05.中学を卒業したら
中学校も元々通うはずだったところに戻ってもいいし、このまま続けてもいいと言ってくれた。その場合は今まで通り、送り迎えは全部皇家がやってくれるし、学費も出してくれる。
琴子は少し迷ったが、卒業まではこのまま同じ中学に通うことに決めた。慣れない環境でここまで頑張ってきたのだ。多くはないが、仲のいい友人だってできた。こんな時期に転校するのは嫌だ。
そんなわけで、琴子は今日も普通に学校に通っていた。一暉はまだ、忌引で欠席中である。
「おはよう、琴子さん」
「ごきげんよう、
藤川新は一暉の小学校からの同級生であり、今では琴子にとっても友人の一人だ。三年になり、今回初めて同じクラスになった。残念ながら、一暉とはまたクラスがわかれてしまっていたが。
「一暉くんの様子はどう?」
「うーん、どうだろう……あれから会ってないから」
「喪が明けたらすぐにフランスに行くって?」
「え? フランス?」
教科書を鞄から出そうとした琴子の手は、そのまま止まった。
フランス。
確かに一暉もフランス語を習っていたようだったが。
「ほら、フランスにいる叔父さんのところに行きたいって、ずっと前から言ってたでしょ」
当然のように話しかけてくる新。
聞いていない。そんな話は、これっぽっちも。
「な、なんのために……」
「なんのためにって……音楽を学ぶために決まってるじゃない」
音楽。それさえも初耳だった。
彼がピアノを習っていることは知っていた。琴子が皇家で勉強中している時には、いつも彼のピアノが聴こえてきたから。
でもまさか、海外に行くほど本気だったなんて。
どうして教えてくれなかったの……一暉さん……
そんな言葉が心に浮かんだ琴子は、己の考えを嘲笑うように息をハッと吐いた。
言う必要もないではないか。なぜなら琴子と一暉は、ただの偽りの婚約者だったのだから。
だけど。
教えてほしかった。
彼の考えていることを。
嘘の婚約者だったとしても。
一暉のやりたいと思っていることを、自分の耳で聞きたかった。
仲のいい友達だと思っていたのに。
それさえも、違ったのだ。
一暉にとっては琴子など、偶然指を差した女の子に過ぎなかった。
「だ、大丈夫? 琴子さん」
「なにが? 大丈夫だよ」
その貼り付けた笑顔は、新に奇妙な顔をさせるには十分だったのだろう。胸からしくしくとこみ上げる痛みが、瞳から溢れ出て止まらず。
それでも琴子は心配する新に「大丈夫大丈夫」と言い続けた。
琴子が直接一暉の進路を聞いたのは、それから一ヶ月以上も経ってからのことだ。
幸聖の四十九日が済んで、少し落ち着いた頃。学校が終わり、一緒に帰る車の中で。
「一暉さんは、どこの高校に行くんですか?」
そう自然に聞くことができた。今の学校はエスカレーター式だ。外部の高校に行く者もいるが、それは稀だろう。
だから当然、一暉もこのまま高校に進むのだと思っていた。新に話を聞くまでは。
「俺はフランスの高校に行くつもりなんだ。中学を卒業したらすぐに、叔父さんのいるフランスに行く」
「そうですか。頑張ってくださいね」
事前に情報を得ていたため、冷静にそう答えられた。
フランスに行ってしまえば、偶然出会うこともそうないだろう。今生の別れというには大袈裟だが、それに近いものを琴子は感じてしまった。
「琴子はどうするんだ?」
「私は桜野高校を受験します」
「このまま今の高校を続けてもいいんだよ。お金のことは心配しなくてもいいし、今まで通り送り迎えもつける」
「いえ、中学卒業までお世話になるのも心苦しくて。高校は身の丈にあったところに通いたいと思っています」
「……そっか。今まで俺のせいで苦労を掛けたね。ありがとう」
一暉の優しい謝意にそっと首を振る。
大変ではあった。けど、楽しかった。琴子は、幸聖も一暉も好きだったから。琴子が努力すると、二人が褒めてくれたから。ありがとうと言ってくれたから。
二人に出会わなければ、きっと実りの少ない中学生活を送っていただろう。これだけ充実した日々を過ごせたのは、間違いなく幸聖と一暉のお陰だ。
「来年の春までは、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
琴子が頭を丁寧に下げると、一暉は相変わらず憂いを含んだ笑顔を向けてくれる。何度この笑顔を見ただろう。
あと一年もしないうちに卒業なのだ。それを考えると胸が痛んだ。もうこの笑顔を見られないのかと思うだけで、心が悲鳴を上げているかのようだ。
ただの友人とすら思われていないかもしれないのに、そんな相手のことを考えて胸を痛めるのはおかしなことなのかもしれない。けど、少なくとも琴子の方は仲がいいと思っていたのだ。一方的な気持ちが余計に琴子を苦しませた。
「じゃあ、また明日」
そう言って一暉は皇家の前で車を降りる。琴子はそのまま車に乗って家まで送り届けられるのだ。
幸聖が亡くなってから、琴子は皇家で勉強をする必要はなくなり、そして一暉は琴子を送る必要がなくなった。
皇家で一緒に車を降りると言えば、一暉はまた琴子を家まで送ってくれるだろうか。いや、恐らくは無理だろう。彼は帰ってすぐに、ピアノの練習を始めるのだから。
送ってくれたのは、ピアノの練習が終わる時間と、琴子の勉強が終わる時間が一致するあの時だけだった。今わがままを言って、一暉のやりたいことを妨げるわけにはいかない。
琴子は凛と背筋を伸ばし、真っ直ぐ前を見つめ。
違反なくきっちりと運転される景色を、噛みしめるように眺め見る。
そうして琴子は車を降りるまで、決して涙を見せることはしなかった。
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