第5話 邂逅
突然だけど、お菓子ってフランス語が多いんだよね。
パイ生地をデトランプ。
デトランプでバターを包んだ物をフィユタージュ。
バターでデトランプを包んだ物をフィユタージュ・アンヴェルセ。
ややこしいし鬱陶しい。
だが……それが良い。
さて、早速デトランプを仕込もうか。
同割の強力粉と薄力粉を混ぜ合わせ、少量の塩とグラニュー糖も粉の中に。
強力粉と薄力粉混ぜるなら中力粉でええやん、って思うかも知れないけど、パイの為だけに中力粉買 買ってたら、使い切れなくて虫が湧いちゃうから……ね。
じゃあ少ない量買えよってなるけど、高く付くんだよねぇ。勿体なくてそんなこと出来ない。
粉体が綺麗に混ざったら、角切りにしたバターを投入。後々温度があがっちゃうので、冷蔵庫から出したての冷たいバターで。
スケッパーっていう名前の、掌サイズの大きなカマボコみたいな道具で切るように混ぜていく。
練るように混ぜちゃうと、生地がモチモチになっちゃってパイらしい食感が生まれなくなっちゃうから注意が必要。
基本、どんなお菓子作りの時でも生地は練りすぎない事。練るのはパンだ。
バターの粒が残ってる状態で、水を加えて軽く練って一つに纏める。
バターの粒が残ってると気持ち悪いかも知れないけど、水を入れた後に少し練るからバターが残ってるくらいが丁度良い。
一纏まりになった生地を手で少し薄くした後、食品用ラップフィルムで包み冷蔵庫へ。
ラップも冷蔵庫も……魔法で出せる。本当に……最高な力だなぁ。
材料の発注の手間も無いし、近所のコンビニに急いでラップを買いに行かされることもないし、最高だねぇ。
さて、仕込んだデトランプは暫く寝かせないといけない。
生地が温かいと、バターを包んだ時に溶けてしまうし、混ぜ合わせたばかりの生地は中の成分が疲れてるので余り良くない。
お菓子だって人間と同じ生き物な訳で、充分なお休みが必要なんだよね。
なので――――ん……?
あ、あれ……? やれる事が無くなった。
「ふふっ……」
僕はバカだなぁ。
後先考えずに仕込むなんて、仕事中だったら先輩にぶん殴られる所だった。
冷静なつもりでも、やっぱり浮かれていたみたいで……何も考えずにデトランプを仕込んでしまった。
「まぁ、しょうがないかぁ」
ここには、僕しかいない。
誰も作業時間を咎めないし、人件費を抑える為に我武者羅に働く必要も無い。
お客様に少しでも安く提供出来るように焦る必要も無くて。
労働法が厳しくなってタイムカードを導入したのに、定時になったらタイムカードを切って、その後働く……そんな事もしなくて良い訳で。
「優雅だねぇ……」
フゥッ……と、自然に息が漏れる。
時間に縛られずに生きる。
それが……こんなに、素晴らしいものだったなんて……いつの間にか忘れてて。
日本という国で、体と心を痛め付けながら働いていた事に……やっと、気付けて。
給料なんて必要無い、魔法で全て補える……最高の生活。
お菓子にだけ……向き合っていても良いんだ。
「飯でも、食うかな」
誰が返事してくれる訳でも無くて。
だけど……僕の心は満たされていて。
冷蔵庫のモーターだけが響く部屋。
静かなこのアトリエから、静かに去っていく。
***************
「可笑しい……」
家に入る前は昼間だったのに、出てみたら夜だった。
冷たくなった優しい夜風が、火照った体を撫でて気持ちいい。
そんなにはしゃいでたのか僕。
煌々と光る月も、戯れるように乱反射する星も……地球と同じみたいに僕を照らしてくる。
こうやって、荒野でひっそりとのんびり暮らすのは……最高だね。
誰にも関与されず、褒められも貶されもせず……静かに生きるのも、幸せかも知れない。
けれど……僕は作り手。
何れ消費者が欲しくなる、絶対に。褒められなきゃ……人は寂しくなっちゃうから。
まぁ……今は良いか。それより飯食お。
日本では時間に追われた日々を送っていたもんで、月に照らされながら飯を食った事なんて無い。
なんなら、休憩もさせて貰えなくて一日一食なんて良くあったし。
せっかくだから……ちょっとお洒落に、優雅にしてみようかねぇ。
頭の中でイメージを膨らませ、魔法を使い、形にする。
木製の丸テーブルと、椅子を四つ。
……椅子は一つで良いんだけど、職業病なのかシンメトリーじゃないと気持ち悪くて、ついつい四つ創ってしまった。
今日の晩御飯は……サンドイッチと紅茶かな? お洒落お洒落。
気が昂っているのか、あまりお腹は空いていないし、これくらいで良いや。
お店で使っていた白亜のティーセット。勿論、カップは温めてある。
ポットの中の紅茶の温度も適温で、肌寒い夜空に一筋の湯気が立つ。
茶葉はダージリン。
果物みたいなフレッシュな香りが心地良い。
ゆっくりと流れる時間に、シャキッとした香りが……良いスパイスになる。
「ふぅ……」
思えば、僕は今まで何も飲んでいなかったなと、一口で飲み干したカップを見て思う。
流されるようにここまで来た。
操られるように……当たり前のように、来てしまった。
訳もわからぬまま、だけど……疑問に思わなくて。
まぁ……それでも良いか。生きてるし。魔法、便利だし。
目の前のハムサンドを齧れば食感も味もあるし、飲み込めば腹に溜まる。
食えりゃ良い。細かい事は……どうでもいいや。
地面があって空があって……太陽と月がある。それで、充分だ。
今は、月を見上げて優雅に飯を食うのも楽しいし。飽きたら……別の道を考えれば良い。
「――――本当に、それで良いのかしら」
誰もいない筈の僕の世界に――――一つ、色気のある声が響く。
「……はぇ?」
あまりにも唐突だった。
輝く様な金髪と、筋の通った作り物の様な美しい顔。
情欲をそそりそうな、艶めかしい四肢。
不安な程神秘的で……不思議な程、美しい。
何となく……脳が理解している。目の前の女性は人じゃない存在だと。
そして――――僕を、此処に呼んだ者だと。
「あら……ふふ、今回の子は理解が早くて助かるわね」
僕は……何も、声に出していない。
心を……全てを見透かされるような、嫌な感覚。
「えぇっと……とりあえず、何か飲みます?」
僕は……何を口走っているのだろうか。頭が……少し混乱してる、かも知れない。
「そうね……頂こうかしら。前の子は、食べ物に関してはダメダメだったから……ね」
え、前の子……?
