第4話 目的

「どうして梨花があの子をわざわざ呼んだのか、少しなんとなくわかる気がする。とてもいい子ね。優しくて、素直で、真っ直ぐで、、だけど、自分の気持ちには不器用というか、臆病で。」

「さすがだね。東雲編集長。」


あの子のために泣いてくれた彼女を見送り、ふぅーっと長めに息を吐く。はつみのことを久しぶりに話した。はつみのことを思ったり、話したりする時はすらすらと言葉が出てくる自分に驚く。心地よい波が優しく揺らぐように、風がそっと吹くように言葉が溢れて流れていく。そんな時は私の中のはつみも同じように感じてくれている気がして、私は嬉しい気持ちになる。


「大丈夫?」

「うん、全然平気よ。ちょっと休憩してから戻ろっか。」

「はつみにはならなかった、よね?さっき彼と話しているとき。」

「うん。全く。」


あの日、グラウンドで倒れた時を最後にはつみは現れなくなった。もうあれから十数年が経過している。時々、はつみの夢は見た。だけどその夢は私の一方的な夢で、はつみが出てきてくれた訳ではない。それでもはつみの夢をみる度に私は親の顔を見るのが怖かった。自分はまたはつみになっているんじゃないかって。はつみは急に居なくなった。ちょうど渋谷の交差点を渡り切った歩道の上。心地よい風が吹き抜ける。十数年ぶりのその余韻には驚いた。


「てことは、彼がトリガーではないってことかな?」

「うーん。はつみに聞けたらいいんだけどね。」

「あんた、それで死にかけたんだよ?ななみの代わりにはつみちゃんが生きられるならまだしも、2人とも居なくなっちゃうよ。」

「わかってるって。」


私が死んでまで、はつみは生きたいとは思わないだろう。だからはつみもそれが怖くなってあの時からもう出てこなくなったのかもしれない。だから私はあの子の分まで精一杯生きることにした。生きていれば、楽しいことも、辛いことも、うまくいくこともいかないことも色々なことがたくさんある。例え、心をえぐられるような辛いことがあっても私は胸を張って生きる。あれもそれもこれも含めて人生を楽しむ。だって私は生きているのだから。どこかできっとはつみが見てくれている気がしている。今度はつみが生まれてくる時に、姉としていい教訓をたくさん示せるように私は生きる。あの時は、仕事もバタバタだったし疲れているんだろうなと思った。もしくは、はつみが気をつけなよって何か警告してくれたのかなってぐらいに捉えていた。それから1ヶ月したある日、今度は一瞬のことではなく間違いなかった。はつみの夢を私は過ごした。久しぶりの感覚に私の心も体も驚いた。涙が溢れた。最初に思ったのは『おかえり!』だった。『また2人でやっていこうよ。もう私たち大人になったし、うまくやっていけるよ!』私のその問いかけに返事はなかったけれど、やっぱり私はこれでもいいって思う。はつみと人生を半分こしたって構わない。あの子が亡くなって自分が生きていることにずっと後ろめたさがあった。ただ、幼い頃の自分と今とで違うことはその感情の脇に怖さがあることだ。また私がはつみを邪魔だって気持ちの粒が落ちたら、はつみに気づかれてしまう。いつからだろうか、はつみとおしゃべりができなくなった。それとも幼い頃のそれらの記憶は私の私による夢に過ぎなかったのだろうか。過ぎていく月日は優しく無情にも朧げさをもたらしてくれる。


はつみは今も私の声には応えてくれない。一緒に生きようよ、それがあなたの願いでなければ、はつみは何を願っているのだろうか。


それからまたはつみと変わることがあった。そこで私は小津圭介さんの存在に気づいた。そっけないようで、丁寧な親切さや気配りがあって不器用な文面だった。悪い人ではなさそうだ。交差点で一瞬だった夢に出てきた人も、小津さんだったのだろうか。もしかして、はつみはこの人に恋をしているのだろうか。そうだとしたら、姉としてこんなに嬉しいことはない。勝手にテンション爆上がりしてきた。それから程なくして、梨花から呼び出しがかかった。最近、はつみの夢を見たか?という問いかけに驚いたが、私は咄嗟に嘘を纏った。梨花はきっとはつみを引っ込めようとする。心配してくれて、冷静で鋭く優しい意見をくれる梨花には本当に感謝している。それでも私ははつみである自分とも向き合いたい。だから夢は見ていない、と嘘をついた。梨花の話からすると、友達の同僚のとある男の子の初恋が<東雲はつみ>であるらしい、とのことだった。その話を聞いた時、私の心臓がトゥクンって言った。ピクピクって痙攣するような動きをした。その男の子の名前は、小津圭介と言うらしく、私は随分と遅れてハッとした。彼のことはもう知っている、と言わんばかりにあなたの心臓は落ち着きを取り戻していた。


