side:一暉

 きっかけは、青空デパートに来ていた一人の女の子を指差したことから始まった。

 本当になにも考えずに適当に決めたのが、井垣琴子……その子だったのだ。

 もしかしたら『皇の血』が彼女を選んでいたのかもしれない。一暉の祖父、幸聖にはそんな能力があった。人を見る目がある、と言い換えることもできる能力が。

 それが孫の一暉にもいつの間にか発揮されていたのだろう。幸聖は一目で琴子を気に入り、半ば無理矢理に一暉の婚約者に仕立て上げてしまった。この行動力は、我が祖父ながらいつも感心する。


 最初は面倒なことになったと思っていた。

 幼い頃からピアノを習っていた一暉は、フランスにいる叔父にいつも「早くこっちに来い」と言われていた。真剣にやる気なら、環境の整ったところでするべきだと。

 その提案を真面目に考え始めたのは、小学校六年生の時だった。しかし同じ時期に幸聖の病気もわかってしまい、おじいちゃん子の一暉は言い出せなくなってしまったのだ。

 行くならば、祖父を見送った後。でなければ、本当に今生の別れになってしまう。

 だから、中学までは日本で暮らそう。そう決めた矢先に、青空デパートで指差した女の子が、皇家に連れて来られたのだった──


 その琴子が自分の婚約者となった経緯を聞いた時、一暉は絶句した。

 要するに、彼女は売られて来たのだ。こう言っては失礼だが、琴子の家は賭け事好きな大助のせいで、生活レベルは一般の人よりも遥かに下のようだった。

 一暉は琴子を憐れに思うと同時に、申し訳なくも思う。いきなり住む世界が違っている者と交流させられて、おろおろしている彼女の姿。それを見るとつらくもあり、同時にかわいらしいとも思った。

 琴子には皇家の嫁になるために、多大な負担を掛けてしまう。いきなり見も知らぬ人と結婚の約束をさせられるのは、嫌に違いなかった。一暉にしたって皇家に縛られず、自由に生きたいのだ。

 だから一暉は、琴子の気持ちを確認した上でお願いをした。


 幸聖が死ぬその時までは、婚約者のフリをしていてほしい、と……。


 これは琴子にとって、苦痛でしかなかったと思う。

 でも彼女は、泣き言ひとつ言わず頑張ってくれた。いや、日本舞踊を習わせられそうになった時には、自分には向いていないと思ったのか泣いて断っていたが、その代わりにと習わされていた社交ダンスは楽しんでいるようだった。

 身長の関係で先生とはちゃんと踊れず、たまに一暉も琴子の練習相手になっていたが、その時の琴子のはにかんだような笑顔が印象的で忘れられない。

 幸聖の言いつけをしっかりと守り、入学した直後のテストでは地を這う酷さだった彼女の点数は、ぐんぐんと伸びていった。

 なんにでも一生懸命努力してくれる琴子の姿に、幸聖も一暉も好感を持った。

 琴子とは偽りの婚約者だと伝えていてノータッチだった父親と母親ですら、『本当に結婚してしまえばいいんじゃないの?』と言い出すほどに、彼女は素晴らしい人だったのだ。

 正直に言うと、一暉は琴子に惹かれ始めていた。

 だけど、それだけは駄目だ。もしも本当の婚約者になってしまえば、皇家の嫁としての立場が一生続いてしまう。数年だけの辛抱だから、頑張れているだけかもしれないのだ。今のような状態が一生ともなると、さすがの彼女も逃げ出してしまうかもしれない。


 だから一暉は。

 本当の婚約者になってほしいとは言えなかった。


 偽りの婚約者でも、少しの間だけでも。

 琴子と一緒にいられれば、それで幸せだった。



 幸聖が旅立ち、四十九日が過ぎたある日。

 初めて琴子にどこの高校に行くのかと尋ねられた。

 今まで聞かれなかったので、彼女は自分などに興味はないのだと思っていたから、とても驚いた。

 しかし正直に『フランスに行く』と答えると、琴子の答えは『そうですか』という素っ気ないもので。

 当然の返しだとわかっていても、胸が締めつけれた。彼女にとって、自分はその程度のものなのだと思い知らされてしまって。

 冗談でも『一緒に来る?』なんて言葉は言えなかった。断られるのが怖くて。琴子の平凡を望む生活を奪うのが嫌で。

 ただ、別れる時期を再確認しただけの、会話になった。


 幸聖が亡くなってから、帰り道を一緒に散歩することもなくなってしまった。琴子が皇家で勉強をする必要がなくなったため、そのまま車で家まで帰ってしまうからだ。

 もしも彼女が皇家から歩いて帰ると言うことがあれば、必ず送ろうと決めていたのに。琴子は卒業するまで、車を降りなかった。


 だから、琴子が最後に見送りに来ると言った時には、とても驚いた。自分となど、さっさと縁を切りたいものだと思っていたのに。律儀な彼女は、今までの学費や送り迎えの礼をしなければ気が済まないのかもしれない。

