第3話 感情
「そう思う根拠はなんだ?」
「確かにS社の方が初期投資費用が高くつきます。ですが、S社には炭酸水という強みがあります。」
「なんだ?炭酸にするのか?」
「そうではありません。1つの商品を売り続けようとすることは危険だと思うのです。中長期的な目線からすると、変化が必要な時期が来ると思うんです。」
「なるほど。そういう意味では、初期費用がかからないと言っても、M社よりS社を選ぶべき、ということだな。」
「まだ確信は持てませんが、、もう2社ほどアポが取れていますので、精査していきます。」
「おう。引き続き頼む。報告書は、」
「火曜の16時着。ですね?」
「必着だ。」
「承知いたしました。」
圭介くんが私を残して、小さな会議室を出ていく。思い出すのは公園の遊具、隠れる小さな私。
「よう、田中。あいつ、なんかあったのか?やる気満々ってこたないが、、雰囲気違くないか?」
「・・・恋、ですね。」
「あ?こ、こい?恋っつった今? あいつがそんなんで変わるタイプか?」
「部長、いくつになっても、誰であろうと、恋は生きる理由ですよ。」
「社内恋愛じゃねえだろうな?」
「それだといいんですけどね…」
「あ?ぉお?よかねえだろう。まぁやる気になるのはええことだが、後々面倒なことにならねえようにな。」
「・・・部長って初恋とか覚えていますか?」
「あ、なんだ?はつ?なんて?」
「なんでもないです。お疲れ様でした。」
男。種類、人間の雄。成長過程や経過年数にもより個体差があるが単純でバカ。だがしかし、個人差はあろうがそこに時に愛らしさも感じてしまうのがまた我々人間の雌である。て、なにを言っているのだ私は。部長が言うように、ここ数日のあいつときたら明らかにピンとしている。やる気がみなぎっているとは程遠いが、水を得た魚とも言い難い。それでも不思議と私にはわかるのだ。恋をしていると。そして、その相手が自分ではないことも容易くわかってしまう。あきらくんの時と同じ。スポットライトが当たっていない人間の恋は、視聴者は愚か共演者ですら気づかない。私はいつまでこんな脇役のような恋をするのだろう。ちょっと待てちょっと待て、なにも脇役とは決まっていないじゃないか。あの頃からの私の悪いクセだ。それにしても何があったのかな。気になるけれどショックを受けそうで聞こうにも聞けない。こんな風に人を好きになったことなんてあったっけ?例え体を重ねたとしても、心が重ならなければそれは続かない。女、人間の雌の特徴。
私はどういうわけか前から彼が気になっていた。どういうわけかと言われても困る。でも、彼と彼の口から彼の話を聞いて、彼の純粋さや少年のようなバカで無邪気で幼い部分を大きくなった体で隠してるんだってことに私は気づけた。ぁあ、もっと出てきて、出ておいで〜出てきていいのよって思った。でもそうやると自分の部屋に引っ込んでしまう、そんな気もした。また一緒に過ごしたいな、もっと一緒に過ごしたいな、久しぶりにそう感じた夜だった。それだけでも十分に嬉しいのに、こうなると人はその先を望んでしまう欲張りな生き物だ。
ぁあぁあもうダメダメ。この思考回路パターン。私は決めていた。この恋の種は、例えどう転んだとしても楽しみたい。上がったり下がったりがあるに決まっている。でもまるで水族館や遊園地にいるかのように楽しみたい。甘っちょろいこと言っているようだけど、甘っちょろくていいと思う。
人を好きになるっていうことがどういうことなのか。私は、何度も何度も、恋をするタイプではないように思う。毎日電車に揺られ、これだけの人ごみの中にいるのに、こんなにたくさんの人がいるのに、私が好きになる人は1人ずつしかいない。そしてその人がこっちを見てくれるとも限らない。たくさん失敗して人は成功する。バスケットの神様マイケルジョーダン氏はたくさんのミスショットをしてきたから成功したんだ、鎌倉部長がよく言ってるお気入りのセリフを思い返す。こと恋愛に関してはどうしたらいいの。何十、何百、何千何万球と打てる訳じゃないし、練習できるわけでもない。ほとんどの人が準備不足に経験不足。そりゃ変な男も、はたまた変な女も居てもしょうがないと思う。その人と合わないだけで変なのかどうかもわからない。人は、人同士はやたらとパズルのように突起部分と凹んだところがガッチリ合わさることを求める。私は、ガッチリ合わなくていいと思う。自分にとっての合わなさ加減を学ぶのが恋愛なのかもしれない。彼から初恋の話を聞けたときはなんだか嬉しかった。うまく言えないけど、やっぱりなって感じもした。だから惹かれたんだろうなとも思った。この人は心が綺麗すぎて人の心に近づくことが怖いだけなんだ。そんな風にも思えた。東雲はつみ、聞き覚えのある名前だった。と同時に私の前頭葉はその名前の持つ暗い影をも記憶していた。
しののめ、はつみ、、彼女は、確か、、双子の妹。
双子の妹で、妹さんの方は、亡くなっているはずではなかっただろうか。
まただ。
そう思った。時々、私に穴が空く。
空白の時間、自分の心にぽっかり穴が空いて、でも痛くない。その穴を心地よい風が通り抜ける。その余韻が体や心を伝ってくる。だって、この心も体も私だもの。瞑想しているときのふわふわした、気持ち良い感覚に似ている。突然の再会に私は笑う。あなたは私。私はあなた。私はそれでいい。これでいいの。だから今度はうまくやっていこうね。
