ、心がもんじゃ焼きにされてかき混ぜられてる気分。
サンタさん聞こえますか?お願いです。難しい願いではありませんから、ただ彼と過ごさせてください。何にもなくたっていいです、本当です。どうか彼女の返事がNOでありますようにとサンタさんにお願いするズルい女。ズルくて結構。本当に欲しいものがあるのなら、何かを踏んづけてでも進む勇気と覚悟が必要だ。私が好きだった漫画のキャッチャーの人が言った言葉が印象的で胸にしまってある。もう誰かや何かで寂しさを紛らわすこともしない。私の小さくてまっすぐな恋心を育ててくれませんか。約束なんて要らない、たまたまでも何分でもなんだっていいから彼と過ごしたい。日頃の行いに胸を張れるような自覚もないし、神頼みみたいなこともしない。過度な期待は後が辛い。この時はサンタさんが私の身勝手な願いを叶えてくれるとは、微塵も思っていなかった。
「・・・はつみ。」
「お姉ちゃん、、、、、が、、。、、ね、、とに、、、、う。、、あ、、え。」
「待って、、、私は大丈夫だから、、、はつみ‼︎」
病院の部屋は外の季節と箱ごと遮断されているよう。白く統一された内装やシーツのせいではないだろうけど幾許かの影響はあるように思う。春だろうと夏だろうと秋だろうと冬だろうと、季節を切り離す箱。窓の外を眺めると葉っぱを脱がされて寒そうな大きなイチョウの伸びた枝と、その先にどんよりと薄黒く横たわる雲が重たい冬を表現していくれてる。窓枠がちょうど額縁のように見えて1枚の絵のようだった。ああ、私また倒れちゃったんだな。ごめんね、はつみ。なるべく音を立てないようにと気を使われた病室のドアがゆっくりゆっくりと、綺麗な丸っこい爪した手によってスライドされていく。
「あ、気がついた?良かったぁ。」
「梨花、、、ごめん。」
「謝るならカニさんとシェフに謝ってよね。」
「カニ、、、? ぁ、ぁあ、そうか、、カニ…。」
「いやぁ私もさ、勿体無いなぁって後から思ったんだけど、ななみが倒れてるってのに「お相手の分が、、特にカニが、勿体無いので、いただきますね」ってわけにはいかないよね。」
梨花はあえてわざとらしく安心させるように笑いかけてくれた。疲労感に覆われていた私はその表情でありがとうと返したつもり。伝わったかな。少し乱暴な冬の風が病室の窓をガタガタ鳴らす。
「大丈夫なの?」
「うん。ちょっとボーッとするくらいかな。でも、寝起きですって感じ。」
「なにそれ笑。どんだけ心配したと思ってんのよ。」
「ご、ごめん。」
音を立てないように鼻から大きく息を吸う。梨花のことだ、おそらくこれから幾つかの柔らかく尖った質問が飛んでくる。自ずと私は白く薄地のシーツを両の掌に手繰り寄せて軽く握りしめる。さぁ来いと、少し口角と肩を持ち上げて身構える。
「もう、何にも聞かないけどさ。お互いもう子供じゃないし。ななみのしたいようにしたらいいし、ななみの思いを私は尊重する。」
梨花の思わぬ第一声に握りしめていた拳がスルスルと解けていく。注射針が刺さる前のように身構えていた体も解けていく。初めて聞くいつもの梨花の柔らかく優しい声。
「だから、相談してほしいかな。頭ごなしに否定したりしないからさ。今までごめんね。」
「梨花、、、」
寝起きでしょぼしょぼしていたはずの私の瞳から粒の涙が溢れだす。この涙はまるで艶めいたビー玉のように愛らしく思えて、手で拭うことすら勿体なく思えたから溢れ出すままにを私は受け入れて好きなようにさせた。もうずっと前から私の心の中にある[ここから先立ち入り禁止]の仕切りが外された。
「ごめんね、、、はつみにまた会えたのが嬉しくて。私、お姉ちゃんだから、あの子のお姉ちゃんだからさあ、なんか、あの子を、、あの子が喜ぶなら、、、い、、生きられなかったあの子が、そうしたいなら、私にそれが、、私にしか、、できるなら、、受け入れて、、もうはつみを邪魔だって思わないから、、帰ってきてくれて、ありがとうって、、そんな風に思えて、だから、、」
「うん。なんとなく、気づいてたよ。そんな気持ちなんだろうなって私も思ってた。」
一度溢れ出した気持ちは涙と言葉がいくら渋滞しててもお構いなしに進んでいく。
「だ、、だから、、わた、、私は、、ここに、居て、、、ここに居てもいいからねって、、一緒に、、生きようよって、、居ていいからね。。ご、、うご、、ご、ごめんねって。」
梨花は膝に欠けていたスカーフを広げて私を包み込む。その上からぎゅうって抱きしめてくれた。梨花の藍色に染まったスカーフはもふもふしていて気持ちよさそうって思ってたんだ。梨花のぬくもり、香り、優しさに包まれて、私は一気にデトックスされていく。
「言い方があってないかもしれないけど、、はつみちゃんと代われるの?」
「う、、ううん。それは無理。」
「そっか、、残念。じゃあ、、、やっぱり、、、」
「うん、小津くんと会ってるときだけ。」
「あの時は、私たちも居たからね。はつみちゃん、怒ってなかった?」
「あ、言われてみれば笑。それはないみたい。」
「そっか。よかった。あの後も、ななみがはつみちゃんとまた会えてるみたいだなって気づいた時から気になってたの。あの日のこと、怒ってないかなぁって。ごめん、ちょっと勝手にスッキリした笑。」
