第8話

それは一年ほど前の話だ。

 明人のクラスメイトであり、友人であった沼田哲也は、高校に入った当初から他校の生徒と、よくつるんで遊んでいるようだった。

 中でも、荒井浩太や龍浪宗一の名前は、よく彼の口から聞いたものだった。

 中学生の頃から彼らは交流があり、大抵が金持ちである荒井浩太の屋敷に行って、色々な遊びをするのだと話していた。

 彼らは、自分達をある種の特権階級のように区別し、屋敷や敷地内で行われる『遊び』をさも特別なことのように語るのが常だった。

 明人のクラスからも何人がそれに参加した人間がいて、詳細は決して口にはしないものの、皆決まって『一度は参加した方がいい』と言っていた。

 そんなある日、武宮(たけみや)春香(はるか)がその『遊び』に呼ばれたことを、明人は耳にした。

 明人と武宮春香は、同じ中学校の出身で、ずっと同じクラスだった。

 部活も同じ文芸部で、よく面白かった本を教えあったり、一緒に図書館や本屋を巡ったりすることも多かった。

 彼女はとても哲学書が好きで、なによりも恋や愛を非常にプラトニックに捉える女子だった。その清楚で気高い価値観に明人は心惹かれていた。

 実際に明人は彼女のことが好きだったし、春香もまた、明人を憎からず思っていたのは、間違いなかった。

 それでも、彼は自分から率先して告白をするような積極的な人間ではなかったし、そうすることで、今の関係性が壊れてしまうことを恐れていたのだ。

 そんな明人だったからこそ、彼女が荒井浩太の主催する『遊び』に参加すると聞いてしまっては、黙ってはいられなかった。

 『遊び』には、常に、悪い噂がついて回っていた。

 明人が友人づてに集めた情報から推測するに、その遊びは、金と時間と人を使って、誰にもばれないところで、好き勝手にやるというもので、主に飲酒や喫煙、暴力や性交などが行われている可能性が高かった。

 そんな下らない行為が、どうしてある種のステータスのようになったのかは分からない。

 多分、明人の学校と、荒井達の学校、それと、明人たちの年代の生活圏内でのスクールカーストのような物ができていて、その上位に位置するのが、荒井浩太のグループ、ということだったのだろう。

