一日目

 今でも覚えている。

 スーツを着るとまだ汗ばむ初秋。出張一日目のことだ。

 あの日は支店担当エリアの中でもかなり西の取引先へ向かうことになっていた。

 この時の出張は二泊三日で予定が組まれており、他の部署も出張で社用車を使用することが多いため、通常は新幹線でそのエリアまで移動をし、レンタカーを借りることが多かった。

 二泊三日の中でもあちらこちらへ移動しないといけない予定であったこと。たまたま社用車が三日間連続で借りられるものがあったことと、いくつかの要素が関係して、会社から出張先までずっと社用車を使うこととなったのだ。

 この出張道中で最も遠い場所まで車だけで移動する場合は最低でも四時間以上を要する。いくら運転が苦手とはいえ、そんな長時間の移動となれば交代しないわけにもいかない。

 先輩と私。二人とも喫煙者のため、煙草と少しの休憩を兼ねたサービスエリアにて運転を代わることとなったのだ。

 吐き出した煙が消えていく空が薄曇りであったことも、まだ記憶に残っている。

 「じゃあここからよろしくね」

 「了解です」

 交代した先の道はそれまでにも数回ほど運転をしたことがあった油断か。それとも先述したような疲れが蓄積していたのか。

 いつもであればハンドルを握ること自体がペーパードライバーの私にはプレッシャーである。

 ましてや迫るような息苦しさを時々感じていたトンネルがいくつも続いているような場所での運転であったから、軽く冷房を入れていた車内にも関わらず、運転する手にじわりと汗が滲むくらいの道であったはずなのに。

 運転を交代してしばらくは眠気など全くなかったのだが、助手席に座っていた先輩が眠って訪れた静けさに釣られてしまったのだろう。

 意識がどのくらいの時間飛んでいたのかは分からない。おそらく長くて十秒もなかったはずだ。

 けれど明らかに一度、私の視界が暗くなったその瞬間であった。

 「危ない!!」

 私の右側。耳のすぐ近くで女性の大きな声が聞こえた。

 耳元で大きな声を出されて、さすがに落ちかけていた意識が戻った私が見たもの。

 走行帯から逸れて、助手席の窓のすぐ近くまで近寄っていた白いガードレール。危険を知らせる大きな声がしたはずなのに変わらず眠ったままの先輩がいた。

 左の視界に迫っていたガードレールを見て、一瞬にして目が覚めた。急に立ち上がった時のように頭から血液がさあっと下がりながら、心臓は激しく音を立てているのを感じながらハンドルを右に切った。

 運転に慣れている方たちであれば、きっとこのような事態でも落ち着いて対処ができたのかもしれない。

 本来ならば右側に車が来ていないかどうかを確認してから戻るべきなのだろうが、その時の私は激しい心臓の動きに駆り立てられていたのだ。

 「一刻も早く左から離れなければ」

 早く。早く離れないといけない。その気持ちで頭がいっぱいになっていた。

 幸いにもこの日は平日、そして時刻は午前中であったこと。

 高速道路とはいえ、利用する車の数はそんなに多くない道であったことから走行帯に車はなく、他の車に迷惑をかけることなく戻ることができたのであった。

 こうして今綴りながら振り返ってみると、いかに利用量が少ないとはいえ、あのタイミングで他の車に迷惑をかけずに済んだのも本当に偶然であったのか疑問に思えてくる。

 「どうしたの?」

 車が急に動いた揺れで目が覚めたらしい先輩が声をかけてきた。

 こちらはあの女性の大きな声で意識が戻ったというのに、今の今まで先輩は全く起きなかったようであった。

 「すみません…自分が一瞬眠くなってしまい…。“危ない”って声で気づいたら、ガードレールに寄っていたので慌てて戻りました」

 「声?俺、そんなの聞こえなかったよ。社用携帯が鳴ったんじゃなくて?」

 「声です。女性の声で私の」

 私の右耳の近くで声がしたと、言葉を続けようとした口を止めた。

 すでにこの当時の会社からは退職したため今はどうなっているか不明だが、在籍時に使用していた社用車は全て右ハンドルの車であった。当然、先輩と喋りながらこの時運転している車も右ハンドルのものになる。

 この車内にいるのは先程まで眠っていた男性の先輩と、たまに声の調整がうまくいかないときや寝起きの時は父親に間違われたことがあるとはいえ、女性である自分の二人きり。

 移動中でもどちらかの社用携帯が鳴ることがあるため、日中の社用車ではラジオなどをかけることは一切なかった。

 他に同乗者はいない。

 そんな中で右ハンドル車の運転席にいた私の右側から女性の声がした、というのは摩訶不思議なこととしかいえない。

 カーナビの声が機械の女性音声ではあったが、私の耳元で音が聞こえることはない。ましてや危険を知らせるような機能などついてはいない。

 きっと話しても信じてもらえないだろう。

 そう思い、女性の声で目が覚めて危険を回避したことは伏せ、気のせいとその場を誤魔化した。

 けれども。

 「あれは絶対に気のせいではない」

 自分の中では妙に確信を持ったまま、私は改めて運転に集中することとした。

 最初の目的地に到着し、何か所かの取引先を普段のように回って様子を伺って、一日目はそれ以上何も起こることなく終わっていったのであった。

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