「仕事でそっちまで行くから、カフェでお茶でもどうですか?」小津くんからメールがきた。その時はもうさすがに、このメールははつみ宛なのだと理解していた。思えば、こうやってはつみとやり取りをしている人を感じるのは初めてのことだった。だから私ははつみのためにも、大切にしたいと思った。でもそのやり方はわからなかった。私は当たり障りのないように「うん、いいよ。」って答えた。梨花に打ち明けたのはその後だ。はつみの夢を見ている事実だけではなく、私は私の気持ちを打ち明けた。はつみがもし恋をしているのなら、応援したいと。梨花は大きな声を上げた後、頭を抱えていた。恋って言ったってどうするの、私が私じゃなくなるってことじゃないか、と。梨花が言っていることはごもっともなのは頭では理解している。ただ、この気持ちだけはもう誤魔化せないと思った。久しぶりにまたはつみに会えたことで、私は強く自分の気持ちを梨花に向けて表現することができた。梨花は、優しい子だからわかってくれるという自信があった。案の定、梨花はわかってくれた。でも梨花はやっぱり冷静さと鋭利さをも兼ね揃えた素敵な友人なんですよね。


「わかったわ。じゃあ、その小津さんって人に会ってきなさいよ。ただ、私は近くで待機させてもらう。もし、はつみちゃんにならなかったら、自分ははつみじゃないって正直に全て打ち明けるのよ?もし、はつみちゃんが出てきたら、私は何もしない、見守りもしない、そっとその場から立ち去るから。」


それが条件だった。はつみの個を尊重しつつ、もしも私がはつみにならなかったら、私たちのこれからにも配慮した提案と条件だった。立会人の友人がいるとは聞いていたが、田中さんの事まで考え抜いて大胆な判断をした梨花には恐れ入った。いやでも田中さんのそれは面白がっているだけかもしれないな。もちろん東雲ななみのことを思っての判断もあったろうけど、いつも梨花の判断には私を思うがあまり、はつみのことが疎かになっているように思えてならなかった。梨花の提案を呑みつつも、私は(はつみはそれでいい?)と問いかけたがはつみからの返事はなかった。


その日の夜、私は楽しい夢を見た。私とはつみがカフェでお喋りしてる夢。2人ともとっても楽しそうだった。夢見心地で空気も美味しい。夢の中の私たちは我等ながらイケ女だった。たわいもないことを話している感じで、話の内容まではわからない。隣席で女子大生らしき3人組が私たちのことをキラキラした目でチラチラ見ている。手前のグリーンのカーディガンを着た子が立ち上がり、中腰のまま近づいてくる。「あの…双子ですよね?めっちゃそっくりでめっちゃ綺麗で〜!ご迷惑じゃなかったら写真いいですか?奇跡の双子ってInstagramに上げてもいいですか?」私たちはパチクリした目を合わせて、あははと笑い出す。彼女たちがキャッキャ言いながら覗き込む携帯のシャッターを切る。彼女のシャッター音で目が覚めて、こめかみ辺りを横切った涙の跡をなぞり、はつみが居てくれたらどんな人生だったろうかと思うとさらに涙が溢れた。悲しみと布団が私に覆い被さった。こうやって私は幾度もベットの上で丸くなってきた。











(トントン拍子 対義語)


「何調べてんの?」

トントン拍子って、割と順調にいってる時に使う言葉だ。私たちの私はトントン拍子に事が進んでいって、その反動でトントン拍子に落ちていった。時間は無情なまま過ぎて、圭介くんとは気まずいまま新規プロジェクトはスタートした。「大丈夫、美沙のことはちゃんとフォローしとくから。」そう言ってた梨花とななみさんは、一体何をどうフォローしたのでしょうか。圭介くんは何も言ってこない。もう怒ってはいないように思えるが、彼を見ていると怒ってくれている方がまだマシかもなとも思えた。わぁ怒ってくれてる、関心があるってことだって、そう思えるのになって。そう考えている自分はちょっと恋愛異常者なのではないだろうかと感じたが、客観的に自分をそう眺められている分にはまだ大丈夫だろうと納得することにした。彼は、彼の心は、もうそれに反応しないようにまた殻の中に戻ってしまった。利用者に+健康を、と水素水の提案を既存の顧客先から新商品の紹介を始めたが驚くほど契約は取れなかった。むしろ、「これを機に解約を」のきっかけを与えてしまっている状況だった。彼らにとって私たちの商品はただの経費でコストだった。新商品を喜び勇んで提案しにいったら解約されました、という数件の報告はチームの士気を著しく低下させた。作る側と使う側とでは温度差がある。私たちの思いとは裏腹にあくまで水は水でしかなかった。今日はそんな最悪な状況の中、定期報告のための憂鬱過酷なミーティングだ。


「洒落にならんな。」


積み上がるはずだった数字が積み上がらず、解約件数というまさかの数字が芽を出した資料に、鎌倉部長は怒りを通り越しておかしな空気をまとっていたが、それは噴火前の予兆であることを私はわかっている。チラリと圭介くんの方を盗み見る。あれから圭介くんは心ここに在らず、とは言わないが、淡々としたサラリーマンマシーンのようだった。言いにくい、、略すなら『サラリーマシン?サラリーシン?サラママン?サラマシン?』


「小津、とりあえず話を聞こうか。」

「はい。数字はご覧の通りで、結果は散々です。私たちが思っている以上に、利用者さんの水への意識や思いは薄く、それとは相反して、コストとしての意識が高いことが誤算でした。水素水を導入することで、コストが上がるくらいならという空気が『これを機に解約』『次回の期間更新は無しで』を助長してしまっている状況です。またどの企業さんも昨今の経済状況からも、経費の見直しという言葉を、、」


バン!