 彼の屋敷にゲストとして呼ばれるのは、上位に食い込んだ証。

 逆に『生贄』として呼ばれるのは、最底辺の証。

 荒井のグループは、虐められっ子や陰気な嫌われ者を『生贄』と称して、屋敷に呼び、酷い暴力や辱めを受けさせていたのだ。

 しかし、大抵のことを、金を掴ませることで解決し、それらは決して警察沙汰になることはなかった。

 もちろん、武宮春香が呼ばれたのは『ゲスト』としてだったが、その頃には彼らの『遊び』にもう一つ、嫌な噂が囁かれていた。

 ドラッグと性交。

 金に靡きそうな女子校生や大学生を集めて、薬をキメての乱交パーティをしているというのだ。

 そんな『遊び』に、彼女を一人、参加させるわけにはいかない。

 もちろん『遊び』への参加は断ることができるが、断ることでランクを落とされることもありうる。

 だからこそ、召集がかかれば、有無を言わさずに参加する、というのが、明人たちの暗黙のルールのようなものだった。

 春香を心配した明人は、沼田に頼み込んで、同じ日に『ゲスト』として参加させてもらえるように計らってもらった。

 沼田はグループの中でも、顔が利く立場にいたこともあったが、さすがに急であったこともあり、明人が参加できたのは、春香が二回目に召集されたときの『遊び』からだった。

参加した『遊び』の記憶は、正直にいうと、全てを鮮明に覚えている訳ではない。

 あまりに衝撃的なことが起きすぎて、混乱せざるをえなかったからだ。

 『遊び』は、酒の乾杯から始まって、料理が運ばれてきた。

 その時までは、明人も春香も、その他の者たちも、特に変わったところは無かった。

 しかし、酔いが回り、数十分ほど経ったあたりで、荒井と他の女子が、弄りあっているのが分かった。

 荒井は片腕で女子の胸を揉み、もう片方の手で、彼女の股間を弄っているようだった。

 明人が場の空気の異常さに気付いたのは、その時だった。妙な熱気と、お香のような匂いに頭がぼうっとする。そんな状態でも、明人は春香の姿を探した。

 部屋を半周ほど見回したところで、すぐに彼女の姿は捉えることができた。

 しかし――

 春香は、龍浪宗一の性器を美味しそうに咥えていた。

 明人の頭は、その光景を理解できなかった。いや、拒絶していたのかもしれない。

何の言葉も発せられずに見ていると、武宮春香がそれに気付いた。

「あ、明人君も、して欲しいの?ちょっと待ってね、順番だから……」

 彼女はそう言って、笑ったのだ。

 書店で面白い本を見つけた時と同じような穏やかな笑顔で。見たこともないような『女』の目をして。

 すでに春香は、上半身を脱いでいた。

 着やせするタイプなのか、服の上からでは分からなかった大きな胸が、汗ばんで揺れていた。

 そこから、何をどうしたのか、明人には分からない。

 ただ、次にある記憶の中では明人は春香を組み敷いて、狂ったように腰を打ち付けていた。明人はその場の異常な空気に呑まれて、彼女を犯したのだ。

 ただ、明人が奇妙だと感じたのは、犯されているはずの彼女は、嬉々として頬を赤らめ、淫らな表情で抱きつき、歓喜の声を上げていることだった。

 そこから、明人の記憶はまたしばらく、飛ぶことになる。

 そこかしこから聞こえる喘ぎ声と、充満する精液と愛液の匂い。

 明人の下でしがみつく春香と、知らない女子と、また別の知らない女子。

 他の男に後ろから犯され、嬉しそうに震える春香。

 誰と何を何回したのが、既に明人自身でも分からなくなっていた――。

「うあああああっ!」

 明人は自室で、思わず叫び声を上げる。

 その時の断片的な記憶は、思い出すたびに、強烈な眩暈と吐き気と後悔を巻き起こさせる。

 眠ってしまった刹那の夢か、無意識下でフラッシュバックした記憶にのめり込んでいたのかは不明だが、明人の意識は一時的にどこかに飛んでしまっていたようだった。

日に二匹の虫を殺したからか、それとも、キャミソールから主張したあの女性の胸部が、あの時の武宮春香を思い起こさせたのかは不明だが、どうやら彼は過去の記憶を反芻していたらしい。

あの日の忌まわしい記憶と、それからも続いた、汚物のような日々の思い出を。

 明人は自室から一階の洗面所に降りて、顔を洗った。

 時刻は深夜の二時半。

 両親は二人とも既に眠りに付いている。

 そういえば、あの日――明人が初めて荒井の屋敷に行った日も、自分には帰路の記憶も、帰宅した記憶なかったが、気がつくと自室のベッドで眠っていた。

 その時の様子を両親に確認もしたが、深夜十二時前には帰宅して、そのまま眠ってしまったのだと聞いた。

 酷いショックを受けていたから、そういう記憶の欠落も無いとは言えないが、その部分だけは、奇妙だった。

 明人は大きな溜め息をついた。

再び自室に戻ると、引き出しからスクラップブックを取り出す。

 それは『虫』に関する情報を纏めたものだ。明人は一ページ目から、丁寧に読み返していく。この記録は、途中までは『遊び』に参加してからの自身の記録でもある。

 明人はそれからも、数回ほど、荒井にゲストとして呼ばれた。なんでも、酒と薬が入ったあとの変貌ぶりが主要メンバーである荒井と龍浪の気に止まり、セックスの面では、四條由梨と非常に相性が良かったらしいのだ。とはいえ、一回目に四條由梨とした記憶は、明人にはまったくと言っていいほどなかったのだが。

 武宮春香と関係を持った後で、明人は一度だけ彼女と二人きりで、遊びに出かけた。

 春香の纏う雰囲気は、既に以前とは全く別のものなっていた。

 以前の少し控え目な印象は無くなり、明るく活発になった。だが、それと同時に、酷く、淫乱になっているように思えたのは、明人がその詳細を知っているからかもしれない。

 明人と二人で出かけたその時も、終わり際に彼女はホテルへと彼を誘ったものだ。

 あの清楚な文学少女が、どうしてそうなってしまったのか。人はそんなに短い間に、ここまで変貌してしまうものなのか。

 酒と薬で壊れたのか。それとも、元からあった素質が覚醒したのか。それは分からなかったが、それはすでに相良明人の知ってる彼女ではないことだけは確かだった。

 春香の変貌に絶望した明人は、ある種の自暴自棄になっていった。。

 だからこそ、彼はその後も荒井たち『遊び』の誘いには必ず乗ったし、そこでは誰彼構わずセックスをした。

 そうすることで、武宮春香への恋心を忘れたかったのだ。

 『遊び』場で、行為に勤しんでいる最中はそれなりに興奮して楽しかったのを、明人は辛うじて覚えている。しかし、一度自らを客観視してしまうと、何ともいえない虚しさと寂しさと、自分の行為の汚らわしさに嫌悪し、気分が悪くなった。