私らしく、
あなたらしく。
昔はもっと上手に、あなたとおしゃべりできたのにね。成長するって、できることが減っていくのかな。人はそれを老いるというのかな。
このカフェに来るのももう3度目か。あちこちに反射されてでもあらゆる角度からなんとかして僕に刺さろうとしてくる都会の日差しはかまってちゃんだ。3回目の今日は、そんなかまってちゃんからはつみさんを守ってあげられるように立ち位置を決められた木とそれらと手を組んだシェードとで料金増しでもいいんじゃないかと思える涼しげな席を確保することができた。少し早めに来た甲斐があって心地よく風が抜けることも確認できた。忙しい彼女の日々を僕には映像化することすらできないわけで「激務だってさ」そういった美沙さんの言葉は、そのまま彼女のお姉さんの言葉なのか、彼女のお姉さんの友達の言葉なのだろうか。だからこそ同じ業界に身を置き同じように激務なのかもしれない彼女をこうしてカフェに誘うことはいささかの抵抗を覚える。「うん、わかった。」無機質な文字は時に送り主を不安にさせる。飾られた言葉たちほど嫌いだった僕がそんな感情と相対することになるとは、直筆の謝罪文を一斉送信したい気分だ。
関係各位様
絵文字とかデコった文章なんて誰にだって書けるし、どんな顔して誰が送ってきているのかも分からないというのに過大評価しすぎている。一方で、ビジネスメールは無機質なまま。取引先に絵文字や顔文字はNG。着飾られていない文字たちは、いつから表現の地位を低めたのでしょうか。とか呟いていましたが彼女からの返事で絵文字がないと見事に不安になりました。え、迷惑かなとか思いました。👍とかだけでもつけて欲しい、あわよくば✨や♪もつけて欲しかったです。せめて顔文字を…。本当に申し訳ございませんでした。 小津圭介
この木漏れ日や吹き抜ける風に少しでも彼女がひとときの癒しを得られるのならいいのにな。幼記憶も今でも、ふんわりと柔らかな時が流れる彼女との時間。今度会ったら話そうと思っていたこと諸々、僕の中にそもそもそのこと自体がまるで無かったように過ぎていく。そうして彼女と何度か過ごせても、不思議と僕は浮かれて連絡をする気にはなれなかった。強がっているのかな。彼女のことを考える夜も増えたけど、かといってなんて連絡すればいいのか、無機質な文面を作っては改行したり削除したりを繰り返した。「今日はありがとう。」「またね。」それだけが着飾る必要のないまっすぐな言葉だった。ちょうど木漏れ日が風に揺られ、僕の頬を掠めた時だった。視線の先に彼女を見つけた。困ったようにキョロキョロと僕を探している。都会の陰陽は人の視界を眩ませる。僕は手をあげ立ち上がる。
「お疲れ様。」
「ごめんなさい。お待たせしてしまって。」
人が纏うオーラや雰囲気といったものは不思議なもので、空気を震わせ僕の全身を突っつくのだろうか。すぐに違和感に気づいた。何かあったのかな。そんな僕の表情を察したのだろう。彼女はすぐにこう切り出した。
「初めまして。東雲ななみです。はつみの姉の。」
「え?ぁ、ぁあ、やっぱり。お世話になります。しかし、本当にそっくりですね。」
「でも、あなたはすぐに気づいたみたいですね?」
「うーん、なんか伝わってくる空気感が違ったので、おや?と思いました。」
「感性が豊かな方なのでしょうね。」
突然に現れたお姉さんに僕は困惑こそしたが、まだ何も2人の関係に進展らしい進展もなかったからこそ堂々と振る舞えた。それにしても瓜二つとはよくいったもので、改めてどこがどうはつみさんと違うのかと自問しても明確な回答は導けそうにない。
「ごめんなさい。妹なのですが、、、今日は来られなくて。」
「え、あ、そうなんですね。あの、、まさか、彼女に何かあったんですか?」
「いえ、大丈夫です。」
「そ、そうですか、、よかった。連絡してくれたら良かったのに…。わざわざ、お姉さんに来て頂かなくても。」
「いえ、私もあなたに会ってみたかったので。」
「え?、、、はぁ。」
それはつまり姉妹で僕のことが話題になっているということだろうか?都合よく捉えた僕の脳は僕の心を少し踊らせた。いつか覗いた海で撮られたプロフィール写真を思い出す。伸びた足、ふくらはぎの肉付き、瞳の色、鼻先の形、艶めいた唇。雰囲気が違うとは言ったものの、どこがどう違うのか説明しろと言われればいと難しい。しかしまいったな。なにを話せばいいのだろうか。見た目にはほぼ同じ人を目の前に言葉が出てこない。僕の社交性は下の上とか中の下とかだと思う。初対面でも頑張れば言葉は出てくるできる子だ。そう思うと彼女と出会ったあの時も、あの時も、その時も、言葉なんてごく自然と存在していたな。
「あの、、妹のことなんだけど、、仕事が立て込んでて、しばらく会えそうにないの。大事な時期でもあるし、しばらくそっとしておいてもらえるかな?」
「え、あ、そうなんですね。わかりました。出版社ってやっぱり、お仕事大変なんですね。」
彼女が仕事で忙しいことは大いに素晴らしいことでスッと理解こそしたが、なぜにその旨をわざわざお姉さんが伝えにくる必要があるのだ?僕という存在が彼女の邪魔もしてなければ、はたまた心の支えと言えるようなものでもない。残念ながら僕はその程度だし、僕はまだ何もしていない。まさか彼女は僕に恋をし始めていて、恋煩いというような状態で業務に支障が出ているとでもいうのか?もしくは、恋は盲目とはよく言ったもので僕の知らないところで僕はもう十分に彼女にとって鬱陶しい存在なのだろうか。ぐるぐると妄想が周回する。