鎌倉部長が資料を机に叩きつけパワハラ会議が幕を開けた。先輩社員が言ってた、昔はもっと酷かったんだからさ、そう言うのってつまりはだからこのくらい文句言わずにやり過ごしてくれよってことなんだろうな。


「それは数字みりゃわかるんだよ。これから、どうするんだ?」

「報告の途中で遮らないでください。余計に士気も下がります。私は現在の結果、数字への報告、分析を行っていることを喋っているのです。見ればわかる、ではない部分を報告しようとしているのです。解約や契約更新しない旨の件数が出てくることは想定できていませんでした。提案料金プランの見直しと伝え方を改善する必要があると感じますが、皆で試行錯誤しながらブラッシュアップしていくしかありません。」


鎮まり固まりかえっていた私たちの背中に氷水が滴り落ちるかのようだった。逆ギレでもなく強気でもなく、圭介くんはただただ淡々としていた。私は恐る恐る鎌倉部長の方を盗み見る。見事なまでに赤く血色のいいお顔に、あれ?うっすら湯気出てない?と思った。


「この度の商品の良さが十分に伝わっていないように思います。そして、私たちのお客様は個人ではなく法人でありながら、利用するのは法人の先にある個人です。いくら個人が興味を示しても、企業が興味を示さない限り意味がない。アプローチを変えた広告、パンフレットを作成し直します。」


「とにかく3ヶ月だ。最初の3ヶ月でどれだけの結果が出せるか、だ。」

「世に出ているヒット商品の全てがすぐさま当たるわけではありません。自分たちは自分たちの商品を熱を持って伝えていくのみです。」

「次回、報告は聞いても言い訳は聞かねえぞ。新商品が浸透するまで時間がかかるのはわかる、ただこれ以上の解約はダメだ。いいな。」

「はい。」


鎌倉部長が部屋から出ていくと、ピシピシと空気が割れていきながら鎌倉部長と圭介くんのバトルに居合わせた人たちはざわざわと賑わい始める。

「小津くん、どうしたの?鎌倉部長に言い返すなんて!カッコいい!」

「あたしも、見直しちゃった!」

普段の彼を見つめもしない人たちが、どこかで突然打ち上がった花火に興味を示すかのように寄ってくる。私はあなたたちより彼を知っていることへの優越感めいたものが湧いた。なんだか、どんどん自分が醜い生き物になっていくような気がする。好きじゃない。


「訪問時に渡してる資料とパンフレットをとりあえず見直してみましょう。」


彼はそう言うと、スクッと立ち上がり部屋を後にする。私のことが見えていないのか、見ないようにしているのか、なんの興味関心もないのか、彼の気持ちが汲み取れるほど私は梨花のように鋭くはない。圭介くんとただ普通の話がしたい。ところでエビ好き?とか聞きたい。意識すればするほど喉が固まっていく。こんなにも誰かと普通に話がしたいと思ったことがあったろうか。そう強く思った私は今目の前の彼との間に生まれた仕事に集中することにした。そうすれば自ずと話す機会も増えるだろう。改めて資料やパンフレットを見直してみると、なんていうか、こちらの熱が悪い意味で出過ぎているように感じてきた。私たちは相手の興味を引き出したいのだが、これだけ押せ押せだと相手は引いてしまうのだろうか。かといって、どうすれば興味を示してもらえるだろう。既存の取引先のお客様だってのに新商品の営業だとわかると途端に忙しそうに見せてあしらわれたり、あからさまに迷惑そうな顔をされる。その代わり身にこちらの出鼻も心も挫かれる。健康を、水素を、と話してもハイハイとか資料あります?とかであしらわれてしまう。パンフレットや資料にしたって私が帰った後にちゃんと見てくれている気がしない。それでは全くなんの意味もない。顧客先によってはかえって解約や期間延長無しのきっかけを与えるだけの負のループになっている。熱のこもった薄っぺらい資料やカタログを眺めながらペン先を出したり引っ込めたりしながらしばらく考え込んだあとミーティングルームを出た。自販機の奥、遠近法で小さくなった圭介くんが窓際に立っていて外を眺めていた。その背中から今は何も感じ取れない。私は自販機でブラックコーヒーを2つ買った。


「はい、お疲れ様。」

「お疲れ様です。」


一瞬は、私が出てくるのを待ってたのかなと思ったが、どうもそんな感じの返答ではなかった。ビルの光がキラキラと反射を繰り返して彼の頬を照らしている。私は指が触れ合わないように注意して彼の手にコーヒーを渡す。


「ありがとうございます。しかし、参りましたね。」


あの日以来、近くでまともに声も聞いてなかったから彼がそう言っただけで昂る私をグッと堪えた。鎌倉部長とのやり取りに触れようかとも思ったが、それだと私も彼らと同じだしなにより圭介くんはその話題を望んではいないだろう。ささやかでいい。ささやかでいいから、他のみんなとは違うあなたにとっての私になりたい。


