第65話 ほんね


 ごとん、と床の上にグラスが落ちた。

 運良くグラスは割れておらず、ぐらぐらと床の上で音を立てて転がっている。

 そんなグラスを拾うわけでもなく、お母さんは瞳孔をゆらゆらと揺らして…酷く落ち着かない様子で私を見ていた。


「……それ、ほんとなの?」


 声が震えている。

 いつもの元気なお母さんとは違う、困惑と動揺した姿に私は深刻そうに頷いた。


「うん、その女の子の名前はアレシア…アレシア・デ・ガルツァーロって言うんだけど」

「ガルツァーロ…やっぱり、彼の家名ね間違いないわ」

「そうなんだ…ホントに、お父さんの娘…私の妹なんだ」


 イタリアで育った私に少し似た少女。

 突如現れた腹違いの妹に困惑したけれど、お母さんが告げた事実に静かに納得する。

 それで、この先どうしたらいいんだろ…。

 またアレシアは私の前に現れそうな雰囲気がある…でも、その時に何を話したらいいのかまだ分からない。

 お父さんのことを知りたい気持ちはある…でも、知ったところで。


 重い空気が私達の間に纏わりつく…。

 ずんと身体が重くなって、何も言葉が出てこない…はずまない。

 そんな重い空気の中、お母さんが私を指差して「そういえば…」と口を開いた。


「ねぇ結稀、横の麗奈ちゃん…距離すっごく近いわね、まるで蝉みたい」

「へ?あー…麗奈はその」


 べったり…と蝉みたいに引っ付いているのは麗奈。

 私の腕に引っ付いたまま、麗奈は頬を膨らませて不服そうな表情で口を開く。


「またあのような不届者が出ないか警戒してるんです」

「け、警戒って…ここはもう私の家だし、心配する必要はないと思うけど?」

「警戒を解くつもりはありません…!だっていつあの女が出てくるか分からないのです!いついかなる時も結稀さんから離れるつもりはありませんから!!」


 確かな決意を秘めた表情で言われて、私はうーん…とうなる。

 家に帰る道中からずっと麗奈はこの調子だ。

 それくらいアレシアに唇を奪われた事に怒っていて、麗奈は常時警戒体制に入っていた。

 それが蝉みたいにべったりくっ付く理由。

 はたから見れば仲睦まじいカップルにも思えなくもないけど、その麗奈が常に不機嫌な顔で周囲を睨んでる姿はまるで番犬のようだった。

 そんな感じだからか、周囲の視線は奇異な物を見るようで…ちょっと居心地が悪かった。


「…私、すごく嫌なんです」

「へ?」

「せっかく想いが通じたのに…それなのに大切な人の唇を奪われて、相手に逃げられたんです…」

「私にとって、結稀さんは世界で一番大切な人です。だからこそ誰にも触られたくないし、誰にも喋ってほしくない…初めての友達で、初めて心を許して…初めて恋をした人なんです!だから、次誰かに結稀さんを奪われたら…私は私を許せません」

「麗奈…」


 ぎゅうっと強く抱きしめられると同時に、私の心もきゅう〜っと嬉しさに締め付けられる。

 私の婚約者…超可愛すぎて好きすぎるっ!


「重いわねぇ…」


 麗奈ぁ〜!私も大好き〜!と抱き合ってる最中さいちゅう、横で見てたお母さんが引き気味に私達を眺めていた。

 お、重いってなんだぁ!私の婚約者は世界一可愛くて世界一私のことを思ってくれてるんだぞぉう!?