「あの、、彼女から連絡もらえればそれで良かったのですが、、どうしてわざわざお姉さんが、、。」
「妹が、その、、仕事もあって、ちょっと体調崩しちゃってね、、、それで、、」
「え、そうなんですか!そうとも知らず、すいません。どこか悪いのでしょうか、、?」
「うううん、大丈夫、心配ないの。少し休めば、、、大丈夫。」
「それならそうと、、、連絡くれたらそれでいいのに。今日だって、、お姉さんも僕に会ってみたかったって、、それはどういう、、」
「それは、、、妹が、、あなたのことを話してたから…」
「なんて言ってたんですか?」
僕は彼女のことを大して知っているはずはないのだが、体調が悪いならそう連絡をしてくるのが彼女であろうと思った。僕が知っている彼女と僕が知らない彼女とでは随分とまた違うのだろうか。その時だった。まるで矢文が飛んで噛み合わない2人の間に突き刺さったような瞬間だった。
「ぁあ、もう見てらんない!」
振り返ると見知らぬ女性がズデンと立っていた。少し遅れて立ち上がり振り向く女性には見覚えがあった。彼女らは僕たちを背を向けるようにして反対側の席に座っていた。一体いつから、いやそれより、どういう状況?どうしてここに、美沙さんが居るのだろうか。
「ななみ、それじゃダメでしょ。あんたは本当にお人好しなんだから。」
遅れて少し察してみた。この女性はきっと例の東雲ななみさんの友達で田中美沙の友達でもある。それ以外のことはさっぱりわからない。一体どういう状況なのだろうかとその答えを促すように彼女に目をやると、彼女は眉を困らせ視線を落としている。
「突然ごめんなさいね。私は、ななみの友達で高橋梨花って言います。初めまして。申し訳ないんだけど、ななみひとりじゃ心配だったからついてきたの。」
「え・・・し、心配?」
僕は隣の美沙さんにゆっくり視線を移した。高橋梨花の方をキョトンと見つめながらも、僕の方を見ると、どこか申し訳なさそうに視線を落とした。どうしてそんな顔をしているんですか?そう尋ねるわけにもいかない。わからないという状況は人を動けなくする。
「ごめんない。もう、ななみには会わないでもらえますか?」
「・・・え?、は、、?、あの、今日初めて、会ったんですけど・・・」
「とにかく、、ななみにも、はつみにも、会わないで欲しいんです。それが、ななみの為でもあるの。」
「ちょっと、、どういう意味ですか。もっとわかるように話してくださいよ。」
少し、感情が前を行こうとしているのがわかった。僕は人知れず手綱を強く握る。感情的になってもいいことなんてないって理解しているはずだ。
「東雲はつみさんは、もう居ないの。」
「え?」
居ない?居ないってどういうことだ。お姉さんが東雲ななみさんの友達を制止しようとする。情報量が多くて渋滞している状況で僕はどちらにも動き出せない。
「ねぇ、梨花。やめようよ。そこまで言わなくいいよ。」
「ななみ、自分のことなのよ?しっかり言わないと。それに小津さんのためにもならないでしょ?」
小津さんのため、という言葉には明らかにピリリとしたものが走った。それを決めるのは僕だ。依然、どういう顔なんですかと普段ならツッコミを入れそうな表情を貫いている田中美沙。次に耳にする言葉に感情の手綱を握る手の力が解けていく。
「東雲はつみさんは、亡くなっているの。」
「・・・え?は?、、何言ってるんですか。でも僕ははつみさんに会って、、、?え・・?」
お姉さんに目をやると鼻の頭が赤くなっていて、必死に涙をこらえているのがわかった。ちょっと待ってくれ。どういう状況なんだ。
漏れる彼女の「ごめんなさい。」
田中美沙、その友達、その友達の友達。
混乱したままの不器用な僕は、曖昧なままが唐突に胃袋に落ちた。同時にあの感情が沸々とゲートが開くのを待っている。
「ちょっと待ってください。では、僕が会っていたのは、お姉さんってことですか?」
「そうよ。」
「ななみさん、どうなんですか?あなたに聞いているんです。」
「・・・そうです。私です。」
涙で震える声は、罪悪感からなのか。だとしても、僕の感情は止まらない。
「田中さんは知ってたんですか?」
立ち尽くす田中美沙に言葉と視線を共に投げる。普段は陽気で誰とでも分け隔てなく接し、愛嬌あふれる田中美沙は俯いたまま何も言わない。その態度を不器用で身勝手な僕の頭は「イエス」と認識したようだった。
「ふざけないでくださいよ。なんなんですか。こうも、うまくいったんだから、せめて笑ってくださいよ。テッテレーって言ってくださいよ。」
「ごめんない。騙すつもりなんてないの。全てを話しても、許してもらえない、どうしたって許してもらえないと思う。ごめんなさい。」
残念ながら僕は止まらない。僕は人間という獣だ。そんなにできた器でもない。
「出版社って激務なんじゃなかったんですか?お仕事大丈夫ですか?どいつもこいつも、揃いも揃って暇なんですね。」