「さっき眺めてて思ったんだけど、この資料とパンフレット、今更ながら圧が凄くないかな?」

「え?圧?」


彼はそう呟きながら缶コーヒーを口元から離す。私は平静を装うことに成功している自分に集中する。


「いいですよ‼︎凄いでしょう‼︎ほらほら!契約しませんか!っていう、、なんていうか、自画自賛しすぎというか、、、」

「そう、、言われてみれば、まぁたしかに。でも商品のことを表現すると、自ずとこうなりますよね。」

「うーーん。資料やパンフレットとしては凄く凝ってて、デザインもいいし、とてもよく出来てると思うの。でもね、私、思うんだけど、、たぶんかなりの確率で見てくれていないと思う。」

「たしかに、、なんとか時間割いてもらって話をしてても、ハイハイって感じが伝わってきて、こっちも思わずこの良くできてるパンフレットに逃げちゃうんだよね。資料とパンフレット置いていきますんで!これさえ見えてもらえれば!って。」

「それな。たぶん、、みんなもそうだと思うよ。」

「で、折り返しの連絡はなし、と。」

「うん。」


うん、元気っちゃ元気だなと思いながら彼の目を、鼻を耳を時折観察していた。あの日のことを謝りたい。臆病な私は、謝ることも、謝らずに普通でいることもどちらもできずにいた。だけどなんだか今なら謝れるかもしれない。仕事に集中するんだ宣言から、おそらく8分くらいしか経過していないというのに私のそんな思いはまた徐々に私の肩を喉元を硬くしていく。


「でも、なんで目を通してくれないんだろう。結構よくできてるよ?これ。みんなからの意見も聞いてみよう。ありがとう。」


そう言って彼は缶コーヒーをヒョイっと目の高さまであげて、ありがとうの仕草に変えた。くるりと向きを変えて、歩き出す。私を見てくれていない気がする。私は、ここに居る。ここに居たい。


「あ、あの‼︎」


止まれ!と言った覚えはないが、私の声に彼はピタリと立ち止まった。


「あの、、こないだは、ごめん。」


彼はゆっくり振り返り、柔らかく微笑んだ。


「いえ、僕の方こそ、ごめんなさい。美沙さんは何も知らなかったんですよね。巻き込んじゃってごめんなさい。世の中には、色んな人が居ますね。それだけのことです。パンフレットの件、ほんとありがとう。」


無理矢理に語尾をあげてそう言うと、スタスタと歩き出した。やっぱりはつみさんのことは、知らないままなんだろうな。なんだか、私は少し身動きが取りにくくなっている自分に戸惑った。今しがた在れた彼との時間を思い返して余韻に浸りながら、「今は仕事に集中しよう」再び強く、そう誓った。そうすればきっと時間が解決してくれる。












僕の初恋の続編は儚く散った。ドラマティックな再会を果たした彼女は彼女ではなくて、初恋の相手は亡くなっているという結末に、なんらかの色のついた感情らは無くなって僕の心はまた無色透明になった。そもそも初恋と言えるのかどうか定かではないが、偶然にも再会し当時よりははるかに多い時間を過ごした気でいた僕は、少なからず彼女を意識し始めていたし、彼女が日常に加わってからと言うものいつもの景色が違って見えた。いつもの電車、いつもの交差点、仕事で行く新しい街、お洒落なカフェやレストラン、たくさんの人々の中に君の姿を探している。人はこれを恋と言うのだろうか、と考え始めていた頃ではないだろうか。まるでドッキリの撮影かと思ったしそうであって欲しかった。あの日の夜、東雲さんからメールが届いた。もちろん、東雲ななみさんからだ。


「本当にごめんなさい。居合わせた田中さんは、一切何も知らなかったの。だから彼女を責めないであげてください。私と梨花とで考えてやったことです。私のことは忘れてください。それでは失礼します。」


一方的なそのメールに返信をすることもなく時は流れた。思いがけないことが起きては、思うようにはいかないのがまた人生だ。思うようにいかない、と言うのも結果論であって、じゃあ僕はどうなることを思い描いて過ごしていたというのだろう。人はつくづく後付けで都合のいい生き物だ。あれからというもの美沙さんと話す機会もめっきり減ってしまった。僕は特に彼女に対して怒っているとか意識しているつもりはないが、彼女の方がぐつが悪そうにしている気がした。そんな中、新商品のウォーターサーバーの獲得営業の成果は思いがけない結果を残していた。それでも僕は落ち込むというよりは、ただ淡々と起きている現状を受け止め次の一手を考えていた。うまくいくことが当たり前にあるのではなく、うまくいかない中でヒントやきっかけを見つけながらどれだけ質のいい失敗を繰り返せるか。突如として乗りかかった船の操舵長を自分でも不思議なくらい真摯に務めていた。久方ぶりの彼女との会話で美沙さんの存在を再確認した。彼女の無邪気さ香る感性でもって時折、ひょんなヒントをくれる。コナン君みたいだなと言葉がよぎった瞬間、あの日以来初めて心が緩んだ気がした。はてさて契約を取れなければ鎌倉部長や会社から追及されるではあろうがどうすれば商品の良さを伝えることができるだろうかという至極シンプルな課題に、やりがいというより僕は楽しみを見出していた。僕が使える人間か、ダメな人間か、優秀な人間か、それを決めるのは僕ではない。他人なんだ。会社組織に属している以上どうしようもないし、どうでもいい。そこにはただ数字という結果があるだけで、その過程や可能性は評価されない。だったら楽しんでやろうじゃないか。どこかRPGにでも挑むような気持ちを抱いている僕は、愛社精神に欠けるサラリーマンなのだろう。


