第3話
この町では『異能事件』の噂が絶えない。
最初は恐らく、ただの都市伝説的なものだったに違いない。
しかし、奇妙な連続自殺事件や死亡事件が、噂の広まると同時に起こったことで、それと関連づけて考える人間が少なからずいたのだろう。
やがて噂には尾鰭がついて、勝手に育ち、実体を持っていく。
その都市伝説が、それらの事件を元に語られたものなのか、それとも、その都市伝説を模倣した誰かのイカれた犯罪なのかは分からない。
だが、それはいつしかそこに確実に存在するようになる。
ボクが遭遇した今回の事件も、きっとそういう類のものだろう。
不気味であり不思議でもあるが、それは実際に起きていることで、その事実を変えることは、目を瞑り、耳を塞いで『無かった』と思い込む以外に方法はない。
そしてボクにそれは、出来そうもない。
ボクはターゲットの後をつけながら、バッグに忍ばせていたサバイバルナイフを静かに握る。まだナイフは取り出さない。バッグの中に手をつっこんで、柄を握り締め、いつでも振り抜ける状態にしておくだけだ。
万が一第三者に見つかって、騒がれたり、通報でもされたら面倒だし、何より『犯人』を取り逃がしてしまう。
そうすれば、その犯人による次の犠牲者がでることになる。
それだけは避けなくてはいけない。
時刻は夜の八時三十分。月は雲に隠れ、病み闇はより一層、その濃さを増していた
それに隠れるように、犯人は更に暗く狭い路地へと入っていく。
誰にも見られない場所、という意味では好都合だが、やつらの力を考えると、あまり狭すぎる場所は、こちらの不利になる。
やつらが正体を現したら、その長い『節足』と、先に着いたキザキザの鉤爪で、攻撃を仕掛けてくる。
狭い場所では、それがどうにも避けにくいのだ。
だから――
ボクはやつらが『変化』する前に仕留めることにしている。
普通の人間には見分けがつかないだろうけど、ボクには分かる。やつらがどんなに上手く人間に成り済ましていようとも、ボクならその『擬態』を見抜くことが出来る。
この力はボクだけが偶然持ち合わせたもの。
ボクしかできず、ボクにしか気付けない。
だから、ボクが戦うしかないのだ。
たった一人であっても。
ボクはボクの住む町と、知りあいや家族の平和を守りたいと願うくらいには、良心と勇気と正義感のある人間だ。
ボクはバッグの中の手に力をこめて、少しだけ歩みを速める。
ゆっくりと、ターゲットが振り返るそぶりを見せる。
しまった、とボクは思った。
この路地では狭すぎて、隠れる場所はない。
いや、このまま『ただ後ろを歩いていた』ことにして、一旦やり過ごすか?
