ひとりでできるもん

川谷パルテノン

敗者たち

 歯医者の待合室。壁にかかったテレビ。教育番組が流れている。ひとりでできるもん。他に親子が一組、母親とまだ小さい女の子がそれを視聴していた。「まあちゃんもひとりでできるかな?」母親は優しく語りかけた。まあちゃん、俺も幼少期にそう呼ばれていた。四十二になったまあちゃんはひとりで出来なかった。歯科助手の綺麗なお姉さんは優しく言った。歯の磨き方教えますね。手渡された歯ブラシ。あとで購入する手筈になっているそれと小さな手鏡を手渡された俺。鏡に映った剃り残し。無様だと思った。冷静を欠いた。前後不覚に陥り、奥歯の方へ伸ばしたつもりの手先は鏡の中の口内を小突いた。コツッ。逆です、手前ですとお姉さん。恥辱の沼が海へと変わる。ちょっと貸してもらえますか、見かねたお姉さんが俺の歯をブラッシングする。これだけ磨き残しがあるんですよ、見せつけられる我が歯垢。始皇帝、暗殺完了。続いて治療が始まる。本日は被せ物の型取りだった。下の歯。ぬるーいガムみたいなのを取り付けた金属の器具を口の中に入れられる。それは口いっぱいに収まり少しはみ出ている。そのまましばらくお待ちください。閉じきらない口から唾液が溢れ出た。もはや官能の世界である。ボールギャグ。流れ出たヨダレはガンジスが如く流域を為し恥辱の海へと繋がる。世は大後悔時代。俺に歯磨きが出来てたならと四二歳は泣いた。

 固まってるか確認しますねとボールギャグを弄ばれる俺。外しますねとその刹那、蜘蛛の糸がいくつか引いた。それをかけ登れば極楽浄土、ところが下は亡者の群れだった。この世にはこんな辱めがあるのか。そんな赤面も束の間、代わりの蓋をしますねとお姉さん。あったかいの入りますねとお姉さん。はーい噛んでくださいとお姉さん。カチカチカチとお姉さん。ギシギシギシとお姉さん。俺は……俺はッ!


 待合室で流れるテレビを見ていた。女の子のまあちゃんは「やりぇりゅよ」と微笑んだ。えらいねーとお母さん。俺にもそんな頃があった。でもそうはならなかったんだ、やれなかったんだよ四二歳、だからこの話はここでおしまいなんだ。


「ではブラシのご購入も含めまして本日は二,〇〇〇円になります。次回も歯磨きチェックしますのでこちらもお持ちくださいね」

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ひとりでできるもん 川谷パルテノン @pefnk

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