第7話
思い切り振り抜くと、それは想像よりも遥かに軽い手応えで対象を切り裂いた。
刃のすべり、反動、重さ。そのどれもが、今まで使ってきたナイフや包丁とは段違いだった。
明人はその腕を肘の辺りから切り落とすと、返す刃で首を狙う。
スッと、豆腐でも切るように吸い込まれ、木製であるはずの刀は見事に相手の頚動脈を切り裂いた。
噴出した返り血が(それを血と呼ぶのなら)顔と腕と胸あたりにかかる。明人はそれを気にも止めず、頭の天辺から真っ直ぐに振り下ろす。さっきより少しだけ、重い手応えと、グズッという鈍い音が鳴った。
相手の頭部は、頂点から鼻の辺りまで真っ二つに切り裂かれ、血液のような体液のような気味の悪い液体が漏れ出ていた。
明人は刃を、そこから強引に引きに抜き、膝立ち状態の相手をそのまま蹴り倒す。
それは有り勝ちな音を立てて倒れると、すぐに『変化』が始まった。
メキメキ
ビリッ
コキコキ
コポコポ
何度見ても、気持ちの悪い光景だと明人は心底うんざりする。。
月の無い夜の、人気のない小道に大きな虫の死骸が転がる様は、見慣れることはない部類のものだろう。
明かりが少なく、その全貌がまじまじと見えないことが唯一の救いかもしれない。
明人は木製の刀についた体液を振るい払おうとしたが、刃にはすでに、血のあとも体液のあとも残っていなかった。
乾いたのだろうか。
いや、そんなはずはない。
「はぁ……はぁ……」
奇妙に思いながら明人は息を整えつつ、地面に流れ出た『虫』の体液を刀で突いてみた。
すると、不思議なことに、刃に触れた体液は、見る見るうちに、染み入るように吸い込まれ、やがて最初から何の液体にも触れていなかったかのように乾いてしまった。
「この刀が、体液を吸っているのか……」
この木製の刀は、あの日、カフェで見知らぬ黒ずくめ男から貰い受けたものだ。
なぜこの得物を安易に『木刀』と言わないのかは、その作りにある。
確かに木で出来ているのだが、その作りは異常なほど繊細で、柄や鍔はもちろん、刃文さえも美しく再現されており、それが一色の樺茶色であることを除けば、真剣と何も変わらないほどの精密で緻密な出来だったのだ。
驚くほど軽く、そして、異様なほどに丈夫な木の刀。
それに何より、恐ろしいほどの切れ味。
同封されていた説明書のようなものには『生物以外は切ることができない』と書かれていたが、明人がこの刀を振るう目的はあの『虫』を殺すこと。その条件で充分なのだ。
「これはいい」
リーチの短いナイフや包丁より安全に確実に急所を切り裂けるし、万が一警察に職務質問されたときも、木刀の見た目の為、なんとでも言い逃れることができるのも都合がいい。
「この刀があれば、虫たちとも戦える」
そう――この刀を扱いこなせるようになれば、あの『巣窟』でも戦える。
人間に擬態した虫の集団を、全員纏めて切り殺すことができる。虫を、一分でも長く生かしておくわけにはいかない。人に成り代わる虫は、全滅させる。
明人の心から虫への恐怖がなくなった訳ではない。
しかし、少しばかりの力を手にしたことで、勇気が湧いたのは事実だ。そしてきっと、そのいくらかの勇気が、恐怖を凌駕しているのだ。
「ねぇ、ミカ、いるの?」
ふと、明人の耳が声を捉え、とっさに路地の隙間に身を隠した。
「ねぇ、ミカ? ユーヤ君たち、待ってるよ……?」
その声の主と明人の間には面識がない。
だが、つい数十分前に裏手のバーで、先ほど明人が殺した『虫』と一緒にいた女性であった。年齢は明人と変わらないくらい。擬態した人間の(見た目)、ではあるが。
小柄だが、胸の大きな女性だ。特別注目していなくても、これだけ体のラインが見える服装をしていれば、嫌でも目につくというものだ。
派手で露出度の高い服を着て、髪を染めて、いかにも頭の悪そうな話し方をする。それもこれも、擬態した虫の変装技能だと思うと、感心もするし、怯えもする。
そう、彼女もまた『虫』なのだ。
やつらの凄いところは、誰も見ていないところであっても『虫同士』として会話することがない。常に人間として会話をして、仲間に対しても、人間のそれのように接する。徹底的に『人間』になりきっているところが、逆に厄介だ。
こいつも虫である以上、殺さなくてはいけない。
先ほどの虫と二人組みで、バーに来ていた男性にナンパされていたから、恐らくこいつらの目的も『性交』だろう。そして虫と人間の子孫を増やすつもりなのだ。
