第10話 本職
逃げ込むように、追われるように辿り着いたアトリエ。
僕は……何から逃げて、何を焦っているんだろ。
焦り、というか……恐怖? それとも不安?
とにかく心がザワついて、モヤモヤする。
まぁ、とりあえず今はお菓子でも作って気を紛らわせよう。
思考を菓子で埋め尽くせばいいさ。
それに、人が訪ねて来たのに何も用意出来なかった。
それが凄く悔しくて……だからインベントリにお菓子作り置きしておきたい。
作りたいお菓子は色々あるけど……取り急ぎこの間仕込んだパイの成形……かな。
早速、この間仕込んだデトランプ(パイ生地)を取り出して……と行きたいけど、その前の準備が必要なんだよね。
よし、やるか。
創造魔法で材料の準備。創り出すは……某有名ブランドの食塩不使用バター。
ご家庭用よりちょっと大きめの、一つ一ポンドのやつ。
因みに一ポンドは四百五十グラム。
パウンドケーキのパウンドは、ポンドの英語読みで……薄力粉、卵、砂糖、バターを一ポンドずつ使って作るからパウンドケーキ。
魔法で創り出したバターを計量して、手で綺麗に纏めて、めん棒を使って薄い正方形に成形。
成形したら、冷蔵庫で冷やし固める。固めておかないと、デトランプと一体化しちゃうからね。
この成形したバターを魔法で出せるけど……やっぱり手で作るのが楽しい。
この、僕の製菓技術だけは……これだけは守らなきゃ……鍛えていかなくちゃだめなんだ。
これが僕のアイデンティティなんだ。
「あぁ……そっか」
――――だから僕は焦ったんだ。
稀有な魔法と言われて、自分が掻き消されそうで。
何も持っていないと思っていた、日本に居た頃は……特別な他の何かが欲しくて。
でも……魔法を手に入れた異世界じゃ……唯一自分にある、製菓にしがみついて。
大した技術も無いのに、製菓技術があると言い聞かせて……思い上がって。
言い訳ばかりして……逃げて。
ワガママで……子供で。
「良し……良し!!」
情けない……気を引き締めなければ。
こんな姿、僕に根性論を植え付けてくれた諸先輩方に申し訳が立たない。
だから……何の言い訳も、何の理由も要らない。
僕はお菓子が好きで……今まで生きて、これからも生きる。
ただ……それだけ。
それを……何度も確認して、人生を……実感して。
「さて……作るか」
魔法でも……僕は、変えられない。
いや……変わらない。
冷蔵庫にしまったままのデトランプを取り出す。
本当は寝かせる時間、一時間とかで良いんだけど……ま、日が空いちゃったのは仕方ない。一日、二日なら許容範囲かなぁ。
そして、デトランプに十字に切れ込みを入れ、広げるようにして菱形にめん棒で薄く伸ばす。
手裏剣みたいな形になるのが理想。
人間には利き手があるし、体の構造はシンメトリーじゃない。
だから、めん棒で伸ばす、ただそれだけの工程なのに、繊細な技量が必要になる。
利き手の左手側に力が多く乗りやすい僕。
右手を意識しつつ、慎重に……均等に。
こうやって、心も体もお菓子に染められ、没頭する時間。
これが……何よりも、一番好き。
この世界には、僕とお菓子しか無いみたいで……凄く、何よりもファンタジーで。
そしてさっき冷やしたバターを中心に乗せる。
中心に、っていうのが肝。後述するけど、ちょっとでもズレれば、それだけで食感が悪くなる。
真ん中に置いたバターを四方から包むように、手裏剣の刃の部分を持ち上げて折り畳んで、正方形に。
生地の折り目とバターの間に隙間が出来るとダメなので、空気が入らないように押し付けながら、慎重に折り畳む。
四方からバターを包むように折り畳んだ生地。勿論、繋がっていないので隙間だらけ。
なので指で生地同士を摘んで、繋げていく。
結果的にバターをデトランプで包み込む形になれば大丈夫。
ただ、生地の厚みにバラツキがあると……焼いた後、食感の悪いパイになるから、可能な限り均等に。
バターを包んだデトランプの真ん中に、めん棒でグッと軽く押し込み一本の筋を。