 そして、そんな憤怒と絶望と自己嫌悪を繰り返している内に、その日は訪れた。

 明人は、その時も荒井たちに呼ばれていたのだが、どうやら日時を間違えていたらしく、いつも通り、裏門から屋敷へは通されたものの、いつもの部屋では、すでに乱交は始まっているようだった。

 その時彼は『なんだ、もう既に始めているのか』などと思いながら、いつも通りに部屋の中を覗いた。

ほんの少しも待てないなんて心底節操のないやつらだ、と、自分ごと軽蔑するような気持ちでこっそりと盗み見たのだ。

 それ自体は概ね当然の行動であり、特になんの意味もなかった。

 だが、そこで明人は、世にも恐ろしい物を見た。

 いつものように、室内には喘ぎ声が鳴り響き、むせ返るような匂いが充満していた。

 だが、違っていたのは、見ず知らずの女子達の上に乗って、あるいは後ろから犯している、恐らくは『男性』にあたるものの姿が、人間ではなかったのだ。

 それは、言うなれば、虫。

 甲虫のような体に、長い節足。

 足の数こそ人間と同じで、同じような位置から生えているが、そのフォルムは明らかに巨大な虫であった。

 巨大な虫が、その股間から妙な生殖器を突き出して、それを女性の秘部に出し入れしているのだ。

明人は一度部屋から目を背け、呼吸を整えてからもう一度室内を見たが、そこにやはり、女性を犯している人間大の虫がいた。

 震えでガチガチと鳴りそうな歯を食いしばり、明人は静かに観察した。信じ難い現実。明人は自分が幻覚を見ているのではないかと、何度も疑った。荒井達とは違い、明人は薬には手を出していない。この日は酒も入っていなく、幻覚を見る可能性は低いと自負していた。だからこそ、余計に恐ろしかった。

虫に性器らしきものを突っ込まれている女子はいつも通り、歓喜の表情を浮かべていた。

 女子を犯している虫の数は三匹。

 逆に、虫を犯している男子が一人。

 その男子は知らない顔だ。ということは新しいゲストだろうか。

彼と彼女たちは、この異常な事態に気づいていないのだろうか。それとも薬のせいで分からなくなっているのか。

 恐怖と嫌悪と焦燥に耐えながら、明人はそのおぞましい光景の観察を続けた。

 虫と人の性交。その組み合わせと数を数えている内に、明人はこの『遊び』の主要メンバーと虫の数が合致しているということに気づいた。

 荒井と、龍浪と沼田と、四條。

 犯している方が三匹に犯されている方が一匹。

 そうだ。そうだったのだ。

 あの四人は、人間ではなかったのだ。虫が人間のふりをして、活動していたのだ。

 だから、そんなに薄汚い、人間を使ったような遊びを思いつき、何度も何度も実行でき……。それは閃きにも似た直観だったが、明人は確信していた。人ではない虫。それもあんなに巨大な化け物。あんなものが、人間に成り代わっていた。

(逃げなくちゃ……ボクがあいつらの正体を知ってるってバレたら、きっと殺される)

明人はその場から静かに逃げ出した。

 そしてそこから、彼と虫たちとの戦いは始まったのだ。

 明人が次に会った時には、当然のように荒井たちはきちんと人間の姿だった。周囲の人間にもそれとなくカマをかけてみたが、誰も彼らの正体に気付いているような反応を見せる者はおらず、どうやら気づいているのは、明人だけのようだった。