いいや、違う。
やつらは勘が鋭い。
きっとボクが擬態に気付いていることがわかって、襲ってくるはずだ。
幸か不幸か、ここは人目のない裏路地。
ボクのような小柄な男を八つ裂きにして、解体して喰うには、五分もかからないはずだ。
だとすれば――、やられる。
ボクは踏み出した。
足に目一杯の力をこめて、前のめりに倒れるように、走り出したのだ。
バッグを左手に抱え、まるで刀の鞘のように掴む。
右手は更に力をこめて、バッグからナイフを引き抜いた。
「え?お前……」
続くはずだった相手の最後の単語は、口から出ることはなかった。
ボクは手にしていたナイフを横に一閃、彼の首を声帯ごと切り裂いたからだ。やつらは時に、奇妙な声を上げて、その危機を仲間に知らせる。
ただでさえ、有利とはいえない状況なのに、仲間を呼ばれては死活問題だ。その為にも、ボクは致命傷と、連絡手段を絶つという二重の意味で、喉を狙うことが多い。
それに、甲殻で覆われた腕や背中よりも、喉は格段に刃物が通り易いのだ。
「ゴポッ……」
口から血のようなものを吐き出して、相手が倒れる。
その顔には、見覚えがあった。
クラスメイトの沼田哲也。
ボクの友達。
いいや、友達『だった』もの。
きっと本物の彼は食われてしまって、それに成り代わった化け物が、今ボクの目の前にいる生き物だ。
ボクは、酷く出血する喉元を抑えながら倒れる沼田に擬態した化け物に、トドメを刺す為にナイフを振り上げた。
ここから延髄のあたりを突き刺せば、確実に仕留められる。
やつらの特性で、唯一とも言える救いは、箇所さえ正確に見極めれば、普通の刃物で充分に殺傷できるというところだ。
「んんっ!!」
ズグリッという感触と共に、ナイフの刀身は半分まで、相手の延髄に刺さった。骨なのか、別の何かなのかは分からないが、その硬い部分を貫通させるために込めた力に、思わず声が漏れた。
突き刺した刃を僅かに左右にずらして切り裂き、そして引き抜く。
その頃には、もうビクビクとした反射もなくなり、相手はぐったりと横たわって動かなかった。
そして、
シューッという、膨らませたビニル袋から空気が抜けるような音に混じって、パキパキと硬いものが触れ合うような音が聞こえる。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
ボクはそれを、上がった息を整えながら見詰めていた。
何が起きているのか、ボクに分かっていたし、知っていた。
『変化』が始まったのだ。
コポコポ
コキコキ
奇妙で不気味で、気持ちの悪い音が小さく鳴り響き、すでに死骸となったそれは変化を遂げていく。
肉で覆われていた四肢の内側から、見るからに硬そうな節のある足がせり出してくる。
その巨大な節足は、一見するとすでに虫には見えず、どちらかというと大きな蟹や海老の手足を連想させる。
しかし、鈍く光る緑色や手足の先の刺毛の形状から、こいつらが甲殻類ではなく、虫の類であることを強く物語っていた。
何より、見た目が悪い。
主観によるものが大きいとは思うが、ボクは同じ大きさの蟹や海老を見ても、ここまでの嫌悪感を抱かないだろう。
メキメキ
背中の皮膚が割れて、黒く艶のある外殻が姿を現す。それは容易に、カブトムシ……いや、せり出てきてすぐの小楯板は、体液か何かで濡れているように見えて、どちらかというとゴキブリに似ている。
この小楯板は黒っぽいものと、カナブンのような緑っぽいものがいることが分かっている。
どちらにしても、気味が悪いことには変わりは無いのだが。
奇妙な音はやがてしなくなり、同時に今まで『人』だったものは、見事な『虫』になっていた。
頭部、胸部、腹部に別れ、それぞれに括がある。
これで手足が3対ずつあれば『昆虫』と定義出来たであろうが、こいつらの手足は、二対。実際に手なのか足なのかは置いておいて、不気味で長い節足が、二対四本生えているのだ。
こいつらは虫だ。
虫が知能を持ち、擬態を覚え、人間に成り済まして生きる。
人語を操り、人を食って生きるのだ。
ボクはその死骸を冷たい視線で見下ろすと、踵を返す。
