04.三度目の春は

「琴子ちゃん、部活をしないつもりなら、毎日うちに寄っていきなさい」


 一暉いつきの祖父、幸聖がそう言ったのをきっかけに、琴子はほぼ毎日、皇家に出入りするようになった。

 幸聖はいる時もいない時もあったが、必ず『琴子の家庭教師』が用意されていた。

 今日はお茶、次はお花、マナーや五教科に加えてなぜかフランス語まで。料理や裁縫まで習わされ、着物の着付けの先生が来ることもあった。

 日本舞踊もやりなさいと言われて泣いてお断りをしたら、社交ダンスをさせられることになった。

 皇の嫁になるには、生半可な気持ちではダメだったらしい。玉の輿に乗るには、きっとものすごい努力が必要なのだろう。

 特に経済に関しては、幸聖直々に叩き込まれた。このおじいさんは真剣に琴子を一暉の嫁にさせる気のようだ。


「琴子ちゃんはなんにでも一生懸命で、嬉しいよ」


 一通りの勉強が終わると、幸聖はいつもそう言って頭を撫でてくれる。

 基本、とてもいい人なのだ。教養のない琴子に、これだけ心血を注いでくれているのだから。もちろん、皇家のため……というのが前提にあるからなのだが。

 そんな生活が、一年続き、二年続き、そして三年目を迎えた。


「琴子、終わった? 家まで送るよ」


 今日の皇家での勉強を終えると、一暉がいつもそう声を掛けてくれる。

 天気のいい日は散歩がてら一緒に歩いてくれるのだ。幸聖の手前、どうしても仲のいいフリをしなくてはならない。実際、琴子と一暉は仲良しの部類に入るだろう。友人としてならば、であったが。

 こんな生活を二年も送っていたら、『琴子』と呼び捨てにされるのにも慣れたし、一暉の婚約者を演じることにも慣れてしまった。

 あれだけ恥ずかしかった『ごきげんよう』という言葉も、今では平気で口にしているから驚きだ。

 ただひとつ、幸聖を騙していることだけが気掛かりである。


「一暉さん」

「ん?」


 一暉と出会ってから一緒に見る、三度目の桜。琴子と一暉は、中学三年生になった。

 桜の花が咲くのが遅いこの地方では、一緒に桜を見るのはこれが最後となるだろう。


「幸聖さんの顔色、良くありませんでしたね……」

「うん……もう、長くないと思う」


 幸聖は、病院でのつらい治療を断ってしまっていた。治る見込みのない病気なら、きつい治療なんかは受けたくないと言って。やるべきことがあるからと、家で過ごすことを選んだ。

 そのやりたいことというのが、琴子のための勉強であった。折角いろんなことを教わっても、皇家の役に立てられないとわかっているため、罪悪感ばかりが募る。


 そう……幸聖が死ねば、すべてが終わる。

 この勉強にまみれた生活と、一暉の婚約者という立場が。


 あの日の一暉の、優しい優しい願いごと……

 それは、最期の時まで幸聖を騙すこと、だった。


 そのために琴子に大変な思いをさせることを、一暉はいつも申し訳ないと思っているようだった。

 けど、琴子は孫思いな幸聖が好きで、勉強させられるのはちっとも苦痛ではなかった。いや、ちっともというと語弊があるのだが……彼の必死な姿を見ていると、琴子もなにかしなければという気にさせられる。


 そんな幸聖がもうすぐ、いなくなる。


 これでいいのだろうか。

 彼を、騙したままで。

 いくら一暉のお願いだからといって。

 嘘を突き通すことが、本当に幸聖のためなのだろうか。


「最期の時まで、内緒……なんですよね……?」


 答えをわかっていながら、琴子は呟くように聞いかけた。


「うん……頼むよ。今さら、本当のことなんて言えない」


 一暉の声は沈んでいて、琴子の心は不安定な船のように揺さぶられる。

 口に出すべきではなかった。彼の優しい嘘を、後悔させるような言葉など。


「だ、大丈夫です! 私、ちゃんと幸聖さんの最期の時まで一暉さんの婚約者を演じ続けますから!」


 一暉の不安を取り除こうと伝えると、彼はほんの少し……ほんの少しだけ、目を潤ませながら頷いていた。

 なんに対しての涙なのか……一暉の胸中など、覗き見ることはできない琴子だったが。

 針で突かれるような痛みが、伝わってくるような気がした。



 そしてそんな会話をした翌日。

 皆に看取られながら、幸聖は眠るように逝った。


 彼が死ぬ間際に握手を求めたのは琴子で。

 言葉は無くとも言いたいことが伝わってきた琴子は、『わかっています』と最後まで嘘をつき通した。


 昨日はあれほどまでに咲き誇っていた桜が。

 今日は悲しい雨によって、ほとんどが散り落ち、絨毯のように敷き詰められている。


 その桜の絨毯の上を、ゆっくりゆっくりと。


 琴子は大粒の涙を流しながら、一人で家路につくのだった。

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