 あんな恐ろしい姿を見せられては、明人にはもう、あの『遊び』に潜入して調査する、などということは考えられなかった。

 彼らが、いつ本性を見せて襲ってくるかも分からない。そう思ったら、密閉された部屋で一緒になんていられる訳などなかった。

 明人は沼田の知りあいであったこともあり、元々は明人から頼み込んで参加させて貰った形であったことから、遊びに参加しなくても、何かを咎められるようなことはなかった。

 主犯の荒井と学校が違ったのは、そういう意味でも都合が良かった。そうして明人は彼らと絶妙な距離をとって接することにした。

 近づかず、かといって仲間ではないと思われるほど離れず。決して擬態に『気づいた』ことを悟られないように。

しかし、そんな絶妙な距離感で彼らをじっくりと観察しているうちに、その完璧とも言える擬態が、僅かに解ける瞬間がある事を見つけた。

 普段は隠している『触角』のようなものが、微かに動くのが分かった。

 精密には触角そのものではない。

 その付け根と思われる部分が、不自然にピクリと動くのだ。

 判別方法が分かってからは、更に明人は恐怖することになる。

 なぜなら、だんだんと擬態する虫は増えていったからだ。

 この前まで普通の人間だったクラスメイトが、知りあいが、ある日突然、擬態した虫になっていた。それも、誰にも気付かれることなく、巧妙に生活に溶け込んでいるのだから、戦慄する他ない。

 侵略されていく恐怖。

 自分だけが気付いている危機。

 それでも、まだこの時は、ただただ怯えて、焦っているだけだった。

 明人の恐怖が怒りに変わったのは、武宮春香がすでに擬態されていることに気付いたときだった。

 スクラップの記事と情報は、すぐに明人を回想へと誘う。その回想は、あの時の恐怖とその後の怒りと、今なお続く絶望を精密に再認識させてくれる。

 明人は、さらにスクラップブックのページをめくり、春香の写真を眺める。

 それは、二人で移っている文芸部時代のものだった。

 まだ彼女が、長い黒髪を野暮ったい三つ編みにしている頃の写真。

 明人と春香が一緒に写っている、唯一の写真だ。

 もう戻れない時代と、そしてもう二度と会うことが出来ない彼女。明人は眉を顰めた。目の奥からは熱い感情が込み上げてきて、それはすぐに涙に変わって頬を流れた。

 大好きだったのに。

 自分は彼女を守れなかった。

 擬態を見抜けるようになってから間もなく、明人は学校で武宮春香の頭に触角の付け根と、その動く様を見つけた。彼女は擬態されていたのだ。多分、明人が虫の存在に気づくずっとずっと前に。

 もしかすると、最初に『遊び』に呼ばれた時。明人が参加できなかった初回の時に、虫に襲われ、擬態されたのかもしれない。そう考えれば、明人が参加した時の彼女の豹変ぶりも説明がつく。

 春香は虫である荒井たちに犯された揚句、違う虫に食われて擬態され、そしてあの日、明人とも性交をしたのだ。

「うっ……」

 思い出して、明人は吐き気をもよおす。

 あの日、戸惑いながら、失望しながら、それでも大好きな武宮春香と性交をした。実は淫乱だったとしても、清楚で真面目ないつもの彼女が偽りだったとしても、目の前で魅力的な裸体をさらし、誘惑しているのは、明人が恋した人間の武宮春香(・・・・・・)だと、信じて疑わなかったから。

 どんな形でも、彼女に触れたくて。

 彼女を自分のものにしたくて。

 だから、自分は欲望に身を委ねた。

 それなのに。

「くっ!!!」

 明人は拳を握り、勉強机の天板を思い切り殴った。

 鈍い音がして、同じように鈍い痛みが、拳に走った。明人が体を重ね、愛し合ったのは、もう明人の知らないクソ虫だったのだ。

 だから――、これは復讐なのだ。

 武宮春香を奪ったあいつらを、虫たちを皆殺しにして、何を企んでいるかは分からないが、人間社会への侵入を防ぐ。

 それは、相良明人がやらなくてはいけないことだと、覚悟した。

正体不明ではあるが、協力者も現れた。

 こうやって、少しずつ、慎重に仲間を増やしていくのだ。そうすれば、もっと大々的に動くこともできるようになる。

 今はなるべく、やつらに勘付かれないように始末するしかない。

 我慢の時なのだ。

 明人は、あの黒尽くめの男から貰った木の刀を取り出す。

 この刀は、想像以上に頼もしい武器だ。説明が難しくて、一先ず『切る』だけしか実践していないが、慣れてくれば『別の使い方』も試せるに違いない。それはきっと、やつらとの戦闘をより有利にしてくれるはずだ。

