第5話
いる。
いる、いる、いる、いる。
こんなに沢山の擬態した虫達を目にするのは、恐らく初めてだ。
明人は、その場所に来たことを、後悔していた。
ここは荒井浩太が通いつめていたクラブ。
バースタジオとしても貸し出すこの場所には様々な部類の人間が出入りする。もっとも、ここに来るような人間の大半が未成年でありながら、タバコを吸い、事ある毎に記憶が無くなるくらいまで酒をのみ、出会ったばかりの男女が避妊もせずにセックスし、中にはドラッグなどに手を出す人間もいる。
葉っぱや薬でハイになった彼ら、彼女らは、輪姦、乱交は当たり前。
そんな中に、こんなに多数の虫が紛れ込んでいるなんて。
明人は真っ青になりながら、近くカフェまで走って逃げると、カウンター席に座って頭を抱えていた。
ヤバい。これはいけない。あんな人数相手に、どうやって戦えばいい?
勝てっこない。今までは、一人一人だったし、同じ学校の生徒や知りあいだったから、なんとかなったけど流石に、これはダメだ。
相良明人は完全にパニックに陥っていた。
きっと、色々と条件が重なりすぎた結果ということもある。
単純に擬態した虫の数が多かったこと、その擬態している虫が直接ではないが、知りあいの知りあい程度には、見知った人間達であったこと。
そして、簡単に交配相手を見つけられるような場所であったこと。
明人には自分なりに、擬態した『虫』について、観察して分かったことが、幾つもあった。
まず第一に虫たちは、元の人間に成り済まし、人間として生活をしている。
危機を感じる、もしくは正体を知るものには、容赦がなく、虫化して襲ってくるということ。
そして、とにかく性交を繰り返す、ということ。
明人が殺した虫は、四匹がオスで、一匹がメスだったが、どれも異性を巧に誘惑しては、何時間も性交が続けられる場所に閉じ込め、性交を繰り返す、ということを行っているようだった。
明人の推測では、本能に特化した虫は、種の存続と繁栄の為、とにかく交尾を繰り返して、子孫を増やそうとしているのではないか、というものだ。
擬態した虫と性交して妊娠した女性が、あるいは人間の精液で、受精した虫のメスが、どんな子供を産むのか――そもそも妊娠が成立するのかさえ不明だが――はわからないが、もし『虫』としての本能を強く持つ子供が生まれるとしたら、恐怖だ。
これは種を侵食する新しい侵略に他ならない。
その第一歩が、目の前で行われているかもしれないのだ。
早く止めなくては。
早く殺さなくては。
しかし同時に、やつらが一気に虫化して襲ってきたことを考えて、冷や汗が止まらなくなる。
無数の長い節足が、鈍い刃のような足先のギザギザが、明人の体目掛けて、振り下ろされる。彼はきっと、数分で肉塊になるだろう。
そうしたら、今度は明人に虫が成り代わり、擬態して『相良明人』の生活を送るのだ。
そこまで考えると、吐き気すらもよおす。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
想像だけで上がってしまった息を整えようと明人は水を飲む。
アイスコーヒーは頼んだものの、それに口をつける気にはなれなかった。
透明なグラス越しの真っ黒なコーヒーに、ゴキブリの背中を重ねてしまったからだ。同じ『黒』というだけで、本来は似ても似つかないものから連想してしまうあたり、今の彼が、どれほど追い詰められているかが分かる。
誰かに、助けを求めるか?
いや、それはもう、今まで何度も検討しては却下してきた案だ。どこの誰が擬態した虫で、あるいは擬態した虫と繋がっていて、または虫に味方する者かもわからない状態で、明人の『擬態を見抜ける力』の情報を他人に流すのは、あまりにもリスクが高すぎるからだ。
しかし――、
こちらも人数を増やさないことには、どうにも話が進みそうに無いのも、また明らかであった。
ふと、一人の先輩の顔が浮かぶ。
早蕨芥。彼なら、どうだろう?