そう考えた瞬間、明人は背筋がゾッとした。
女性の足元から、ゴソッという物音がして、明人はもう少しだけ、彼女を覗き見た。
「え……?なに?これ……?」
無意識に蹴ってしまったのだろう。足元に転がる『虫』の死体に気がついたようだ。
その瞬間、女性は急に振り返り、こちらを睨んだ。気配に気付いたのか、それとも単に周囲を見渡したのかは、分からない。
どちらにせよ、明人のとる行動は変わらない。
低い姿勢で飛び出して、そのまま刀を左下から右上に向かって斜めに切り上げる。『逆袈裟切り』と呼ばれる斬り方だ。
「きゃああ!!」
斬りつけられた彼女が、悲痛な叫び声をあげる。しかしそれは、怪我や痛みによるものではなかった。
「くそっ」
腹から肩までの対角線を切り裂いたつもりだったが、明人の刀が切ったのは、何もない空だった。
明人はすぐさま構えなおし、相手を確認する。
だが、探すまでも無く彼女は路地に尻餅をついているだけだった。
驚きのあまり、後ろに足をもつれさせて、転んだようだ。その拍子に、運よく刀をかわしたらしい
明人は刀を下向きに持ち直すと、そのまま彼女に向かって飛び掛った。
殆ど抵抗もなく、木の刃は彼女の胸……丁度、二つの大きな脂肪の真ん中から少し左あたりに突き刺さった。
「あっ、かはっ……」
今度は叫ぶ間もなく、かわりに彼女からは、苦しそうな声があがる。
刃は心臓を捕らえた。
擬態した結果なのか、この虫たちには、人間と同じ場所に心臓がある。それを心臓と呼ぶのか否かは分かりようもないが、ここを潰すと絶命する。急所に関しては人間とほぼ変わらないという部分では、殺し易くて助かる。
「ああ……うう……」
呻く相手に、明人はもう一撃加えようと、刀を引き抜いて再び振りかぶる。
傷から刀を抜いた時、まだ赤い(・・・・)血液が飛び散り、彼女が首につけていたシルバーの猫のペンダントが、乾いた金属音を立てながら、僅かに揺れた。
そんな光景に一瞬、目を取られていたのかもしれない。
途端に、明人の下腹部に衝撃が走った。
もがいた彼女の足が、明人の股間を蹴り上げていたのだ。
「うぐっ!」
激痛と蹴られた衝撃で、彼は無様にもそのまま後ろに倒れこんだ。
背中と頭を地面に打ちつけ、更なる痛みに襲われた。
横に転がり、うつ伏せの状態から蹲ると、よろよろと逃げていく女性の姿見えた。
「ん……うッ……あ……ぐっ……」
既にその四肢には変化が見られる。
腕は気色の悪い節足に成り代わり、ぴっちり体に張り付いていたオリーブドラブのミリタリーキャミソールは既に破れて、小楯板が見えていた。
明人は体を無理やりに動かし、なんとかトドメを刺そうと立ち上がろうとするが、下腹部の痛みが邪魔をして上手く行かなかった。
ぎこちなく走る背中が、闇に紛れて見えなくなる辺りで、また人の気配がした。
「今、悲鳴みたいなのが聞こえなかったか……?」
それはバーの裏口付近から聞こえた。
近くには巨大な虫の死骸。
横たわる木刀を持った高校生。
この状況を見られれば、警察に通報される。それが公になれば、やつらに気付かれるかもしれない。
明人が虫たちの擬態を見破れるということを。相手に気付かれれば、彼に安息の時間は無くなる。四六時中、虫たちからの襲撃を警戒しなくてはいけなくなる。
「くっ……」
彼は仕方なく、虫が逃走した方向とは逆に向かって走り始めた。痛みから、足を引き摺るような無様な走り方だったが、とにかく今は逃げなくてはいけない。
なんとか木の刀だけを仕舞って、なおも走り続ける。
必死になって繁華街を抜けて、駅前の広場まで辿り着く。
追ってくる者は、いないようだった。
肩でする呼吸を落ち着かせて、引き続き辺りを警戒する。あまりキョロキョロしすぎると、かえって目立って怪しまれる。
明人は平静を装って、立ち上がる。
股間と背中にはまだ痛みが残っているが、我慢をすれば普通に歩くことはできる。
家に帰ろう。今日は一匹殺し、もう一匹には致命傷を与えた。体が変化し始めたのは、生命活動が危ない証拠だ。高い確率で、逃げた個体も死んでいる。一日で二匹も殺せたのだ。上出来ではないか。
今は、休みたい。ただ眠りたい。
そう思いながら、明人は自宅へと帰った。
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