「私がはつみとまた会えてる」そう表現をしてくれる梨花のさりげない優しさが好きだ。梨花は平気そうにしてるけど、案外繊細で引きずるところがある。私にも見せようとしないし、私でもなかなか気付けないから歯痒い。梨花の方こそ私になんでも相談して欲しい。
「ちょっともう、本人前に、聞きにくいんだけど、、小津くんとはどこまで?」
「え!!? え、、え、、し、、知らないよ。」
「なわけないでしょ笑」
「えーーーー、、、これって言っていいのかな・・・。」
「い、、いいでしょ。怒ってる感じする?」
「いや、わかんないけど、それは大丈夫と思う。えぇ、、ま、じゃあ、その。。。」
「はい。」
「特に、なにも。」
「ないんかい‼︎」
椅子をがたんと音を立ててのけぞる梨花。その時、胸の奥がぬくくなった。はつみが笑っているのかな。
「なんかね、私も聞いたんだ、はつみに。小津くんのこと、好きなの?って。そしたら、よくわかんないって。」
「うぶだねぇ。焦ったい。。やっぱりほんとに代われないの?私が直接聞き出したいわ。」
「だから無理だって笑」
「実はだいぶ前から思ってたんだけどさ、普段、はつみちゃんはどうしてるの?ななみの中から、私を見てるの?聞かれてるの?」
そう言ってどれどれと私の瞳を覗き込む。私も梨花の瞳を覗き返す。梨花の瞳は薄くちょっとゴールドがかっているような綺麗なブラウンをしている。梨花の瞳の幕の向こう側に誰かいないのかな?変なことを思ってしまう。
「いや、ほとんどわかんないみたい。それだったら便利なのにって笑ってたけど、そりゃ私はやだよね笑。」
「そりゃそうよね。あ、窓、開けていい?」
「あ、うん、大丈夫。ありがとう。空気変えたいなって思ってたの。」
「今夜には雪になるかもね。散歩できたらいいのに。。だめかな?」
「うーん、どうだろ。ん?あれ?でも、そういえば、はつみが1度だけ、お姉ちゃんの中から見てたって、、ほら、あの子、、」
「え?」
コンコン。
病室のドアがコンコンって鳴って、東雲さーん入りますね〜と声がかかった。あ、私病院に居るんだった。ふっくらして色艶のいい看護婦さんが入ってきた。白衣の天使とは言い難いかもしれないが、どこか安心感もあり、男性からするとその肉付きがたまらないんだって言われそうな人だ。
「気が付かれましたか?ご気分はどうですか。」
思いのほかトーンの低い声にお仕事感を感じながら、大丈夫ですと答えた。ちょっと診ますねと目、喉、胸と、病院ごっこで私もやったことあるようなチェックが入る。
「うん。大丈夫ですね。今日は1日様子を見て、問題なければ明日でも退院できますからね。安心してください。」
「ありがとうございます。」
「あの、外を歩いたり、食事は大丈夫なのでしょうか?食事というか、、珈琲ブレイクのような。」
梨花が私の気持ちを代弁してくれたけど、看護婦さんはフッと鼻息を吐いて、ニコリとわざとらしく微笑む。
「今日は安静にされててください。明日には退院できますから、先生にも確認はしますが、おそらくは明日以降なら大丈夫でしょうね。」
「はい。」
梨花がしゅんと小さく丸まって可愛かった。看護婦さんが出ていくと、私たちは忍足で目を合わせて笑った。
「こわいわ笑」
「ありがとう、代弁してくれて。」
「でも、なんかエロかったね。」
「おっ、やっぱり?」
「明日は私、予定あるから来られないけどなんかあったら連絡して。」
「うん、大丈夫だよ。ありがとう。」
梨花が掛けてくれたスカーフを畳みながら入れ替えてくれた空気を鼻から食べる。少しひんやりとするけどその分に新鮮さが伝わる空気が鼻筋を通り抜ける。新鮮な空気が脳みそをスキャンしていく。
「あのね、梨花。」
「ん?」
「はつみがね、クリスマスに小津くんに会うんだ。」
「うん。」
「許してくれる?」
「私が許すもなにもないよ。だけど、ごめんね。ちょっと矛盾するけど、普通に心配なのね。こんなこと言ってアレだけど、それははつみちゃんも一緒じゃないかな。」
「うん。わかるよ。でも、、」
「あぁ、だから、会っちゃダメとか私は言えないから。私が着いて行くわけにもいかないし。」
「ありがとう。」
「まぁでも、何かあったら心配だから、時間と場所だけは知らせといてくれる?あと、病院と主治医の先生とか。」
「うん、わかった。メールするね。」
梨花はスクッと立ち上がり今しがた丸くなっていた体をウーっと伸ばした。病室を出ていく背中に向かって、梨花に素敵な出逢いがありますようにと、そうでないにしてもこの子に幸福が訪れますようにと今までよりもっと強く、もっと太く私は祈る。
「梨花、ありがとう。」
「大丈夫だよ。退院したらランチやり直しね。」
「うん。」
「ま、その前にクリスマスだね!がんばってね。」
そう言って梨花は私たちに向かって拳を突き出す。胸がキュッてなる。さっきまで無機質だった病室も明るく清々しく、ひらめく白いカーテンも羽衣のように映る。胸の鼓動や空気を感じる肌、酸素を吸う脳、私たちと梨花とで過ごした初めての時間だった。とても嬉しかった。壊したくなくてだからこそ言えなかった。梨花、ごめんね。私たちの時間は多分、これで最期だと思う。
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