この人はどうして震えているのだろうか、震える指先で千円札をつまみ上げるとテーブルに叩きつけた。俯き視線を逸らしていた美沙さんはひとりだけその音にビクッとした。立ち上がって背を向け、震える足を誤魔化すように乱暴に歩き出す。
「圭介くん!!」
美沙さんと思われる人がようやく喋った。なんだちゃんと田中美沙じゃないか。止まらない僕の感情は、振り向くことも歩みを止めることも許さなかった。人と深く関わっても、誰かを好きになってもいいことなんてありゃしない。到着したエレベーターの階数ボタンの下から3番目に触れる。重力と擦れながら動くエレベーターが僕の体ごと僕を沈ませていく。ちょっと落ち着けと言わんばかりに僕の臓器がグッと抑え込まれる。スーッと感情が引いていく。チンという到着音と共にドアがゆっくり開く。あれ、どうして俺こんなに怒ってんだろう。誰だこの人。何が僕をこんなに怒らせたのだろう?全てが曖昧で、そんな自分に嫌気がさしながら僕はまた雑踏の中へと紛れていく。
初恋エピソードを話せる人は多いように思うけど、今目の前の恋の始まりを説明できる人は多くいるだろうか。恋が始まっているのか、いつから恋と言えるのか明確なシグナルがないなら尚更だ。圭介くんから「東雲はつみ」という名前を聞いた時、私が記憶しているその名前の余韻に心と体が一瞬震えた。確かめる必要なんてなかったのだろうか。私はなんのため、誰のためにこんなことをしているのだろうか。理由や動機なんて明確に手にして動いている人が偉いわけじゃない。私は心のままに今を生きる、と身勝手で曖昧で投げやりでもっともらしい言葉を添える。共通の友達である高橋梨花に「東雲はつみさん」について連絡を取った時、彼女の返事で程なくしてその余韻が的中したことを思わせた。そう、彼女は亡くなっている。お互いの仕事の話にも一旦なりはしたが、どうして今はつみさんの名前が出てきたのかに梨花は興味があるようだった。私は同僚と東雲はつみとの初恋エピソードと再会疑惑についてあまり飾り付けしたくなかった私はあえて簡素な文を打った。すると彼女はこう送り返してきた。
「再会疑惑はともあれ、彼が子供の頃にあったのは、はつみさんかもしれないね。」
私が既読をつけてしばらくやり取りをした後に、その一文は 「削除されました」 に変わっていた。
私たちのプレゼンが成功し、本格的に新サービスへの準備に取り掛かる前でまだスケジュールや気持ちに余裕がある。メールで梨花に連絡を取ってから翌々日には私の方が彼女の職場近くまで出向いてランチをすることになった。声をかけたのは私だが、喰らい付いてきたのは梨花の方じゃないかといささかは思いながらも彼とまた過ごせる機会を得るための情報を手に入れられるかもしれないというガチャガチャのカプセルを開ける前の気持ちに似た物は持っていた。彼女は昔から気が立つと即日もしくは翌日までにはゴールしたいタイプだ。短気とも言えれば、直感タイプで感性の人とも言えるだろう。同じことでも言い方ひとつで印象が変わるものだ。待ち合わせは裏通りのさらに中通りにあるイタリアンのお店。こんな洒落たお店でパスタランチとはリアルが充実しているように見えるだろうか。そんな単純な時代でもないか。
「2名で予約していた田中です。」
「ありがとうございます。お待ちしておりました。お席へご案内いたします。」
コッコッコッ。フロアーとヒールが勇みよく心地よく鳴るこの音が私は何気に好きだ。そして自分が鳴らすものよりは、他人が鳴らしている音に耳を澄ませる。その音からまるでその人の人生や人柄がわかるような、勝手ながらそんな気すらしているがそんなわけはない。
「こちらの席をお取りしております。」
「ありがとうございます。」
「お客様、今日は天気も良く風も心地よく吹いています。テラス席にひとつキャンセルが出たのですが、お席を変わられますか?」
あぁもう大好きハグしたい、と思った。冒頭の一言があるかないかでこうも変わるものか。
「私もそう思ってました!ぜひお願いします。。」
「それではあちらのテラス席をご利用ください。」
「ありがとうございます。」
ちょっとしたことで人はそれぞれに嬉しくなる。ちょっとしたことでも人は変わる。それを積み重ねていけると、気づいた頃には大変身しているのだろうか?私は自分の変化に自分で気付けてあげられる人だろうか、それとも見ないふりをしている人だろうか。もちろん変わらない人もいる。色んな人がいるからこその人生だ。心地よい足音とよそぐ風にひとりポエム大会が始まった。なんだか今日は気持ちがいい日だな、単純な自分は嫌いじゃない。むしろ素直でいい子なんじゃないかなって思うイタい女。自分を嫌いだとも思わないけれど激しく好きだとも胸は張れない。でも、こういうところは好きって思えるピースはある。そんなことに頭を巡らせながら梨花にLINEを入れる。「テラス席ゲット!」
少し遅れて梨花がお店についたけど、私がときめいたテラス席には触れてくれなかった。だけど感じたことを口にする人とそうでない人がいるだけの話かもしれない。さっきの店員さんが脳裏に浮かぶ。あの子だったら「テラス席には最高の天気だね。ラッキーラッキー♪」とか言ってくれそう。梨花は私とタイプが違うし、仕事もキレッキレって感じ。だからこそ私たちは合うのかなとも思う。パズルだってそうじゃん?出っ張ったところが同じだと組み合わさらないもん。お互いの近況報告という前説もほどほどに今回のお話のおさらいが始まった。全く本当に清々しい程にせっかちだ。