「武宮……。君の敵は、必ずボクが取ってみせる」

 あの生殖行動にしか興味の無い、節操のないクソ虫共を、一匹残らず駆逐してやる。明人は、改めて心にそう誓った。


§

 本棚と資料に囲まれたその部屋の置くには、大きな窓があり、その手前にはアンティーク調の小洒落たデスクが置いてある。重厚な天板に、いかにも丈夫そうな足。装飾が施された引き出しには、繊細な模様のつまみがついている。

 この年代もののいかにもな雰囲気のデスクの上は、残念ながら、大量の書類と魔道書、ガラクタめいた物で埋め尽くされていた。

 丁度、本やノートを開いて書き物をする場所と、その横にマグカップを置く空間のみが開いているのは、この机の持ち主、柊千亮が意図的にそこだけを片付けているからに他ならない。

 柊千亮は、今日も気だるげに高級なチェアに座り、足を組んでは背もたれにのけ反っては、時折、子供が遊ぶように、チェアごとゆっくりとグルグル回りながら、芥と琴葉の報告を聞いていた。

因みに、芥は、机越しのローテーブルに資料を広げながらソファに座り、そして琴葉は彼の向いの壁に背を預け腕組みをしながら、足を交差させて立っている。

「……というのが、僕と、そして琴葉の立てた仮説です」

 芥は失踪事件と巨大な虫の死骸事件の関連性と、その後の調査で分かったこと、そしてつい先日の生きている……いや、生きていた巨大な虫について、詳細に報告をした。

「なるほど」

 と、椅子ごと回っていた柊が、ぴたりと止まり、一言そう言った。

「君たちの仮説を聞いて、肯定する部分と保留にする部分がそれぞれ存在する」

 それまで、ある種のマヌケな呆け面にも似た表情をしていたのに、突然視線を鋭くして、口元をニヒルに歪ませる。

 柊が真面目に思考をし始めた証拠だ。

「まず大前提だ。芥の調べていた『失踪事件』と琴葉ちゃんの……というか、こっちも実際には芥が調べてたんだっけ? 『巨大な虫に関する事件』には関連性がある。これは、間違いないだろう。そして、この二つは同一の欠落者による事件であるということも、ほぼ確定だ」

 彼は紫色の瞳は輝かせながら言う。

「ここまでは、俺も同意見だ。肯定するべき仮説だな。問題は、ここからだ。人が虫に変えられているのか、虫が人間に化けているのか、それは現時点で決め付けるのは良くない」

「どうして? ある程度の仮説を元に調査した方がいいのではなくて?」

 琴葉が言うが、

「琴葉ちゃん、返すようで悪いが、この事件において、きっとここが一番のネックだ。ここをどう読むか、どう予測するかで、展開が変わってくる。ターニングポイントってやつだね。だからこそ、慎重に判断するべきだし、ほんの少しでも『思い込む』べきではない」

 と、柊は言い放った。

 表情には出さずに、頷いただけの琴葉だが、芥には分かる。今の言葉で、琴葉は不機嫌になっている、と。

「どっちが元かが重要……ですか」

 人から虫か、虫から人か。

 そのプロセスが、今回の事件の根幹を担っているということか。

 柊千亮の勘は異常なほどよく当たる。彼がそう感じる以上、きっとそれはほぼ間違いがないのだろう。

「そういえば、先生、この前の虫の死骸は、調べたんですよね?」

「ああ、一応調べはしたものの、結局分かったことは、その虫が『人間として生活していた』ってことだけなんだよね。つまり、虫が人間になって人間として生活していたのか、普通に生活していた人間が虫になったのかまでは分からないんだ」

「魔術も役に立たないわね」

 痛烈な言葉を琴葉が言い放つ。

「返す言葉もないよ。魔術で調べられるのは、魔術や、魔法に関することだけ。現実に起こった事件を調査するなら、警察よろしく科学捜査に適うはずはないのさ。魔術が科学の分野を一部でも担えるなら、俺達は五百年前に淘汰されていない」

