<18・Shadow>

 部室の中を見学したり、覗いてみたことはなかった。彼方はテニス部でないのだから当然だ。

 中の様子は存外、令和の日本の“部室”としてありそうな形状をしていた。窓の向こうが丁度ロッカールームになっているのだろう。青い細長いベンチがあり、灰色でノッポのロッカーらしきものがずらずらと並んでいる。昼間はきっとテニス部員たちが、ベンチに座って休憩したり、着替えをしながら談笑する場所なのだろう。

 しかし、今はそのような明るい光景を想像することは叶わなくなっていた。

 青いベンチの影で、何かがもぞもぞと蠢いている。最初は月明かりの影が恐ろしく見えるだけかと思ったが違う。窓は開いていないし、ロッカールームの中で風が吹いているはずもない。当然、自分達も動いていない。それなのに、影は明らかになんらかの意志を持って動いているのだ。山のような盛り上がり、ばさりと長い髪の毛が跳ね、びくひくと全身を震わせながら膨れ上がる。

 否、そいつは。座り込んだ姿勢から立ち上がろうとしているのだとわかった。まるで病気にかかったように身体を痙攣させながら。


――な、な、なんだ、あれ。


 恐怖と驚きで声も出ない。そいつは何度も立ち上がろうとして、しかしうまくいかないのかガクン、ガクン、と繰り返し崩れ落ちるような仕草をした。顔は見えない。というか、わからない。人間の形をしているのことは辛うじてわかるのだが、いかんせん身体全体が塗り潰されたように真っ黒なのだ。まるで、闇からそのまま這い出してきたと言わんばかりに。


――やばい。嫌な予感しか、しねえ。


「……あれは……」


 リンジーが何かに気づいたように呟いた。もしや何か知ってるのか、と思った次の瞬間。


「わああああああっ!?」

「!!」


 すぐ側で、ルイスが悲鳴を上げた。何事かと思って見れば、彼は女子部の小屋の奥を指さしてがくがくと震えている。


「あ、あ、あれ、あれ」

「なっ」


 それを、みっともないなんて笑うことはできなかった。彼方も十分すぎるくらいビビっていたからだ。

 植え込みの向こうで、何かがニョロニョロと動いている。人の形をしてはいるが、その動きは極めて妙だった。まるで、身体に関節が何もないかのようき身体をくねらせているのである。まるで、その場で奇怪なダンスを披露しているかのよう。――思い出したのは、現代日本でもお馴染みの都市伝説、くねくねだった。畑や田んぼの真ん中に立っている謎の白い物体。その正体を理解するとSAN値が直葬するらしい、というアレである。色こそ黒いが、イメージとしてはだいぶ近いものがあると言って良かった。


――ぶ、部室の中だけじゃない……!?


 思わず後退り、周囲を見回したことで気がついた。黒い影は、そいつだけではない。部室の中にいるやつだけでもない。――いつの間にか、通路に、テニスコートにと無数に存在しているということに。


「な、なな、ななっ」


 引き攣った妙な音が喉から漏れる。

 通路の上で、両手両足を均等に上げながら行進している影があった。一、二、三、四、と掛け声でも聞こえてきそうなほどリズミカルである。そいつはどうやら、コートの周辺をぐるぐると回っているらしい。一人でひたすら、謎の行進を続けている。

 その行進している奴を無視して、全力失踪しているやつもいた。そいつは、さながら陸上選手のような華麗なフォームで、何度も更新するやつを追い越しながらコートの周辺を時計回りで走っているようだった。何がしたいのかさっぱりわからない。疲れないのだろうか、なんてどこか現実逃避気味に考えてしまった。

 そして、テニスコートの中もわけがわからないことになっている。両手を繋いで、さながら五人くらいの影が輪になってぐるぐると回っていた。まるで“かごめかごめ”でもするかのように、しゃがみ込んだ一人を取り囲んでいる。足下は妙に軽やかで、今にも歌声が聞こえてきそうなほどだ。

 踊っている奴はまだいい。それよりも意味不明なのは、さっきから校舎の上から落下し続けている奴等だろう。六人くらいの影が、屋上から連続して飛び降り続けているのだ。その落下速度は異様なほど遅く、さらに地面に落ちると溶けるように消えていく。そして、一体が消えるとまた屋上に一体が出現するといった具合。まるで無限ループである。


「な、何かパーティでもやってんのかよ、お化けの」


 ルイスが震えながらロザリオを前に突き出す。果たしてそれで効果があるのだろうか、と彼方は思った。いかんせん、想像していたよりも遥かに数が多い上、挙動がカオスすぎる。


「あ、危ないっ!」

「!?」


 突然、リンジーが声を上げた。はっとして見れば、こちらに全速力で走ってくる三つの影が。テニス部の部室に突っ込んでくるつもりなのだろうか。魔法で応戦を、と思うもいかんせん彼方の魔法は素人ゆえ“溜め”が必要である。――どうひっくり返っても、間に合わない。