商品を伝えようとして必死に作り上げた立派なリーフレットを今一度眺めながら、伝えることの難しさと単純さを交互になぞらえていた。複雑にしているのは一体誰で何なんだろうか。どれだけいい商品だとしても、伝わらなければ、興味を持ってもらわなければ意味がない。SNSでインフルエンサーに一言記事にしてもらうだけで爆発的にモノが売れる時代に、自分たちがやっていることは随分と時代遅れな気がしてきた。


「インフルエンサーさんに宣伝してもらうにしても、私たちの顧客は法人さまですからなぁ…」


掌ほどに大きくなった携帯を艶めいた指先でスクロールしながら目の前の彼女がそう呟いた。そう、あくまで僕たちの顧客は法人である。ウォーターサーバーをリース契約してくれている2423社の法人が相手だ。ちなみに昨年は2402社、一昨年は2342社だった。伸び悩む顧客数に既存客の契約単価をあげようとスタートしたこの企画。そもそも現状維持ではなぜダメなのだろうか。結果的には久方ぶりに既存客を片っぱしから営業に回った翌々月には、ウォーターサーバーの契約法人数は減ってしまっていた。まだまだ新規事業撤退とはいかないだろうが、このままでは引き際を考える間も無くお払い箱の可能性だってある。十分に伝わった上で選んでもらえなかったのならばまだ納得がいく。しかし、伝わることと伝えることは違う。伝えたと思ってもそれがイコール相手に伝わっているとはもちろん限らない。何も仕事に限った話ではない。そのすれ違いの中で、人は悩み苦しむことだってある。頭の中を考えがぐるーりと1周したところで、彼女は僕のそれを待っていたように僕に問いかける。


「ねえ、圭介くんってさ、水を買うことある?」

「え、あ、ありますね。」

「私もある。でも、言っちゃ悪いけど、水じゃん?たかだか水じゃん?」

「はい、たかだか水ですね。僕らが扱ってるのもたかだか水なんですよね。」

「え、気を悪くして、、、、ない、、よね。田中、続けます。で、水なんてどれも一緒じゃん?」

「えーまぁ、一緒っちゃ一緒というか、大きな違いはないですね…。」

「ちなみに水飲む時って、どれ買うかとか決まってる?」

「決めてるわけではないですけど、、、、言われてみればいつもなんとなし同じものを買ってますね。」

「お、、マジか。私もそうだなぁと思ってね…。ちなみになに買ってんの? せーので行きますか、、、せーのッ」


『いろはす。』


「おー‼︎ ぴったんこ♪ 、、、ん?え、で、なぜに?」

「いや、別に、、理由なんてないですけど、、、なんとなく。美沙さんは?」

「いゃあ、私も別に、、理由なんてないけど、、、ベコベコって気持ちいいからかな笑。」

「同じ水を扱う者として興味深いですね。ちょっと何かのヒントになるかもしれませんし、調べてみますね。いつもありがとうございます。」

「へ?いつも?私、最近、圭介くんの暮らしに登場してなかったよね?」

「なんですかそれ笑」


そう言いながらも彼女とこうして笑い合うのも随分と久しぶりな気がする。秋の始まりを感じる冷え込む朝に、僕らは同じように一枚羽織って来たもの同士。日中の寒暖差が大きく、午後からのカラッとした陽気と弾んだ会話に少し汗ばむ。そんな僕を察したわけはないだろうが、彼女は窓を開けながら、また僕の気持ちを声にする。


「うーーーん、午後からはいい天気だなぁ〜。風が気持ちいい〜。」


窓がカラカラと音をたてて、音調を合わせるように風がそよそよと入ってきた。なぞる風はすこし冷たく心地よい。微風に揺れなびく彼女の髪が思い起こさせたのは、残念なことにまだ君のことだった。










これで良かったのかな。その思いが残っていることを問いただすように、あれからはまた自分勝手なはつみの夢を見る。やっぱり私はあなたに会いたい。自分勝手でも偽善ぶってると思われても、あなたのための体でも、心でも、人生でも、構わない。そんな自分の気持ちに烙印を押したところで、はつみは出てきてくれなかった。小津圭介くんとの出会いはなんだったんだろう。小津くんと会うときはひょっとするとまた心地よい夢が始まるかもしれない。待ち合わせのカフェに向かって、1歩1歩、足を前へと踏み鳴らす度に私の胸の鼓動も響いた。屋上のカフェテラス、風が少なく日差しがちょっと乱暴なくらいの昼下がりだった。小津くんと思しき人はシェードのついた席に居た。少し前についていたんだろうな、そう思えたのは彼が風景と馴染んでいたから。その時、私はそんな彼の人柄に触れたようで胸がきゅんとした。刹那どきっとする。はつみになるかもしれない。1歩1歩、君へと近づく。次の一歩は、私じゃなくなるかもしれない。ドキドキが止まらない。あなたが私に気づいた。最初ははつみを待っていた顔をしていたけれど、すぐに私がはつみではないことをなんとなく直感で感じ取ったようだった。この人、凄いなと思った。はつみこの人すごいねと語りかけたかった。梨花との約束どおり、彼には都合の良い真実のかけらを渡し、私は私から守られた。だけど心は違っていて、今でも違ったまま。例えまた倒れてしまおうとも、はつみに会いたいし、はつみと生きたい。もう1度現れたはつみが、何を願うのかを知りたかった。今回のことで分かったことは、私自身のこの気持ちと、この気持ちを誰かに話してはいけない、ということ。彼は怒って帰ってしまった。その夜、私は激しく後悔した。はつみ、ごめん。そう繰り返した。それからの私はというと、偶然を装い彼に再会してみようと試みていた。それではつみへのお詫びのつもりなのだろうか、好きじゃない自分がいる。いつもの電車、いつもの交差点、偶然に出会えた彼の姿を探そうにも、似たような背丈、スーツ、鞄、靴。こうやって街を眺めていると、私は彼を知らないなんだな感じられないんだなって思う。たとえばこの交差点の向こうに信号待ちをしている彼が居ても、はつみならすぐに彼に気がつくのだろうか。こうしてすれ違うたくさんの人の中に彼が混じっていても、あなたが私なら彼を見つけるだろうか。そんなある日の夜、私ははつみとお話しができた。