 琴葉の言葉に激するわけでも、反論するわけでもなく、さらりとかわすように彼は言う。

「だから君たちが必要なんだ。そうだろう?」

 柊の言葉に、琴葉が溜め息で答えた。

「二つの事件がつながったところで、結局八方塞なのね」

「いや、それがそうでもないんだよ、琴葉」

「え?」

「確かに八方塞だったから、もう少し範囲を広げて調べてみたんだ」

「範囲を広げる……この町以外、ということ?」

 琴葉に芥は、首を横に振った。

「時間の範囲さ。最初の失踪者が出たのは、今から三ヶ月前。だから僕はその更に二ヶ月前あたりを目安に調べていた。でも、何も出てこなかった。だから、いっそ一年前から全部洗いなおしてみたんだ」

 芥は鞄から、別のファイルを取り出しながら話しはじめる。

 ソファから立ち上がり、柊の机の前に移動しながら、続きを口にする。

 荒井浩太たちの『遊び』が始まった時期の詳細は不明だ。そもそも、どこから遊びのスタイルが『確立』したかも分からない。分かっているのは、当事者たちだけだが、主軸の四人は、もうすでに全員失踪済みだ。だが、ゲストとして参加した人間の証言から考えて、彼らが高校生になった頃が一つの節目と考えて良さそうだ。

 だからこそ、芥は一年前に範囲を広げて調査をしなおした。

 多少警察の協力などは得られると言っても、公開してもらえる情報には限界があること、また、芥もプロの探偵などではない為、そこまでのツテやコネクションもないことから、時間と手間を要することにはなってしまったが、なんとか辿りつくことができた。

「今から一年ほど前……正確には十ヶ月前に『遊び』のゲストとして呼ばれていた女子生徒が、失踪していたんです」

「……すでに『失踪事件』が始まっていた、ということ?」

 芥は琴葉に頷いて返した。

「名前を『武宮春香』と言って、四方院付属……僕たちの母校の一年生です。中学生の頃は、文芸部に所属する大人しい文学少女で、高校に入ってからも、そこまで派手な所謂『高校デビュー』のようなことはしてなく、極普通の女性生徒ですね。容姿はかなり良かったようですが」

「失踪届は出ていたのかい?」

「はい。でも、彼女の両親は二年前に事故で亡くなってまして、その後は祖母と暮していたんです。でも、高校に入ってから、帰りも遅くなることが多かったので必然的に顔を合わせる機会も減っていって……数日帰っておらす、連絡もとれないことに心配した祖母が警察に、という流れのようですね」

「それから、まだ見つかっていない、と、そういうことよね」

「ああ。そして、彼女に関して調べた所、ちょっとだけ気になることが分かったんだ」

 芥は続けながら、三枚の写真を取り出して先生の机の上に置いた。

 一枚は、武宮春香のもの。そしてもう一枚は、芥のかつての後輩である相良明人。三枚目はその二人が並んで学校の教室のような場所で写っている写真だった。今と制服が異なること、そして何処かあどけない感じがするのは、それが中学時代のものだからだろう。

「相良明人……彼も同じ四方院の生徒で、僕も少し知っている後輩なんですけど、彼と武宮は親しかったみたいなんです。ちょっと誤算というか、盲点でした。最初に失踪したのが荒井たちだったことから、主に東方院付属高校とその周囲をメインに調べてましたので」

 芥は少しだけ、言い訳のように説明した。

 というのも、先日、雪臣から詳細を聞くまでは、彼らに繫がりがあったこと、そしてそのメンバーの中に沼田哲也という四方院の生徒がいたこと知らなかったのだから、仕方ない。

 しかも、頼みの綱とも思われた沼田哲也も、雪臣の話を聞いた翌日から学校を休んでいた。そして、そのまま案の定行方知れずとなったのだった。

「実は、僕はこの前、明人にも遭遇していたんです。雪臣に話を聞きに行った帰り、琴葉が『狂気』を感じとって、僕がその現場に向かった時に。琴葉が指し示した場所からは少しだけ離れた公園で、彼に会ったんです」