ダメだ、疑問が渋滞して何も考えられない。
「では……こちらをどうぞ。大したものじゃなくて申し訳無いですが……」
慌てて席を立ち、彼女の横に付いて魔法で紅茶とお茶菓子を出す。
咄嗟の判断だったので、今回のお茶菓子はスコーンだ。紅茶に合うやつと言えばこれ。
本当は、魔法でお菓子を出したく無かった……屈辱。
でも、この方は……プライドを捨てて、もてなさないといけないのは、本能でわかる。
「構わないわ。気紛れに呼び出して、気紛れに現れる……それが、私達女神の特権よ」
そう言ってクスリと微笑む彼女は……酷く妖艶で、とても美しい。
けれど不思議な事に、男として……彼女に情欲は沸かないのは、本能で何かを理解しているからだろうか。
「女神……様、ですか」
僕の疑問には答えず、小さな口でスコーンを齧り、紅茶で口の中を流す女神様。
「あぁ……素晴らしいわ。これが……貴方達、稀人の……味」
稀人……?
全く、聞き慣れない言葉。
というか、女神様なら幾らでもお菓子食べれるんじゃないかな……?
「異界の民……稀人。貴方が作るから意味があるのよ。これで満足?」
目を三日月のように細めて笑う女神様。
また、僕の心を勝手に読んで……!
なんて自分勝手で、なんて奔放な方なんだろうか。
それに、僕が作る意味……?
「僕は……何故、ここに呼ばれたのですか。ここは……異世界、なんですか……?」
ずっと、気に掛かっていた事。
別に僕は器用じゃないし、世界に名を馳せるパティシエじゃない。
特別なお菓子を作れる訳でもない、平凡な……ただのお菓子が好きな、普通の人間。
「その認識で構わないわ。貴方が呼ばれた理由は――――そうね、私への供物を作る為……かしら」
……は?
「は、はぁ……」
やっぱり此処は異世界で――――僕は、女神様にお菓子を捧げる為に連れて来られたと……?
……いや、まぁ良いか。
良く考えれば、地球に未練なんて無いし、魔法で何でも出来るこの世界の方が……良いよね?
つまり僕は、生きてお菓子作れりゃ……それで良い。
そんな僕を見て、クスッと笑う女神様。
また僕の心を……!
「……なんでしょうか」
「いいえ、ただ……前の子は取り乱して暴れて……大変だったから。貴方みたいに物分りが良いと楽で助かるわ」
前の子、ってのも気になるけど……たぶん僕だけじゃないんだろうね、この世界に呼ばれたの。
「そうよ。貴方で二人目」
二人目、かぁ……。
前の人もパティシエだったのかな……?
「いいえ。前の子は……なんだったかしら。ただ、この世界に革新的な技術と……仕組を作り上げたわ」
そりゃあ……大層な事で。僕には真似出来ないだろうねぇ。
「そうね。だからこそ……一つの分野に特化した貴方を選んだ」
そりゃ……有難い事で。
どんな事でも、勉強は頑張るべきだね。後の人生に響くらしいや。
「感謝すると良いわ。更に……この女神様が直々に貴方を特訓してあげる。感謝を重ねなさい」
口元まで三日月形に歪める女神様は……どちらかと言えば邪し――――ダメだ、心読まれるんだった。
「うげぇ……光栄です女神様ぁ……」
「ふふっ。久しぶりに美味しい物も食べられたし……大目に見てあげる」
テーブルを見れば、スコーンも紅茶も空っぽ。
パチン、と指パッチンの音が鳴り……女神様の方を見れば、禍々しい笑顔で僕を見ていて、女神様の背後に禍々しい黒いモヤモヤした渦が一つ。
宙に浮いたそれは、見ていると吸い込まれそうで――――
「さ、移動するわよ……坊や」
「え? いや、もう坊やなんて歳じゃないで――――」
反論する暇もなく、襟を女神様に鷲掴みにされ……モヤモヤした渦の中に放り込まれた。
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