「ななみとはね、高校からだけど、仲良いし、いわゆる親友ってとこ。今も、同じ出版社で働いているんだ。ななみとは人知れず色々あったのよ。」
「へー!そうだったんだね。知らなかった。」
「まぁ、、話題になることなかったしね。」
「東雲ななみさんは、東雲はつみさんの双子のお姉さん。だけど、、、亡くなってるんだよね?」
「うん、3歳の頃にね。」
「そっか。3歳・・・。」
思わず首をもたげ眉間に皺が寄る。
「ちょっと待って。私の同僚が彼女に会ったって言ってたのは、小学校入学前だから、その時の彼女は小学1年生ってことだよね。」
「そうなるね。」
「てことは、、彼が会っていたのはななみさんってことか。彼の記憶違いかな・・・」
「そうかもね。」
「まぁ、はつみとななみって名前も似てるしね。聞き間違いだったのかな?」
「・・・小学校1年生の頃ってことか。」
気持ちのいい日にテラス席を取れたっていうのに、開始早々、想いを寄せる相手の初恋に若干の勘違いが起きていることがわかると、私の心にはちょっぴり複雑な風が吹いた。これは彼に伝えていいものかどうか。いや、わざわざに伝える必要もないかと思い返すと、彼の秘密を得た様な優越感とまた彼を誘い出せるほどのネタではないなと落胆とが静かに混ざり合う。
「お待たせしました。オマール海老のトマトソースのお客様。」
オマール海老を頼んだのって私だっけ?梨花だっけ?と一瞬思ったが、本日のパスタを2つ頼んだのを思い出せた。見た目にもプリプリな食感が伝わる海老と美味しそうな香りと色彩に私と梨花は(とりあえず食べよっか)という顔と顔を見合わせた。心地よく誘われたこのテラス席で、陽の光、風の音、枝葉が擦れる音、ナイフとフォークが皿にあたる音、ほんの1コマ2コマだったかも知れないが、そのオーケストラに私の耳を預けた。
「どう?仕事は?なんか、プレゼンが当たったんだって?」
「うん、そうなの!単にウォーターサーバーをリースするだけじゃなくて、利用者さんに何かプラスできないかなって考えてね。健康をプラスできたら最高じゃんって。」
「水、、、この水がねぇ。」
梨花はコップについた水滴を三日月を描くようになぞり取った。話題が私の、私たちの仕事の話になり途端に高揚している自分に気づいた。こんな時、恋をしているのかなとも思うし、単に仕事の成果に対して喜んでいるのか、自分でもわからないが吊橋効果って言葉があるくらいだから、私のこの現象に対してもなんらかの科学的根拠や謂れがあるのかもしれないな。ともあれ、私があなたを気にかけていることは明白だった。私はあれからずっと、臆病で不器用でと言い聞かせながら、自分の気持ちの種から逃げ隠れてばかりなことを自分らしさだと置換して生きている。
「で、その例の同僚くんから東雲はつみの名前が飛び出したわけだ。」
「え、あ、うん。小津圭介っていうんだけど。2人1組の仕事でね、私のお父さんが水素を吸ってみたいって話をしたのがきっかけで水+水素っていうコンセプトが生まれたんだけど、それでお疲れ様会しようよってことになってね〜。」
「・・・・・」
梨花はフォークを突っ立てたまま、覗き込むような目をして私をジーッと見つめていた。あらやだ、お行儀悪くない?梨花は昔から察するのが早く鋭い気がする。なんかちょっと変な汗が出てきた。こうやって私の本質は、蛇に睨まれたカエルになる。
「ちょ、、え? な、何よ。」
「別に。んで? その小津くんからどうしてまた東雲はつみさんの話が出てきたわけ?ちなこれ聞くの2回目ね。」
「え、あ、うん。打ち上げでさ、なんか唐突に初恋の話になってさ。小津くんの初恋の相手っぽい。」
「ぽい?」
「まぁ本人はこれを初恋と呼べるのだろうかみたいなことをブツブツ言ってたけど、まぁ恋にも色々あるじゃない?初ならなおさら。小学校に上がる前に東京へ引っ越すことになって、その通うはずだった小学校の門の前ではつみさんに声をかけられたんだって。」
「ななみ、じゃなくて?」
「うーん、どうかなぁ。聞き間違いっていうオチかなぁ。はつみは平仮名だよって教えてくれたって言ってたけどなぁ。」
「小津くんは、その、、、はつみさんと何かあったの?」
「いや、門の前でお話しただけっぽいよ。新入生?って声かけられたって。ほんの少しの時間だったけどなぜだか鮮明に覚えてるって。」
そのはつみさんとのことを語る圭介くんの表情がとても好きだった。あぁこんな柔らかい顔するんだ、よく見ると綺麗な瞳をしているな。今思えばひょっとしたらこの時だったのかも知れない、私の恋の申請書が作成されたのは。だけど、圭介くんの初恋の相手である彼女の名前を聞いた時、薄くて綺麗なまん丸なガラス鉢に小さな小さなヒビが入って、あって思ったけど見ないようにしているような、ひとりぼっちな不安を手にしたままだった。
「んで、東雲さんのことを調べて欲しいって頼まれたの?」
「うううん。言われてないよ。ただ、彼が最近、はつみさんに再会したって言うから気になってね。」
「え?」
梨花はパスタをくるくるしている途中だったのだが、その動きを停めた。きっと、梨花は何か知っている、いやなんとなく。私は梨花のように勘も鋭くないしカエルを睨みつける蛇にもなれない。だけど、私にだって女の勘ってやつがある。梨花は相手の何かを察することが上手だが、自分が何かを察しているときは空気が変わる。目つきが変わる。その先に何があるのかまでは、さっぱりわからないけれど。