「じゃ、ジャクリーン!」

「お、おいルイス!!」


 ルイスが、彼方を庇うようにぐいっと強く引き寄せた。明らかに震えている。滅茶苦茶怖がってるくせになんで、と思った次の瞬間。


「あっ」


 一歩前に進み出たリンジーが驚きの声を上げた。すううう、と黒い三つの影は、自分達にぶつかる直前に姿を消したのだ。あの、屋上から落ちてきている奴と同じように。


「き、消えた……?」


 どうやら、こちらにダメージはないらしい。照れ隠しをするように、ルイスが身体を離してくる。


「あ、ありがと……」

「……おう」


 お礼を言ったはいいが、状況は何も変わっていない。黒い影たちは思い思いに、まるでプログラムされたかのように同じ動きを繰り返している。暫くすると、またあの三つの影がこちらに思い切り突っ込んできたが、連中は脇芽も振らずに男子部の部室のドアに突撃すると、煙のように消えていった。どうやらこいつらも自分達を攻撃しようとしたわけではなく、あの部室にダッシュする、という動きを繰り返していただけだったらしい。


「……今日は帰りましょう」


 リンジーが、険しい顔で言った。


「除霊してほしいと頼まれましたけど、僕達は専門家ではないですし……これ、幽霊じゃないですよ、多分」

「え、そう、なのか?」

「はい。明日、もう少し調べてからお話します。何にせよ、今彼らが無害なのは、こちらが攻撃していないからである可能性があります。こちらから攻撃を仕掛けた場合、どうなるかわかりません。この数ですから、無闇矢鱈と手を出すのは危険です」

「た、確かに」


 幽霊じゃないと聞いて、少しだけ安心した。しかしそうなるとやはり、こいつらはなんらかの魔法生物ということになるのではないか?


――カレンは、明らかにそれがわかってたみたいだった。あいつは、何か知ってるのか……?




 ***




 翌日。

 今日は魔法の特訓は中止して、作戦会議をすることになった。ルイスは分厚い辞典のようなものを持ってきて、これ、と彼方にあるページを開いて見せる。


「“シャドウステップ”。下級精霊の一種です。闇の世界からやってくる、影を具現化したモンスター。属性は闇」

「闇……」


 古ぼけたページには、身体をくねらせる真っ黒な人型の影があった。その髪は長いが、胸元に女性的な膨らみはない。どちらかというと、細身で長髪の男性のような体型をしたモンスターらしい――さながら、あのカレンのような。

 カレンが測っていた道具によれば、あの場所で検知された魔力は闇属性と氷属性だったはず。その闇属性というのは、このシャドウステップというモンスターのものだったのだろう。


「幽霊とは違うだろうなと思った理由は、このモンスターに心当たりがあったことと……怪談の幽霊とは明らかに様子が違っていたからですね。女生徒の幽霊のはずなのに、あの黒い影の身体は女性的ではなかったですから」

「よく、あの状況で冷静に観察できるなお前……」

「それくらいしか取り柄ないですからね、僕は」


 いやいや、本当にリンジーがいてよかったよ、と心の底から思う彼方である。自分とルイスだけだったら、あそこから逃げてくることもできずに気絶していたかもしれない。冗談抜きで、マジで。


「シャドウステップを、誰かが学校に呼び出したってのか?」


 辞典を覗き込みながら、ルイスが言う。


「でも、魔方陣みたいなのあったか?シャドウステップだって召喚魔法だろ、魔方陣がなくちゃ召喚できねえよ。まあ、シャドウステップくらいなら、小さな魔方陣からたくさん召喚するのも不可能じゃないだろうが」

「このモンスターって弱いのか?」

「多分、次の次の魔法学の授業でやりそうだなってレベル。ハイイロネズミよりある意味安全かもな。一応は精霊だけど、ただの影だから人に害をなすとかは全然ない。ただ、指示された通りの動きをして囮になるくらいが精々だな」

「ふーん」


 それを知ってるのに、昨夜は気付かずにビビっていたのかこいつ、と彼方は思う。まあ、庇ってもらった手前、それを口に出したりはしないが。


「学校で召喚されてないかもしれませんね。別のところで召喚して、学校に放ったのかもしれません。ただ、気になるのはあの大量の“数”です。たかがシャドウステップといえど、あの数を召喚するのはなかなかのスキルが必要だと思うのですよね」


 それに、とリンジーは苦い顔になって言う。


「あのテニスコート周辺に満ちていた、強い魔力の気配。あれは、シャドウステップレベルの精霊じゃなかった気がするんです」

「ああ、それは俺も感じていた」

「ええ?」


 彼方は困惑するしかない。謎の影モンスターが溢れてたというだけでも意味不明だというのに。


――まさか、まだ他になにかあるってのか?


 思わず、視線はある場所に向いていた。

 まだ登校してきていない、カレン・フレイヤの席に。

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