 重いなんて言わない…で、ほしい………。

 うん…まあ、重いよね。


「と、とにかくさ…この先どうしよっか?またアレシアが現れた時に何したらいいんだろ?」

「そうね、私としても…あの人の娘と聞いて動かない訳にもいかないわ、でも今は行方が知れないのだから…また現れた時に呼んでくれないかしら?」

「よ、呼ぶって…いいの?お母さん」

「ええ、私もその子に会ってみたいし…それに、あの人のこと今どうしてるか聞きたいから…」


 一瞬…表情に陰りが帯びたお母さんの顔。

 すぐにいつもの元気そうな表情に戻ると、ぱんぱんっと手を叩いて「さて!」と話を別の方向へと逸らす。


「二人とも!そろそろお風呂入りなさい、もう夜も遅いし早く寝ないと肌が荒れちゃうわよ?」

「へ?あ…もうこんな時間だったんだ」


 お母さんの声に促されて時計を見ると、既に時計の針は11時に入り掛けていた。

 それに、今までアレシアの事ばかり考えてたせいか、ないがしろにしていた色んな事がどっと溢れてくる…!

 ずっと暑い場所で歩いてたからか汗でぐしょぐしょだし、浴衣は返し忘れてるし!!

 あと話に夢中になりすぎて屋台で買った食べ物冷めてるし!!


「あ、あーーっ!そ、そうだった!!とりあえずさっさとお風呂入ろ麗奈っ!」

「わかりました!お背中洗うの手伝いますね♡」

「なんだかイヤな予感するけどお願い!」

「ふふっ、騒がしいわねぇ…」


 すたこらさっさー!と先ほどの重い空気なんてなんのその。

 私と麗奈はお母さんを置いて浴室へと急いで行く。

 そんな最中、お母さんはクスクスと楽しそうに笑って私達を眺めていた…。


「さて、そろそろ寝ないと明日も忙しいんじゃないのかしら?」

「…っ!」

「わざわざ隠れて盗み聞きしなくてもいいのに……ねえ堅次さん、姿を現してくれません?」

「……も、申し訳ない由沙さん、気になってて仕方なくて…盗み聞きしてました」

「もう、素直に聞きたいって言ってくれたら話すのに……それで、やっぱり気になる感じ?」

「ああ…気になる、由沙さんを捨てた男の事が気にならないなんてまず無い。だからその…」

「堅次さんからすれば、あまり面白くない話だと思うけど…いいの?」

「…………ああ」



「私さあ…本当のお父さんのこと全く知らないんだ」


 ちゃぽんと、蛇口から垂れた一滴の雫が湯船に波紋をもたらす。

 シャワーを終えて、肩まで湯船に浸かった私と麗奈は向かい合いながら話をしていた。

 その内容は、もちろん私のお父さんのことだ。


「生まれる前にいなくなったんですよね?」

「うん、私の家族はお母さんだけで…物心付いた頃にはなんとなく察してた」


 周囲の家族にはお父さんがいるのに、私だけいないのは…何か事情があったんだって冷静に思ってた。

 それに、その事を口に出したら…お母さんに迷惑をかけちゃう事もね。


「私の家、元々すっごく貧乏だったから…お母さんの負担を掛けないように頑張ってた」

「お父さんの事をもっと深く知りたかったけど、でも…そうしたらお母さんが悲しそうな顔をするんだろうなって思うと、聞くに聞けなかったの」


 だから私はお父さんの名前を知らない。

 お父さんがどこの国の人で、イタリア人だなんて今日まで知らなかった。


「私、イタリア人と日本のハーフだったんだねぇ。イタリア人はポジティブで陽気らしいし、そういうところが似たのかな?」


 私の口癖が「好き」っていうのもそこから来るのかもしれない。

 あはは、それなら今までの私の行動全てに納得出来ちゃうなぁ!血筋ってすごーい!