「はつみ、、、」


大きくなったはつみは柔らかく冷たげな表情をしていた。鏡を見るように自分を見ているけれど、私じゃなくてはつみであることがわかるのはなぜだろう。本当に鏡に映したように瓜二つだ。私はあなたなのだから、当然か。


「本当、良く似ているね、私たち。」

「そりゃ双子だからね、お姉ちゃん。」

「どうして、出てきてくれなくなったの?」

「お姉ちゃんが倒れた時、怖くなったの。あ、ダメなんだ。私の体じゃないんだって分かったの。だってお姉ちゃんが死んじゃ嫌だもん。」

「うまくやっていこうって言ったじゃん。急に居なくならないでよ。」

「お姉ちゃんと、私の違いって何かわかる?」

「え、、、、?」

「嘘が下手くそ。」

「え?う、、嘘って、、なんのこと?」

「偽善者。」


そういうと、はつみはクシャッと笑った。その笑顔は私なのに私じゃなくて不覚にもゾッとしてしまった。目が覚めると、鳥がチヨチヨ鳴く声が耳を打つ。素直に生きることがもうずっと難しいままの人生だ。偽善者、、今の言葉は私の言葉?あなたの言葉?そんなこともわからなくなるほど私は大人になっていた。私の存在そのものを嘘だと言われているように思えてしまう。あなたは優しく素敵で自慢の妹。大好きな私の妹。もう迷わないから。









吊革越しに、同じリズムで揺れる広告を眺めていた。普段こうして視界にはいる広告も、気になるものとそうでないものとがある。それはしかし、各人の興味や関心、性別、年齢、様々なものに起因するだろう。誰彼かをターゲットにはしているわけで、万人に見てもらいたくて広告を作っているわけでもないだろう。では、僕たちの商品は誰をターゲットにできているだろうか。既存客の法人と言いながら、その先の利用者・個人でもある。ターゲットが曖昧である自分達の現状をたくさんの電車広告たちが気付かせてくれる。そのまま降りた駅の構内で、美沙さんをカフェ休憩に誘った。


「僕らのターゲット顧客って誰ですかね?」

「え、会社でしょ?すでに契約してくれている企業さま、ですよ。」

「そうなんですけど。だったら、このパンフレットって誰に向けて作られていると思います?」

「う、、うーん。水を飲む人?」

「ですよね、やっぱり。」


少し大袈裟ではあるが、おや?ん?待てよ?って時に、話し相手が居ることは悪くないなと思う。時に浮かぶ言葉は留めない方が良い。違和感の正体が掴めそうな気がしてきた。ターゲット顧客が法人でありながら、パンフレットはどうみても利用者、実際に水を飲む人に向けて作られている。


「いや、でも、こう作る以外にないと思うんだけど、、商品ことを知ってもらおうとすると。あ、これ前も言ったな。え、うまいやん、ここの珈琲。」


美沙さんは本日のコーヒーの豆がなんだったかを店員さんに問い直している。手元のメニュー表に記載があるのに、店員さんは優しく対応してくれている。


「ブラックハニーだってさ。なんかかっこわいいね。」

「え?、、あぁ、そこに書いてますけどね。」

「あじゃぱー。」

「珈琲好きなんですね。」

「うーん、うん。そんな本格的にハマっているわけではないけどさ、豆によって香りや味が違うじゃん?面白いよね。」


なに当たり前のこと言ってんだろう。珈琲が好きで珈琲は飲む人は多いだろう。だが、水が好きでわざわざこだわりの水を飲む人は少ないだろう。だけど水にこだわりがある人ほど健康志向も高いはずだ。その根拠のない自信があったことは事実で、だからこそ現在の成果には出鼻を見事に挫かれたが、それでもスッとは引けない気持ちもあった。動機はともあれ、僕は今までこんなに真剣に仕事と向き合ったことがあったろうか。入社してこれまでは、前担当者から引き継いだ法人顧客と新規顧客を日報作成のネタ埋めのために回っていた。そこに初めて自分たちが発案したプロジェクトが生まれた。ミッションを担いで、さあ育てていこうと最初の城を飛び出して、隣村の課題をクリアし次の街へと向かう道中で少しレベルをあげる。しかし次の村での課題に早くも躓いているような感じ。荒野に戻りレベル上げをしようにも、どこか効率ばかり考えてしまう。そんな序盤で都合良くメタルスライムは出てこない。考えろ。迷った時は、どうしていたっけ?そうだ、村人に片っ端から話かける。情報を得るためだ。それでもピンと来なければ、教会で次の目的地を尋ねる。時にゲームやアニメはどんな啓発本よりも人生の指針となる。