その筋を目安に手前と奥に考えて、それぞれの方向に一定の力で伸ばしていく。
優しく、均一に……バターが飛び出さないように。
生地の繋ぎが緩かったり、隙間があったりするとバターがニュルっと漏れてくる事がある。
中に空気があると、爆発して穴が空く。
バターが温かいと、生地と混ざっちゃう。
何度も……何度も失敗して覚えた事。
大体腕二本分くらい伸ばしたら、真ん中に向けて、奥から手前からパタパタと三つに畳んで整えて、折り込み完了。
都度、空気の入らないように気を付けながら。
これが、折り込みパイの基本技術……三つ折り。
パイを伸ばす時、くっつかないように打ち粉を打つんだけど、打ちすぎて生地に粉が残ってたら手とか刷毛で払った方が良い。生地同士が綺麗にくっつかなくて、ボロボロになるからね。
そしてこの状態からデトランプじゃなくて、フィユタージュ。
一々面倒だよねぇ、お菓子って。今の僕には当たり前の事だけど。
フィユタージュに一本の指で軽くズブッと跡を付ける。このフィユタージュは一回織り込んだよっていう目印。
二回目なら二本付ける。この工程三回やるから、忘れないように目印。
このパイ何回折ったっけ!? なんてなったら大惨事。見た目じゃわからないからねぇパイ生地って。
フィユタージュを冷凍庫にしまって休ませる。
直ぐ二回目織り込もうとすれば、バターが溶け始めるし……たぶん、生地も捏ねくり回してるから宜しくない。
冷やしている間に、一旦お片付け。
仕事でやるんだったら、効率を考えて連続でパイを弄る場合は軽く掃除するだけだけど……時間もあるし、一度スッキリ整理しとこう。
しっかり冷やし固めるなら……大体三十分。
伸ばす時間が無ければ明日でも良いくらい。
ま……商品に欠品が出ないように考えながら、逆算して折り込めば良いんだよね、結局。
頭使って手間かけて……やっと出来上がるお菓子達が愛おしい。
空いた時間、他のお菓子を仕込めば良いんだけど……なんだかパイに集中したい気分なので、設備点検に回ることに。
温度と湿度の管理に、機械の点検。
計量器の正確性や、備品の補充。
や、やろうと思えば、やる事いっぱいあるなぁ……。
そんなこんなでアトリエを駆け巡れば、気付けば一時間経ってた。
点検の途中だけど、後でまた生地を寝かせるし、続きはその時でいっか。
あちこち触ったので、手を洗って……再びパイ成形開始。
冷凍庫で固めたフィユタージュを綿棒で軽く叩いて柔らかくして、先程伸ばした方向とは別の方向から伸す。
つまり九十度回転させるというか、先程を縦方向だとすると横方向から伸ばすって感じ。
ずっと同じ方向で伸ばし続けると、焼いた時にビョーンと縦長に伸びちゃうんだよね。ラグビーボールみたいに。
パイ生地を簡単に説明すると……。
デトランプとバターで、交互になるように、そして合わさらないように生地の層を作る。
何層出来るかは……正直、覚えてない。だって数えないし。
オーブンで焼くとバターが溶けて、バターの水分が爆発して……それで、生地が持ち上がってサクサクとした層が生まれる。
もっと砕けて言えば、加熱すればバターは溶けて消えるけど、デトランプは溶けないから消えない。
だからこそ、焼く前にバターが溶けないように、均一に綺麗に伸ばして、綺麗な層を作る事が重要なんだよね。
そしてこれの繰り返しで、あんな薄いパリパリでサクサクなパイが出来る、そんな大雑把な認識で良い。
配合的にはデトランプを十として、だいたいバターが七割くらいの配合が良いかな?
多ければ油臭くなるし、少なければ固い生地になってしまう。
溶けるだけがバターの役割じゃなくて、油分によって風味や生地の食感にも差が出てくる。
うーん……奥が深い。
この数%の配合の違いだったりで、お店の個性を出せるから……お菓子って面白い。
同じ物は、決して作れないから。
さてさて……この世界の僕のお菓子は、どんな味になるかなぁ。
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