「ハンカチを拾ってくれたんだって。」
「それで?」
「うううん、それだけ。」
「なんだ、そういうことか。それって再会と言える?笑 それ他人の空似か、ななみだったんでしょ。」
「うーん、まぁそういうことだろうね。」
彼女の中ではそれは再会とは言えないようで、スッキリしたのかフォークはくるくるとリズミカルに回り出した。続けて、オマール海老をスプーンに載せたら、クルクルしたパスタと一緒に大きな口の中へと運ばれた。ぷすーっと鼻息交じりに美味しそうな表情をしている。彼女だからこそ際立つ可愛げのある一面があって好きだ。人はそれぞれにひとつの芸術作品だ。
「美沙はさ、夢を見る?」
「え?夢? 夢って、、寝ている時に見る、夢?」
「うん。そう。」
「んー、まぁ見たり見なかったりだけど、見るよ。」
「どんな夢が多い?」
「うーーーん、仕事の夢が多いかなぁ。でも時々、時代が飛んじゃってたり、なんでこの人がって人が出てきたりする笑。え、なに出てきちゃってんの笑?みたいな。」
「見た夢は覚えてるタイプ?」
「いやー、忘れるね。歯磨きしたら忘れるシステム?笑」
違う。忘れてなんかいない。半ズボンのあなたが出てきた夢は、今でも不思議と覚えている。また嘘ついちゃった。どうしようもなくてしょうもない、誰にも迷惑かけない嘘。だから別にいいじゃん。
「夢が、どしたの、、、?」
「ん、、ぁあ、、ちょっと、、ちょうど記事の特集でね、、」
梨花がもぐもぐしながら喋る。こうやって誰かと食事を取るって素敵なことだな。動物学的にも食事中はとても油断している状況で、リラックスしている証拠である、と本で読んだことがあったな。だからなのかな、もぐもぐしている相手を目の当たりにすると、時折、両手放しに愛おしくなる。目の前の生き物が、一生懸命に生きようとしているわけですし。
「夢を見ている時、これは夢だなって自覚ある?」
「あー、それはね、、、ほぼないね。ありえない夢見ても、目覚めたら (は、夢か…)ってなる笑」
「うふふ。うん、美沙はそんな感じするね。」
「そんな記事書いてるの?夢占いとか?」
「ん、いや、、ななみが言ってたんだ。(時々、夢を見る。長い夢。心地よい夢。でも夢だったのか、現実だったのか、わからないの。まるでぽっかり穴が空いたみたいな。でも心地よい穴。心地よい風が吹き抜ける、そんな穴。)」
「さすが、大手出版社で働ける人は感性や表現力が違うね。そういうのって備わっているものなのかなぁ。あーあー、私には何が備わっているのかなぁ。そろそろ出てこーい。」
「笑。何言い出したの笑。」
「きっと見てる夢も、草原で芝生に寝っ転がってそよ風が吹いているような、映画のワンシーンのような夢なんじゃない?」
「どうだろうね。てかやっすい映画やな。」
その時、少し乱暴な風が吹いて、私の紙エプロンが飛んでいった。程なくして心地よいヒールの音が近づいてくる。私は拾ってもらえることを待つことにした。圭介くんは初恋の人を勘違いしている。私は人知れず彼の秘密を知ったような気でいた。彼には言わないでおこう。その方が彼を思いやれているし、多くのいいねをいただけそうだ。そんな自分を客観的に気色悪いと思った。
行こっか、と梨花が立ち上がったとき、その椅子が擦れる音や振動が私の記憶を揺り起こしたようで、梨花とのLINEの文字文字が私の脳裏に浮かんだ。「彼が子供の頃に会ったのは、はつみさんかもしれないね。」あれはどういう意味だったの?そしてどうして削除したの?梨花ははつみさんが3歳の頃に亡くなっていることを知っていた。
「どしたの?」
私はずるくて臆病だ。私の無駄に敏感な第六感が働き、傷つく恐れがあるものを避けてだいぶ手前で線を引いて、そんな風に生きてしまっている気がする。私は変わりたい。変わりたいと思っているのに、変わらなきゃいけないとは思えていない。馬鹿でどうしようもない自分を認めている自分も居る。
「うううん、なんでもない。美味しかったね。」
それから数日後、圭介くんからはつみさんと偶然再会した話を聞かされた。やっぱり彼女の話をする彼は良い顔してる。照れ臭そうに嬉しそうに顔は平然を装っていても尻尾はぶんぶん振っていて、瞳がキラキラしている。そんな彼をどんどん好きになっている自分がいる。彼の顔を見つめる私の心模様は、焼き鳥屋あんパイの時のそれとは随分と変わってきていた。しかしどうして圭介くんは「はつみさん」に会っていると思っているのだろう。名前を間違っていることをなぜななみさんは圭介くんに言わないのだろうか。そもそも名前を聞き間違えているのかな?本人ははつみさんだと思っているだけでななみさんのことなのかな?もどかしい気持ちで聞いていた。私から言うべきことではないと思ったし、何よりキラキラしている彼にこんな脇役の私が水を差すわけにはいかなかった。
どうして私、ここにいるんだろう。この街で過ごす私はときどきそうやって空を見上げる。