「私たちの次の目的は?」


僕たちの目的。なぜにふと魔が差し不謹慎にもふと思い出してしまったのは中学校卒業の時。みんなで女子に告白するんだって盛り上がって、それぞれに意中の子の名前をあげひとりずつ告白したことがあった。好きです、と僕はあの子に伝えた。彼女は「で、私とどうしたいの?」と言った。僕は何も言い返せなかった。僕の目的。それはいつからあって、いつからなくなったのだろうか。


「僕たちの目的ってなんでしたっけ?」

「目的?、、、利用者さんの健康、かな?」

「ですよね…。でも利用者さんって、個人ですよね。ターゲットの顧客は法人なのに。」

「た、、、、確かに〜。」


一瞬、美沙さんの太めの「確かに」が、小ふざけているのか、なんらかのモノマネかと思ったが、その後の空気感から彼女自身のリアクションだったようで、やっぱりちょっと天然で面白い人だなと思った。こうして一緒に過ごす時間が増えていけば、もっともっと彼女を知れて、僕という動物は美沙さんに好意を抱くようになるのだろうか。

「そういえば、いろはすのことを軽くネットで調べてみたんですけど。興味深い記事がありました。」

「あ、忘れてた。」


てへぺろな顔をする彼女。いつかの激おこぷんなんとか丸の時とは正反対の構図が頭に浮かぶ。


「いろはすは、ペットボトルをべこべこべこっと潰せることと、それがそのまま環境にやさしいエコ体験にも繋がるという点で、ただ同じ水を飲むならエコに貢献できる水をと、利用者が意識的であろうと無意識であろうと支持を集めた。」

「えー、でもそんなこと気にして買って、、、ないけどなぁ。いや、、気にしているのかな。あー、だからこそ無意識の領域。うーーむ、なるほど、、言われてみれば、、、納得はいくような…。」

「何かヒントにはなりそうですけどね。」

「うん。け、圭介くん、なんかきてるよ。きてると思う。ぁぁあ、なんかキテル気がする!」

「わかります、わかりますけど、落ち着きましょう。」


今しがた発している言葉と身振り手振りだけを切り取って映し出せば、そこには宇宙と交信しようとしているヤバい女性が居る。


「私たちの目的は、利用者さんの健康。だけどターゲットは会社。それじゃあ、会社さんの目的は?社員さんの健康、じゃないの?」

「そりゃ表向きは社員の健康をって言うでしょうし、実際そう思って実行している会社もあるでしょう。会社の目的は、もっと他にあるでしょうね。経費削減とか、福利厚生だとか。」


両者ともに考え込むときの癖が似ている。2人ともが口元に手をやり、流れる張り詰め気味の空気はこの議論の重要性を訴えている。僕も美沙さんも、体のどこかしらを小刻みに動かしながら、唇は言葉にならない声を唱えようとパクパクしていた。突き抜けそうで突き抜けられないもどかしさを感じながら、ふと窓の外に目をやる。今日も多くの人が行き交う。僕らと同じようなスーツ姿の男女に目がいく。男の右手には膨れ上がった大きな鞄。側で女性は手帳を開いている。今の自分達を映すようで、僕は彼らの幸運を祈った。視線を美沙さんの方に戻すと、ちょうど彼女の背後の席にどかっと斜めに滑りむように座る男性。それだけで彼を荒々しい男だと思わせるものだから、第一印象の怖さと単純さを嘆く。珈琲カップで顔を隠しながらしれっと覗く。男が乱暴に座り込んだ衝撃で空気が揺れて入れ替わる。遅れてスーツ姿の男が彼の対面にスッと静かに腰掛ける。


「やな感じ〜」

「あ?」

「どしたの?やな感じじゃん。」

「だるいってそりゃ。今日で20連勤だぜ?」

「え、嘘、まじ?大丈夫か、お前。」

「もうやってらんねー、も言い飽きたわ。とか言いながらもさ、生活があるから早々やめらんないじゃん?で、他に仕事探すにも、時間ないし、条件のいい職はないし。詰みそうだわ。」


僕はその男の風貌を見ながら、飲食業か卸業かなと頭を巡らせた。僕らはこうしてお茶しながら仕事を掘り下げていこうとしていのだから、同じ場所、ほぼ同じ席で背中合わせでも、彼と僕とでは随分と差があるものだ。それでも人の感じ方はそれぞれで、人の悩みの度合いなんて比べようがない。美沙さんもドサッと揺れた空気にすっかり熟考モードを解かれ、ずずずっと残りの珈琲を飲み干していた。お変わり自由だっけ?とメニューをクルクルと裏表させている。僕は時計に目をやる。2時まであと13分。1時45分をちょうど回ったところ、2時前、昼過ぎおやつ前、、どんな表現が適当とも思えない時刻だった。田中さんの背後の2人組のやり取りは続いている。ちゃんと話を聞いてあげている連れの男性は若いながらになかなかにいい奴だな。いい友達を持ったな、手前の君。