 そう、期待など、してはいけないのだ。

 でももし、もしも。

 琴子もフランスに行きたいと言い出したなら。


 一暉はいても立ってもいられず、ある物を買うために家を飛び出した。



 翌朝、家を立つ少し前に琴子がやってきた。

「琴子」と声を掛けると、いつものように「一暉さん」と返してくれる。

 けど、その後の会話は続かず、一暉は彼女からの言葉をひたすらに待った。

 もしも琴子から、一暉を思う気持ちが少しでも聞けたなら。その時には逃しはしないと心に決めて。


 長い、沈黙だった。

 なにかを言いたそうな琴子は、結局なにも口にすることはなく。


「……一暉様、時間です」


 無情な時の宣告。


「わかった」


 時間切れ。その意味を、一暉は重々理解していた。

 これが、今生の別れになるのだ、と。


「じゃあ、琴子。もう、時間だから」

「……はい」


 一暉は吹っ切るようにそう告げて、車の中に乗り込む。

 最後に琴子の顔を見ようと窓を開けると、彼女の言葉が飛び込んできた。


「一暉さん、ごきげんよう……っ」


 サアアァァァッ、と春の風が目の前を過ぎてゆく。

 こんにちは、さようなら、元気で、またね……色んな意味を含んだその言葉に、彼女の希望が伺えて。


「さようなら、琴子」


 その希望を、一言で遮断してあげる。

 日本に帰ってくるつもりなど、今は微塵もない。己の未練を断ち切るために、そして琴子の未来を思うが故に。

 ここできっぱりと別れた方が、お互いのためだ。


 車が、ゆっくりと発進する。


 少しでも琴子は自分を好いてくれていたのだろうかと思うと、嬉しかった。

 目の前にあるのが、たとえ別れであろうとも。


「……琴子……っ」


 昨日買ったばかりの指輪は、彼女の手に渡ることもなく。

 一暉はそれをギュッと握りしめ、泣くまいと歯を食いしばっていた。









 あれから、十年──


 一暉はフランスでピアニストとして活躍している。そんなに売れているわけではないが、生活は問題なくやっていける程度には。

 一暉自身がすめらぎ商事を継ぐことはもうないだろう。今のすめらぎ商事だって、社長を務めているのは父親ではなく、嫁に来た母親の方なのだ。父親の方はまったくの畑違いの趣味で生きている人間で、一暉がピアノで生きていくと宣言した時も、ちっとも反対されなかった。だからこうして本当にピアニストになれたのだが。

 しかし、すめらぎ商事を放っておくわけにはいかないし、父親と同じく母親のような優秀な人と結婚することになるだろう。もう一暉も二十五歳だ。いつそんな話が出てもおかしくない。その時には大人しく年貢を納めよう……それが好き放題してきた自分にできる、最大の親孝行となるはずだ。

 そんな風に考えていたある日、一暉は叔父の太陽に呼び出された。太陽はすめらぎ商事のフランス支社で、重役を担っている人物だ。


「どうしたの、太陽叔父さん」

「本社の社長秘書が、こっちに転属を希望していてな。今回は社長義姉さんの計らいで、フランス支社の様子を見に来たんだ」

社長母さんの計らい? それで俺を呼び出すって、いい気はしないな」


 覚悟はあるとはいえ、とうとうその時が来たのかと思うと、やっぱり少し気が重い。

 太陽は「察しがいいな」と笑い、「その社長秘書に街を案内してやってくれ」と頼まれてしまった。すめらぎ商事の社員でもない一暉に案内を押し付けてくるのは、やはりそういう事情からに違いない。

 軽く息を吐いて、それでもこれが自分の使命だと、言われるがまま太陽に着いていく。


「お待たせしたね」


 太陽が扉を開けると、中に立つ女性は頭を下げていた。そしてゆっくりとその顔が上げられる。


「一暉、この方だ」


 窓から入り込む美しい光の筋を背に。

 その人は立っていた。

 凛と、綺麗に伸びた背筋。真っ直ぐに向けられる瞳。


 一暉の脳は電気が走ったように、一瞬目の前が白く染まる。


「こ……とこ……?」


 なんとか声を絞り出すと、その女性はにっこりと微笑み。


「本社で社長秘書をしている、井垣琴子と申します。よろしくお願い致します……一暉さん」


 久しぶりに聞く、琴子から発せられる己の名前。

 あの日我慢していた涙が、堰を切ったように押し流されて。

 一暉はたまらずに目を伏せた。

 太陽は「あとは頼むな」と出ていき、部屋には二人だけが残される。


「お久しぶりです、一暉さん」

「琴子……琴子、どうして……」


 みっともなく涙を流しながら問い掛けると、彼女は困ったように笑って。


「幸聖さんはきっとすべてを見越して、私にフランス語の教師をつけてくれたんですね」


 その言葉にハッとする。あの頃、一暉がフランス行きを決意していたことを、幸聖は知らなかったはずだ。それなのに、わざわざ琴子にフランス語を習わせていた事実。

 幸聖には、一暉がフランスに渡ることも、今回のことも……すべてわかっていたのだろうか。

 琴子と再びこうして出会えたこと……それを心から幸聖に感謝した。


「改めて……よろしく、琴子」

「よろしくお願いします、一暉さん」


 一暉と琴子が初めて出会ったあの日から、十三年目の春。


 出会いは別れに……そしてもう一度出会いに変化して。


 時は、ようやく動き始める。


 優しい風と、ともに。



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『再び大地(フィールド)に立つために 〜中学二年、病との闘いを〜』

https://kakuyomu.jp/works/16817330651197084051



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『その瞳に光が戻るなら、この手を離すこともいとわない。』

https://kakuyomu.jp/works/16817330652321148972



シリーズでまとめた作品一覧はこちらからどうぞ!

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春の風は優しく 長岡更紗 @tukimisounohana

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