残念ながら、ボクにこの質量の死骸を処理する術はない。いや、むしろ、こうして放置することで、こんな化け物が人間社会に潜伏しているのだということを世に知らしめなくてはいけない。
あと何体、ボクはこいつらを殺さなくてはいけないのだろうか。
社会には、どれくらいこの虫たちが潜伏しているのだろうか。
それを考えると、ゾッとする。
ボクは狭い裏路地を抜けて、人気のない公園まで早足で辿り着き、水場でナイフを洗う。
赤かった血液はすぐに変色して、濁った緑色になっていた。これも、やつらの血の特徴だ。
虫は完璧に擬態していると、ボクでも見破れないことがある。
じっと観察していると、ふと触角のようなものの生え際(・・・)が微妙に動くのが見え、そいつが虫であると分かるのだ。だから、虫かどうかを見極めるには、ある程度の時間がいる。
特定の会話でも、虫であるどうかを見破る手がかりにはなる。
どういう仕組みかは分からないが、擬態した虫は、その本人の記憶や思い出、感情、性格を綿密にトレースすることが出来るらしく、通常の会話程度では、その誤差には気付けない。
だが、同時にその『虫』としての本能には忠実で、それを隠すことも得意ではないようなのだ。
綺麗になったナイフをタオルで拭いて、そのまま刃を包む。さらに丈夫な革の袋に入れて、バッグに仕舞い込んだ。
ボクはそのまま近くのベンチに座って、溜め息をつく。
虫との闘いは、いつだって怖い。
今まで四体ほど倒し、さっきので五体目だが、まだまだ全然慣れはしなかった。
やつらが何なのか、本当に虫なのか、人間に紛れて何をしようというのか、何もかも分からないが、あれが人間にとって脅威であることは分かる。
それに、やつらが元の人間に成り代わる瞬間を想像すると、吐き気がする。何とかして、原因や根源……そう、例えば『巣』のようなものが分かれば、そこを潰せば何とかなるではないだろうか。
ボクはそんなことを考えながらも、ではそれを探るためにどうすれば良いかなど具体的なことはさっぱり分からなかった。
虫が擬態した個体を暫く観察してみたこともあったけど、二ヶ月様子を見ても、擬態した生活を繰り返すだけで、その『巣』のような場所には一向に戻る気配はなかった。
と、なると、そもそも『巣』なんてものは存在しないのだろうか。
そんなことを考えていると、突然人の気配と共にガサり、と葉が揺れた。
ボクは反射的に飛びあがってしまった。
虫の仲間がいたのか?
いや、警察だろうか?
どっちにしても、良くない状況だ。
虫はもちろん、職務質問や持ち物検査をされれば、一発で終わりだ。
ボクは立ち上がろうした時、ほぼ同時にその人影は、弱々しい灯りの元へと出てきた。
現れたのは、一人の男だった。青年、というべきか。
中肉中背で、人の良さそうな顔。闇に同化するような黒いシャツにブルーグリーンのデニム。
その青年は、一度辺りを見回してから、ボクの方を向き、一瞬だけ驚いたように眼を見開いた。
見開いたのは、きっとボクもだと思う。
なぜなら、その青年はボクの友人であり、高校のOBでもある早蕨芥(あさおかそうすけ)だったのだから。
彼が三年の時に、ボクが同じ高校に一年生として入学した。
知り合ったきっかけは、上級生に絡まれていたボクを、彼が助けてくれたことがきっかけだった。彼は高校の中でも少し特別な存在だったようで、実際止めに入った彼を見た上級生たちは、特に抵抗するでもなく、みんな目線をそらして立ち去ってしまったのだった。それ以来、ボクは誰にも絡まれないようになり、平穏な高校生活を過ごすことができた。
彼ともそのまま交流は続き、卒業して大学生になった今でも、たまに連絡が来て一緒に食事をしたりすることもある。
「明人?こんな時間に何をしてるんだ?」
早蕨先輩が、ボクの下の名前を、いつものように呼ぶ。
「ええと……」
ボクは言いよどんで、
「夜の、散歩です」
と答えた。
「散歩? こんな場所を?」
早蕨先輩は怪訝そうにそう聞き返したが、すぐに普段と同じ表情に戻った。
「気分転換です……勉強の……」
「そういえば、家がこの近くだっけね」
