06.最後の日

 卒業式が終わった。

 三月にも関わらず暖かかったおかげで、いつもより早く桜が咲いている。

 まだ満開ではないものの、もう一暉と一緒に桜は見られないと思っていた琴子にとって、これは予想外に嬉しい出来事だった。卒業式が終わって、一緒に帰る車の中でちらりと見ただけの桜だが。それでも琴子はこの景色を忘れまいと心に留める。


「終わったね」

「終わりましたね」


 一暉の呟くような言葉に、琴子も同じ言葉で返した。

 琴子と一暉の奇妙な縁も、これで。

 本当にすべてが、終わってしまう。


「今までお世話になりました。フランスに行っても頑張ってください」

「ありがとう。琴子も高校生活を楽しんで」


 出会った時よりも、ずっと低くなった声。

 いつの間にこんなに身長差がついてしまっていたのだろうか。


 置いていかれる。


 そんな靄のかかったような奇妙な気持ちだけが、琴子の心に渦巻く。


「明日、ですよね。お見送りに行ってもいいですか?」

「え? 別に構わないけど」

「ありがとうございます。空港までは行けないので、皇家の前でのご挨拶になりますが」

「わかった。嬉しいよ」


 一暉から嬉しいとの言葉をもらえて、琴子の頬は勝手に緩んでしまった。

 これが、本当に最後。気を遣わせるのも、これで最後だ。

 餞別なんて物はいらないだろう。ようやく縁を切れる女になにかを貰ったところで、きっと困るだけだ。


 琴子は家に帰ると、ようやく息を吐き出せた。

 それを見ていた祖父の大助が、琴子に語りかけてくる。どうしたことか、珍しく、しんみりと。


「ええのか、琴子」


 たったそれだけの問い掛けなのに、胸の軋む音が聞こえそうなほどうるさく感じた。


「……なにが?」

「フランスに追いかけてもええんじゃないかと、ワシは思うとる」

「……っふ」


 大助の言葉に、軽く吹き出す。なにを言い出すのか、この祖父は。相変わらずの大馬鹿者だ。


「おじいちゃん、何度も言ったでしょ。私と一暉さんは、偽りの婚約者だったんだってば。おじいちゃんは私を玉の輿に乗せられなくて残念だっただろうけど。もうこれ以上、私の人生を狂わせるような真似するのは、やめてよね!」


 語勢強く言うと、大助はしょんぼりと肩を落としてしまった。少し言い過ぎたかとも思ったが、今は祖父に気を遣ってやる余裕などなく。

 心の中はただ一つ。一暉が明日いなくなる……ということで埋め尽くされていた。



 翌朝、琴子は皇家にやってきた。

 すでにすべての準備は整っているようで、どうやらもう車に乗り込むだけのようだ。

 一暉は琴子の姿を見つけて、いつもの笑みを向けてくれた。


 いよいよだ。


 そう思うと、笑顔で送り出そうと思っていたのに、顔がどうしても歪んでしまう。


「琴子」

「一暉さん」


 二人の間に、一陣の風が吹き抜けた。

 まだ二分咲きの桜の花びらが、ころころと地面を追いかけっこするように走り回る。


 なにかを伝えたいのに、ちっとも言葉にはならず。

 涙を我慢するのに精一杯で、下唇をギュッと噛む。

 彼は彼で、琴子の言葉をずっと待っているだけで。

 二人はずっと無言のまま、互いの瞳だけを見つめていた。


「……一暉様、時間です」


 やがて告げられる、運転手の冷酷な響き。

 それに「わかった」と答える一暉は、いつにも増して大人びていて。


 この人に釣り合う女性になりたい、と、この時初めて思った。


「じゃあ、琴子。もう、時間だから」

「……はい」


 車に乗り込む一暉。もう、すぐに出発してしまう。


 なにか、言わなきゃ。


 そんな、己の鼓動に責め立てられるような錯覚を覚えた琴子は。車の窓を開けた一暉に向かって、たった一言だけを放った。


「一暉さん、ごきげんよう……っ」


 サアアァァァッ、と春の風が目の前を過ぎてゆく。

 ごきげんよう……これはなんて素敵な言葉なのだろうか。

 出会いの挨拶にも、別れの挨拶にも使える、『元気でお過ごしください』という意味の言葉。

 いつのまにか身についていたこの言葉が、最後の時にするりと出てきた。

 一暉は琴子の言葉を聞いてわずかに頷き、「さようなら、琴子」と返してくれる。


 それは、残酷な響きの挨拶だった。


 さようなら……それは、別れの意味しか持たない言葉。

 当然の返しだというのに、突き放されたような感じがして。

 それでも最後は、なんとか笑顔を作って見送る。


 ブロロロロッ、とやたら縦に長いいつもの車が音を立てて走り出し、やがて琴子の視界から消えた。


 あっけないものだな……とその姿を追うよう遠くを見つめる。

 これは、この一暉に対する気持ちは、恋……だったのだろうか。

 琴子は一暉のことを、心から好きになってしまっていたのだろうか。

 自分の気持ちなのによくわからない。琴子は溺れてもがくようにして答えを探し求める。


 けれど、簡単に答えが出ようはずもなく。

 琴子は舞って落ちた一枚の桜の花びらを、そっと摘んで手に取った。


 気持ちはわからずとも、やるべきことは決まっている。

 なんのために桜野高校へと入ったというのか。


 日の光で温められた優しい空気が、琴子の周りをゆっくりと囲ってくれる。


 フランス語の授業を組み込まれた高校、それが桜野高校。


 いつか……

 そう、いつか。


 そんな思いを胸に、琴子は今、歩き始める。

 優しい春の風と、桜の花びらとともに。

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