どうして私ここにいるんだっけ。そうだ、気になったからだ。圭介くんがどんな顔してどんな声のトーンで彼女と会ってるのか。梨花から強引に誘われて来てしまったけど、今思えば梨花はどんな気持ちで私を誘ったんだろう。ただとにかく私は、彼のことが気になっただけ。だからここへ来てしまった。馬鹿で臆病でずるくて中途半端で何がしたいかわからない自分に果てしなく嫌気がさしていた。
当然と言えば当然だが、あんなに怒った彼を初めて見た。怒った顔も可愛いな、なんて言える場合のそれではなかった。ここに来たことを私は深く後悔した。梨花から「小津くんって人がななみをはつみと思って会ってるみたい。あなたがはつみだと思っている女性は、ななみであることを打ち明けるから、美沙も立ち会ってくれない?」そう誘われた時は、はてさてなんで?と思った。そして、実際には立ち合いというより、ほぼほぼ盗み聞きだったわけだけど。
遠ざかる圭介くんの背中は、もう追いつけないほど小さくなって人混みに重なって見えなくなった。
「大丈夫?」
「え?」
梨花にそう声をかけられて、ようやくギギギっと動き出す私。東雲ななみさんが続けて私に頭を下げる。
「ごめんなさい。迷惑かけて、巻き込んじゃって、すいません。」
私は梨花の手前、さっきから喉に突っかかっている言葉をどうしたものかとマゴマゴしていた。「どうして、圭介くんを騙したの?」感情のままに吐き出したところで、部外者の私が何言ってんの?て感じだし…。だけど、私の心は確かに怒りを感じている。
「どうして、私を呼んだの?どうして、圭介くんを騙すようなことをしたの?面白がってしてたの?」
疑問を抱いたままに言葉は怒りを交えて走り出す。梨花は、そんなくだらないことをするような子じゃない。そして、今日初めて会った東雲ななみさんも見ず知らずの人を騙して楽しむような、決してそのような人には見えなかった。いささかの疑問があるものの、私の言葉と感情とは不釣り合いなことが多い。
「こうでもしないと、あんた、気づかないじゃない。気づかないというか、認めない、というか、動き出さない、というか、、その先は賭けだな。何にしたってあんたには無理矢理にでもなんかこうガツンとしたきっかけがあった方がいいんだよ。」
「はぁ??」
「騙しているわけではないのよ、ごめんね、美沙。でもこうするしかないってとこかな。」
「ちょ、、梨花、わかるように話してよ。」
「私から、話すよ。」
東雲さんが一歩前に出て、肌触りの良さそうな白シャツから伸びた手先で私の問いかけに応えようとする梨花を制止する。黒髪と白シャツがとてもよく似合っている。一輪の花のような綺麗な人。でもどこかあどけない無邪気さも感じる。もっと違った形で出会いたかった。ではどのように?知らんけど。
「私は病気なんです。でもここ数年は症状は出ませんでした。」
「びょ、病気?」
キョトンとした声がでて、私は思わず上から下また下から上へと彼女を見てしまう。彼女のキリッとした表情は覚悟を覗かせた。今後は梨花が彼女を制止する。
「ななみ、、いいの?」
「いいよ。それに巻き込んじゃって、ちゃんと説明しないと彼女も納得しないし、彼とのこともあるし、、それに、私のことだから。」
2人のやり取りのなんとも言えない間に、親密さと重ねてきたであろう日々を感じ取ることができた。それにしても、病気とは、、それと圭介くんとはつみさんと、何か関係があるのだろうか。
「はつみは確かに3歳の頃に亡くなりました。私とはつみ、2人一緒に階段から転げ落ちて、はつみは頭を強く打ちつけて亡くなりました。私の方は、はつみの頭と私の頭をぶつけたくらいでちょっとコブができたくらいで済んだようです。母はひどく落ち込み自分を責め続けました。自分が目を離したからだ、と。私たちは双子なので、当然誕生日は同じです。それからも誕生日には私とはつみ、一緒に祝ってくれました。それでも時々、母は私とはつみを重ねて見ているように思いました。当時私は、子供ながらに自分だけが生きていることに負い目を感じていたのでしょう。そんな母に何も言い返せなかった。母にとっては、私はななみであり、はつみでもある。それでいいと思って過ごしていました。」
ななみさんは時折辛そうな表情を見せるけど、まるで物語を詠んでいるように、淡々と話した。そこには経過した時間と自分自身と向き合ってきた彼女の成長が見て取れる。やっぱりはつみさんが亡くなっていることは嘘ではないようだ。
「当時の私には自覚症状はほとんどありませんでした。のちに感じ取り、記憶できるようになった夢を見ているような感覚、それすらも当時はよく覚えていません。ですが、幼稚園の卒園式の日に事件は起こりました。」
事件。言葉はそれぞれに熱をもち、空気を震わせる。私の背筋に一本の細い糸がピンと張り詰めた。
「園児が名前を呼ばれて、返事をして立ち上がり登壇する。私は自分が呼ばれても立ち上がらなかったそうです。何度か名前を呼び直しても、私はもぞもぞしていました。そして、先生や保護者がざわつき始めた時、
『私の名前は、東雲はつみです‼︎』
立ち上がってそう叫んだそうです。そして先生に駆け寄り耳元で『先生、間違えてるよ』と言ったそうです。私は、全く覚えていません。いや、言われてみればそんな夢を見たような気がする。その頃から、夢のような感覚で記憶している日が増えていきました。母は泣いていました。でもその涙が嬉しい涙ではないことは、夢の中の私はわからなかったようです。」