「はい、繁華外を抜けた先です」
「そうか。でも、さすがに高校生がこの時間に出歩くのはよくないかもね」
「そ、そうですよね……すみません。あの、先輩はどうしてここに?」
「ああ、僕はアルバイトだよ」
「アルバイト、ですか」
確か、以前に先輩は少し変わったアルバイトをしていると聞いたことがあった。なんでも、一応は町の外れにある骨董店でのバイトらしいのだが、その業務内容というが、店番や在庫整理の他に、骨董品の調達や鑑定で探偵紛いのこともしているというのだから、意味が分からない。
以前、ボクが偶然、骨董店から出てくる彼を見たときは、とんでもなく美人な女の子と一緒だったっけ、と一年ほど前の記憶を思い出す。
「ちょっとこの辺で起きてる『噂』について調べているんだ」
先輩はその人の良さそうな顔で微笑みながら言った。
「噂……ですか?」
「そう。高校とかで耳にしたことはないかな? 最近起きている『失踪者』の話。それと……」
先輩の目だけが、すぅっと鋭く光る。
「『巨大な虫』の噂……」
その言葉を聞いた瞬間、ボクの鼓動は一気に跳ね上がっていた。
息は大きく吸ったまま、数秒の間吐くことを忘れてしまう。
「あ、あの、巨大な、虫って……?」
「知らないかい? この辺で大きな虫の死骸が見つかったっていう話さ」
「え、あ、それは……知らなかった、ですね」
ボクは呼吸と鼓動をなんとか整え、悟られないようにしながら、答える。
大きな虫。
それは、あの『虫』のことだろうか?
それとも、ただ単純に、通常サイズを逸脱しただけの文字通りの『大きな虫』の話だろうか?
その判断が出来ず、ボクは沈黙することにした。不確定な要素があり過ぎる場合、多くを語らないに越したことはない。
「いや、僕も半信半疑ではあるんだけど……って、ごめん。こんな時間に、こんなところで話すことではないね。君は帰った方がいい」
先輩はそう言って、ボクに帰宅するように促す。
ボクもそれに素直に従い、ベンチから腰をあげた。「それじゃあ」と言って、彼に背を向けて歩き出したところで、
「気をつけてね? こういう夜は、何か特別なことが起こる可能性が高い」
背中越しに、先輩は言った。
「は、はい、気をつけます」
ボクはそう返すのがやっとで、急ぎ足でその場をあとにした。
自分でも驚くほど乱暴に歩みを進める。耳にする己の足音の荒々しさに戸惑いながらも、ボクはその速度を下げるわけには行かなかった。
一刻も早く、その場から遠ざかりたい。どういう理由でそうなのか、また、その場とはいったいどこなのかは自分でも正確にはわからなかったが、とにかく、そこにいてはいけないと本能が叫んでいるようだった。
公園を抜けて、繁華街を突き進み、今日の電車の運転もあと十本ほどを残すだけとなった駅前に差し掛かる。そのあたりで、ようやくボクの両足は激しい前進を止めた。
息を整えて、自宅へと続く住宅街の路地へと向かう。
ボクはそこで暫く立ち止まっていた。
道幅と距離の割には、圧倒的に不足気味の外灯が『薄暗い』をもう少し通り越したほどにやんわりと、足元を照らしていた。
「早蕨、先輩……」
彼ならば、話くらいは聞いてくれるだろうか?
探偵のようなことも手伝っているという彼なら、ボクのこの、あまりに非現実的でありながら、間違い用のない事実を、笑わずに聞いてくれるだろうか。
彼が調べているという『巨大な虫』は何を指しているのだろうか。
そこまで考えて、ボクは溜め息ついた。
先輩は比較的親しい知りあいではあるけれど、頻繁に遊んだりするほどではない。悩みがあったりしたら、たまに相談に乗ってくれたりはしたことはあったが、その程度だ。
そんな彼に、ボクの秘密を語るのは、少しはばかられる感じがした。
頼れない。
そもそも、誰を信じて、誰を疑えばいいかも定かではない現状で、誰かに助けを求めること自体が、困難なのだ。
ボクは自宅に戻り、何度も手を洗った。
手にはやつらの血など付いていなかったが、そうせずにはいられなかった。
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