「完全に怪しいわね……何か関わっていない、という方が、無理があるわ」

 琴葉が、写真を見るために近づいてきた。

 覗きこんで、ハッとしたように目を大きくする。

「どうした? 琴葉ちゃん?」

「この人、私、会った事があるわ」

「え? 琴葉が?どうして……」

「道端でよ。すれ違っただけだけど……」

「ただすれ違った人間をよく覚えていたね」

 柊が、やや茶化すように琴葉に言った。

「夜の人通りのない道だったことと、あとは妙に『血』の匂いがしたから覚えていたのよ。だから、実際に彼にも聞いたの。『何処か、怪我をしているのか』と。でも、彼は否定したわ。確かに、見た目には彼はどこも怪我をしていなかったし、返り血なども浴びてなかった。だから、私の気のせいか、もしくはうっかり血(・)なまぐさい場所(・・・・・・・)を通過してしまっただけだと思って、捨て置いたんだけど」

 琴葉は淡々とそう語った。

 彼女の言う『血なまぐさい場所』というのは、殺人事件のあった場所やかつて血が多く流された場所のことを指す。死刑場や、戦場などもそれに該当し、外科手術が多い病院などからも、その匂いを感じることがあるという。

それが、本当に『嗅覚』に訴えかける匂いなのかどうかは、当事者である琴葉以外には分からないが、欠落者の狂気を感じることができる彼女は、そういった思念やなどを『残り香』として感じてしまうのかもしれない。

「へェ……」

 琴葉の話を聞いて柊はにんまりと笑って見せた。

「その彼……明人君だっけ? 彼には何か、ありそうだねぇ」

 嬉しそうな顔で目を細める。

「僕も、何か関わりがあるとは思っているんですが……」

「芥? 知りあいだから庇いたい気持ちも分かるけど、それは不必要な感情よ。いざという時、判断に迷いが生まれる……」

「いや、そういうんじゃないけど……。彼は凄く、控え目というか、大人しい子なんだよ。中学の頃は文芸部で、高校に入ってからも、文芸部に入ろうとしたんだけど、生憎ちゃんとした文芸部はなくなっていたから、仕方なく帰宅部だったくらいでね。想像がつかないんだよ。いい意味でも悪い意味でも、狂気とは無縁のような、そんな人だから」

 そう、彼は高校でも文芸部に入ろうとしていた。しかし、すでに文芸部は潰れており、それを断念したという話は、明人からも雪臣からも聞いていた。

「ククッ……芥、君はまだ、そんなことを言うんだね? いや、悪いってわけじゃない。君のその普通の人間めいた価値観や良識が、琴葉ちゃんと、そして君自身を繋ぎとめているのは分かっているつもりだからね。でも……、君だって知っているはずだ」

 それまでの薄ら笑いが、段々と酷く凍りつくような表情に変わる。氷点下で冷やされた銀製品のような鈍く無機質な光を浮かべ、覗き込めば、魂を取られるような錯覚に陥る、独特の雰囲気。

 こういう表情を見たとき、芥がこの人物が、とっくに『人道』から外れて『魔道』を歩む者なのだと改めて思い知る。

 どんな人間であっても、例え連続殺人犯であっても、こんなに冷たい、闇の深淵のような表情と空気はかもし出せない。

「どんな人間でも、狂気に落ちる。善悪もそれまでのどんな運命も行いも関係ない。狂気に呼ばれ、または背中を押され、一瞬でもそこに身を委ねたら、誰しもが『ズレた』何かになる。それを俺達は、欠落者と呼ぶ。そうだろう?」

 芥は無言で頷いた。

 その通りだ。例外など、存在しない。人間である以上、誰でも狂気を内包している。

 それに気付かないだけ。あるいは、目覚めないだけ。

 両親が、保護者が、友人が、知人が、先駆者が、社会が、ルールが、モラルが、及びあるいはその辺の全てが、全力でその『狂気』から目を背けるように無意識下で働きかけているお陰で、大半の人間が『狂う』ことなく、生きていける。

 だが、それは決して安全な防衛策でも保険でもありはしない。

 全力で目を背けさせているだけの、あまりにお粗末な対処法でしかない。

「話を聞いてきます。彼が、欠落者でないことを祈って」

「私も行くわ。もしもの時、あなたでは彼を殺せないでしょう?」

「いや、僕一人で大丈夫だよ。それに、きっと殺せる。彼が欠落者で、何人もの命を奪っているのなら、特別扱いはしない」

 芥は琴葉の申し出を断った。

「……でも、もし危なくなったら、その時はすぐに君を呼ぶ。だから、それまでは待っていてくれ」

「……わかったわ」

 反論されること思っていた芥だったが、意外にも、琴葉はその美しい顔で澄ましたまま、素直に頷いた。

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