芥は、この前『巨大な昆虫』に関して、何かを調査していると言っていた。あの時は突然の再会であったし、虫を一匹殺した直後で、気が昂っていたこともあり、相談しなかったが、彼ならば話くらいは聞いてくれるかもしれない。
明人はまだ少し震える手でスマートフォンを取り出し、芥のアドレスを検索した。
「君は勇敢だね」
いつの間にか、隣の席に座っていた男性が、明人を覗きこみながら、そう囁いた。
黒いハットを被り、同じく黒いケープマントを羽織り、やはり黒のスリーピーススーツをカッチリと着込んでいる。
「え?」
「大丈夫。私は君の敵じゃない。味方では……ないかもしれないけど」
明人は体を強張らせながら彼の方を、彼の目を見た。
酷く澄んで、穏やかな瞳だった。
早蕨芥の印象も、類似したものがあったが、それよりももっと無機質で、そして達観したような何かを感じる目だった。
年齢は、明人よりも少し上、だろうか。大学生のような雰囲気もするし、それよりもやや上のような気もする。
髪は黒髪で、男性にしては長髪、顔付きだって日本人のそれに間違いないが、何か得体のしれない空気管を纏っている。
「君の秘密。抱えている悩み。そして、戦っているモノ。私は分かっているよ」
「え……秘密……?」
その言葉に、明人は怯えた。
分かっている?
何を?
自分があの擬態した虫たちと戦っているということ?
擬態した虫が、人間社会に溶け込んでいるということ?
明人の中に刹那に様々な疑問と憶測が交錯する。
「残念ながら、私には、その虫を見分ける力はないんだ。だから、直接は協力できない。でもね? 手助けなら、できるんだ」
「手助け?」
「ああ、そうだよ」
彼はそう言うと、明人座っていた席の右隣を、黒い革の手袋をした手で指差した。
彼が座っているのとは、反対側の席だ。
「そこに立てかけてあるモノを君にあげるよ」
見ると、そこにはいつの間にか、一メートルほどの棒状のものが、綺麗な紫の布にグルグル巻きにされて、カウンターテーブルに立てかけられていた。
ついさっきまでは、そんなものはなかったはずなのに。
「手に持ってみるといい。大きさの割には、軽いよ」
言われるがまま、明人はそれを手にする。
長さと形状から、木刀のような感覚で持ち上げてみたが、これがどういう訳が、気味が悪く軽い。授業で少しだけ触れた竹刀なんかよりも、もっと軽い、まるでバルサ材で出来ているかのような不気味な質量だった。
「使い方も同封しておいたから、よく読んで使ってくれ。一見信じられないようなことが書いてあるかもしれないけど……」
彼はニッと口角を更に上げた。
「今の君なら、信じて理解して、使えるはずだ。あんな化け物がいるとことを知ってしまい、それと一人で戦っている君なら、ね」
「あなたは、誰、なんですか?」
「私? 私は魔法使いだよ。もっとも、殆どの魔法使いたちは、私の術を『魔法』と呼ぶのを嫌がるがね」
「魔法……使い……?」
「ああ、そうさ。別に不思議じゃないだろう? この町では、都市伝説が多く語られ、それが形となって現実化することも少なくない。今、君が遭遇していることだって、広い定義では『魔法』のような『非現実』じゃないか?」
「それは……そうですけど」
「まぁ、私が誰か、なんてことはどうでもいいんだよ。私は君を応援したい。一応ね? 正義の味方、なんだよ、私は。だから、あの『虫』達も許してはおけない。人間に成り代わるなんて、何より不気味だ。増えるしか能の無い虫なんかに、人間が侵食されては良いわけがない。そうだろう?」
彼は酷く流暢に予め台詞の練習でもしていたかのように述べた。
その言葉の内容は、明人が常々あの擬態した虫たちに対して思っていたこと、憤っていたこととまるで同じだった。
「あなたは、どこまで、あの虫のことを知ってるんですか?」
「君と同じ程度さ。あの虫が人間に擬態して、成り済まして生活している。繁殖に重きを置き、人間との生殖行動を繰り返すが、その目的については不明。いや……やつらが見た目通りに『虫』なのならば、ただ増えるだけが目的か……といったところだね」