私は返す言葉を探していた。え、そんなことって、亡くなったのは、はつみさんじゃなくて、ななみさんの方だった?いや、そうであれば病気という表現はおかしくなる。やっぱり圭介くんが会っていたのは、はつみさんなの?考え込んでいるようで、私の頭は全く回転していなかった。耐えきれずに私は梨花の方を見る。察した梨花が私にひとつのシンプルな答えを示す。
「彼女は、東雲ななみよ。」
あ、やっぱりそうなんだ。の瞬間に私の中でひょっこり尻尾を覗かせた感情は(よかった)に似ていて自分に吐き気がした。
「それから小学校に入学してから、たびたび夢を見ました。川遊びする夢、学校に登校する夢、友達とブランコにのる夢、一輪車の練習をする夢、登り棒に登る夢。妹は登り棒の方が得意でした。一輪車が得意なのは私。あの子は一輪車には乗れない。夢の中で私ははつみになっていました。はつみになった私が私と過ごしているような、そんな夢です。ですが、それらが夢ではないことが、徐々にわかってきました。おそらく、小津さんと出会ったのはその頃です。夢の時間が多かった。私は不思議と全く怖くなかった。だって夢はどれも楽しくて心地よい夢だった。夢の中で生きられなかったはつみが嬉しそうに生きているのが伝わるから。私ははつみと一緒に生きているんだって思うと、嬉しかった。それにあの子が望むのなら、そうさせてあげたいとも思った。」
「私は小津くんとの夢を、残念ながらはっきりとは覚えてないんだけどね。」
そういうとななみさんはクシャッと笑った。人はやっぱり笑顔が良い。みんな違っててそれで良いとか言うけれど、みんなそれぞれ笑顔が1番良い。私の笑顔は彼にどう映るだろう、私は良い顔して笑えているかな。彼女の病気は二重人格だろうか。ただ、その表現ではいまいち合っていないように思える。そう表現してしまうとはつみさんの存在を否定しているように聞こえないか、彼女を傷つけてしまわないだろうかと心配だった。今も彼女はここに居るのだろうか。
「それから私は夢と現実、いや、私の現実とはつみの現実を過ごしていました。何度かはつみと喋ったこともありますが、それ自体は私が見ている夢でした。ただ、授業についていけなくなったり、友達との約束を破ったり、話について行けなくなったり、困ることも増えていきました。それでも私にははつみと一緒に生きていくって気持ちがありました。ただ、母が、「ねぇはつみは?はつみちゃんに会いたい」って私に言ってきたことがあって、私はちょっと待ってねって言ったんだけど、母が泣きながら「今、会いたいの!」って怒鳴られた時は辛かった。初めて、はつみが邪魔だって思えて苦しかった。私はその夜、はつみに出てきなさいよと初めて怒鳴った。でもはつみの夢は見なかった。私ははつみと喧嘩したんだって思った。初めて私が邪魔だって感情を抱いたのがバレたんだって思った。その次の日の体育の時間、マラソン大会の練習だった。走っていると妙な感覚を覚えたの。右足と左足がそれぞれ違うような、チグハグする感じ。右足は私で、左足は、私じゃない。それから、いや腕も。右腕は私だけど、左腕は私じゃない。じゃあ、、心臓は、、、?『怖い』そう思った瞬間には私は倒れていて、気づいた時には病院に運ばれていました。その時、夢を見ました。はつみがグラウンドに立っていて、寂しそうな顔をして何かを私に言っていました。その夢にはなぜか音声がなくて、何を喋っているのかはわかりませんでした。私は、はつみ!聞こえないよ!ごめんね!こないだは、ごめんね!!って叫んだんだけど、声が、、音が出なくて…。はつみは門の方へ歩き出し、土埃も舞って、見えにくくなっていって、、、消えていきました。」
涙が彼女の頬をつたう中、もういいよと梨花がそっと肩に手を添える。梨花の表情が柔らかく、優しく微笑む天使のように見えた。梨花はそこまで表情豊かな女性ではないように思う。クールでかっこいい女子だ。そんな彼女にあんな表情をされるとドキッとしてしまう。東雲さんの話を聞きながら私の目の裏に涙が溜まっていくのがわかる。私が泣いたってしょうがないし、簡単に涙を流す女だと思われたくなくて私は気を張っていた。彼女の話から子供の頃からの苦しみや葛藤が、そしてそれらと向き合ってきた彼女の今が伝わってくる。
「あの、一つ、良いですか?」
凛とした顔で流れていく涙をそのままに、彼女は頷いた。
「どうして、はつみちゃんって言うんですか?」
「え?」
2人がほぼ同時に、え?っていう表情で私を見る。2人してその顔がまた可愛い。
「ななみさんの方がお姉さんじゃないですか?どうして はつみ っていうのかなと思って。」
「ぁああ、なるほど。すいません、聞かれたことなかったから驚いちゃった。母さんのお腹の中にいた時は、私がはつみの下に居たんだって。でもどうしてか直前になって私たちは入れ替わった。わたし、こう見えてすっごい負けず嫌いだから見かねたはつみが譲ってくれたのかも笑。」
「はつみちゃん、、可愛いですね。それに、、」
(生きたかっただろうね。)そう言いそうになったが引っ込めた。
堰き止めた言葉が今にも溢れそうだった私の涙を一気に押し流した。漫画だったならそのまま大粒の真珠になりそうな涙がぼたぼたと垂れた。
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