「頼れる上司的な人とかいないの?」

「皆無だね。自分は大して何にもしねえくせに、スキルアップしろだの詰めが甘いだの、とにかく難癖つけてくる感じ。」

「キツいなぁ。タイムカードとか就業規則とかないの?」

「なんそれ? 聞いたことないわ。」

「はい、ブラックだね。」


そのとき僕と僕たちにピリリッと電気が流れた。さぁもう店を出ましょうかと、体を机と椅子の隙間から抜き出そうとていたところだったが、互いに顔だけを引き合わせる。


「ホワイト。」


そう言って僕らは久しぶりに目を合わせた。小田急線に乗って会社に戻る車内、吊られた広告を見上げながら、先ほど互いに発した言葉をなぞる。互いのアンテナが立ち、聞き逃さまいとする僕らは自ずと互いの肩とこめかみが近づく。


「企業も人なり。会社が欲しいのは、ホワイトさ、なのかもしれませんね。」

「うん。いい会社だよ〜、良さそうな会社だなぁ、社員思いだなぁ〜ってね。リア充アピールみたいな感じ?」

「まぁそこまで言うと嫌味が走りますが、内からも外からも良く見られたいって言うのはあるかもしれませんね。企業にもよりけりでしょうけど。」

「でもこれ、なんか鎌倉ちゃんに言いづらい笑。」

「あー、別に事後報告で良くない?」

「御意。」


電車が停車する前の減速をかける嗄れた音が彼女の言葉をガシャらせ、御意、と言ったのか、はい、と言ったのかわからなかった。ホームに停車すると、パラパラ人が降りていく。事前にドアの付近で構えている人もいれば、目の前の緑のおばちゃんはホームドアが開いてからそろりそろりと降りていく。走行中の先程よりは少し離れた僕らの距離をそのままに美沙さんはプシューっとドアが閉まる音の終わりを待って、僕にちゃんと聞こえるように言葉を取り出す。


「あれから、連絡ないの?」

「え?」

「東雲さん」

「・・・ないですよ。」


人は咄嗟に、どうしてだかわからないが、どうしようもない嘘をつくことがある。蜜蜂の羽音にも、アナログテレビの砂嵐にも似た音が混じり言葉が吃る。ゆっくりと走り出す電車。閉まりかけたドアがおっとっとともう1度開く。足先が丸く、まだ艶も覚えるパンプスを履いた女性が滑り込んできた。髪はショートボブだった。刹那、思い出すのは乗り込んできた君の表情。もう次はないわよと、念を押すかのよにゆっくりと閉まっていくドア。スタートを挫かれた電車は躓くように走り出した。








ー 東雲はつみさんからメッセージが届きました。ー 

「もう1度、会ってくれませんか?」



ディスプレイに通知されることで僕は相手からのメッセージを知り得ることができたが、送信者からすると読まれていないことになっている。電話帳の名前を変えてなかったなとも思ったが、そもそも表示名を変える必要もないし、連絡を取ることもないだろうと思っていた。確かに、東雲はつみと東雲ななみは見た目こそそっくりだが中身はまるで違っていた、はずだった。今、目の前に2個の卵を置かれて、一つは生卵、一つはゆで卵と言われても見た目にはわからない。だが、人にはその人が纏っている空気感がある。あなたのオーラは何色ですか?そう書かれた本の著者には、ゆで卵や生卵のオーラも見えるのだろうか。もし、そういう空気やオーラを判別できるのであれば、僕が騙され、軽く踊らされることもなかっただろうか。


メッセージが届いていないのかな?気づいていないのかな?未読スルーですか?東雲さんはいつまでそんな思いを馳せるだろうか。携帯のメッセージ画面を開いては、読んだか読んでいないかを確認する日々を過ごしているだろうか。当初僕は、僕だけメッセージを読めている状況がズルいとか卑怯だとか感じてもいたが今ではすっかり萎えたもんで、多分その気持ちは3日も続いてはいない。時間は人の気持ち徐々に沈めていく。感情は水の如く流れては形を変えながら消えていく。時間は忘れるべくことを忘れさせていく。メッセージが来たのがちょうど先週の今日だった。時間の経過は僕を落ち着かせる代わりに、にわかに抱いていたはずの疑問を再び浮かび上がらせていた。あの彼女がわざわざどうしてあんなことをしたのか、が分からない。あの片割れの友達の悪ノリだったのだろうか。僕はこういう時、反芻する言葉があっていつものようにその小道具を取り出す。(考えても仕方がないことは考えるな。)


日差しが強い初秋の午後でも、ビルの日陰に包まれるとピタッと冷える。この街へ越してきた時も感じたこの感覚。明るいところと影のところ。光と影のまばらさや強弱がそのままこの街を表しているように感じた。そこを吹き抜けた初嵐は露出した頬や首筋を強張らせた。ポケットのなかで年々巨大化していく携帯が僕に合わせたようにブルっと身震いをする。取り出した携帯のディスプレイはまたご丁寧に2通目のメッセージが届いたことを相手は知らないところで僕に知らせてくれた。


ー 東雲はつみさんからメッセージが届きました。ー 

「はつみのことで話があります。」


通知を示す携帯は、不思議とどこか少し僕にイラついているように見えた。

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