本当に、明人と同じような部分までしか知らないのか。
「あなたはさっき、虫を見分けられないって言いましたけど、それなのに、どうして分かるんですか?」
彼の表情から、微笑みが少しだけ消えた。
「君を見ていたんだ。君が虫を倒すところを。だから知ってる。だからこそ、君が知っている以上のことを、大して私も知らない。でも、何か手助けをしたい。君の行いは、尊く勇敢で優れている。正義そのものだ」
「ボクが、正義?」
「ああ、そうだよ。人知れず、人間に成り済ました虫と、身の危険を冒してまで戦う。それが正義でなくて、なんだというんだい?」
それを聞いて、明人は幾らか、良い気分になっていた。
何かを認められたような、そんな気持ちだった。
「だから、私は協力したい」
「……あなたの、名前は?」
明人がそう尋ねると同時に、
カランカラン
いつもよりも遥かに大きく聞こえたカウ・ベルの音に少しだけ驚いて、無意識に入り口に目をやった。
彼とは逆側だったとは言っても、明人がドアを見たのは、一秒ほどだった。
しかし、
「え……?」
視線を戻すと、彼は既に消えていた。そこには最初から誰もいなかったかのように。ただ、彼に渡された妙に軽い棒状のものだけが、しっかりと残っていた。
明人はその日、そのまま家へと帰ることにした。
やつらの集まる場所は分かったのだ。その日、今すぐにどうこう出来るわけではないし、するべきでもない。
それにあの数。少なく見積もっても、十匹以上。
準備をしなくては、いけない。作戦と、武器と、覚悟がいる。
先ほどの怪しい『魔法使い』だという男に貰ったものの正体も確かめる必要がある。
結局は自分が一人で、なんとかしなくてはいけないのだ。だが、明人の気持ちは、ほんの少しだけ、前向きになっていた。
あの男が、明人の行動を肯定し、応援してくれたからである。
今までは圧倒的に大きかった『恐怖』が、いくらかの勇気に変わっているのは確かだった。
自分だけが見えて、自分だけが知っていた事実。
本当は全て、自分だけが見てる妄想なのではないだろうかと考えたことも、一度や二度じゃない。しかし、そんな自分と同じものを見ている人がいて、味方になってくれる人がいる。それだけで、彼は強くなれる気がしたのだ。
別に救世主願望も、英雄願望も持ってはいない。
しかし、それが自分に求められているなら、やるしかない。
選ばれて、しまったんだ、きっと。
だから。
だから――
「……?」
明人は、思わず立ち止まった。
家まであと百メートルを切った辺り。
少女が一人、歩いていた。歳はボクと殆ど変わらないだろう。顔はやや童顔だが、恐ろしく整った美人である。
それは、弱々しい街灯と僅かな月明かりの中でさえ、はっきりと解かるほどの美麗さであった。
闇夜に同化する漆黒の髪を夜風に靡かせて、優雅に、楚々と歩いてくる。
黒いふわっとしたスカートに白のブラウス。羽織っている高級そうな赤いベストは、どこか良い所のお嬢様であることを容易に想像させた。
明人は我に帰って、再び歩みを進める。
立ち止まったまま、あまりにジロジロとみていてば失礼なばかりが気味悪がられてしまう。
距離は縮まっていき、やがて、すれ違う。
「あなた……」
すれ違う瞬間に、その少女が、僅かに声を発した。
「え? はい?」
「あなた……怪我をしてるの?」
その少女は、人形のように整った顔で、そう尋ねてきた。
「いえ……特には、してない……です」
明人が答えると、その少女は上から下まで、じっと見回して「そう」と言った。
「失礼したわね。なんでもないの」
「はぁ……」
明人の何ともマヌケな受け答えを聞くか聞かないかのうちに、彼女はそのまま、去って行った。
なんだったのだろうか。明人は改めて、自分の腕をはじめ、体を確認してみたが、やはり怪我などしている様子はどこにもなかった。
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