「結稀さんって…ホント優しい人ですよね」

「へっ?」


 むう、と頬を膨らませた麗奈が私の胸に優しく触れて顔を近付ける…。

 濡れた亜麻色の髪が私の肩にぴっとりとくっ付くと、頬を赤く染めた麗奈は不満気に口を開いた。


「今更父親の話が出て困惑してるのは分かります、それでいて今まで父親の事を避けていて罪悪感に駆られてるのも理解できます」

「結稀さんは元々、誰かの為に動く人なのは知ってました。強引そうに見えても本当は誰よりも優しい事を私は気付いています」

「でも、自分の気持ちをはぐらかすのはやめてください、他人ではなく自分を見てください!」

「優しさは美徳です、そこは見習わなければならないものです。結稀さん、本当のこと言ってください…私はあなたの許嫁なのですから、どんな感情も優しく抱きしめます」


 だから、心に押し込んでる本当の気持ちを私に言ってください…。

 そう言って、麗奈の優しい瞳の奥にいる私の姿がゆらゆらと揺れていた。

 麗奈が言っている事は…何度か聞いたことのあるような台詞だ。

 いつの日か、柳生さんに見透かされた私の在り方。その時にもっと自分を優先してもいいって言われたっけ。

 でも、まさか柳生さんに言われた事を、麗奈にも言われるなんて…私そんなに分かりやすいかな。


「ほ、本当のことって…別に私は」

「結稀さん、私は好きな人の色んな事を知りたいんです」

「え?」

「私達はまだ、知り合って半年も経っていません…それでも、深く愛し合ってるのは事実です」

「でも私は、結稀さんの気持ちを完全には理解出来ない……先程の告白の時、結稀さんがあれだけ悩んでいたなんて知りもしなかった!」

「だから私、もっと結稀さんを知りたい!結稀さんから色んな事を聞いて、更に相応しい妻としてあなたの隣にいたい!」

「溜め込んだもの、ここで全部吐き出してください!私は結稀さんの妻になる者です、ちょっとの愚痴くらいで私はあなたを嫌いになんかなりません」


 ああ、麗奈はすごい。

 私、自分の気持ちを誤魔化すために笑って話してたのに、全部気付いてたんだ。

 そうだよ、私…今更お父さんの話が出てきて怒ってるんだ。

 なんで今更なんだって、なんでお母さんがいたのに…逃げてアレシアが出来てるんだろって思ってた。

 私、ほんとは子供の頃から…お父さんがいないのが辛くて…他の家族が幸せそうなのが妬ましかったんだ。

 なんで私だけいないの?なんでウチは貧乏なの?なんでお母さんは私を置いて仕事に行くの?って…。


「…ほんとはさ私、貧乏な家庭がイヤでイヤで仕方なかったんだ」

「でも、そんなこと言ったら負担になるから言えなかった…常に優しくしないといけないって思わないとって思ってた」


 ちゃぷちゃぷと水が揺れる。

 お湯が鏡のように私を映していて、それは罪を告白する罪人のような気分だった。

 でも、今は麗奈が側にいる…それだけで心があったかくて、今まで溜め込んでいた暗い気持ちをスラスラと吐き出していく。


「私、小さい頃からこんな髪の色だから…よく人に誤解されてた」

「育ちの悪い子なんだって、関わっちゃダメな子だって…親戚にも嫌われてたから自然と良い顔をしてないとダメって知った」

「そうしないと私、生きていけなかったから…良い顔をすればほどこしてくれるから」

「みんなは私が優しいって評価してくれるけど、ホントは違うんだよ?だってホラ…私結構自分勝手なんだ」

「………好きって口癖も、そう言っていれば良い気分になってくれるから使ってただけ」

 

 ボロボロと…メッキが剥がれてく。

 自分の醜い部分が好きな人の前で露わになってゆく。

 喉の奥がいたい、心臓がいたい…でも、吐きださずにさいられない。


「私さ、お父さんのこときらい…会ったこともないけど、不幸の原因は全部お父さんなんだって思ってて…だからきらい」

「でも、今日初めてお父さんのことを知って…知らなきゃって思った」

「どうして私達を置いていったのか知りたい…だから麗奈、イヤだと思うけどアレシアと会ってもいいかな?」


 だからお願い…協力してほしい。

 涙が出そうな目で、真っ直ぐ麗奈を見つめる。

 麗奈の瞳は私を映したまま、少し口をへの字に曲げてから…すぐに仕方ないなぁと緩やかに口元が緩んだ。


「ええ…嫌ですけど協力します」

「ありがと…麗奈」

「ふふっ♪これでまた一つ、新しい結稀さんを知れました!」

「……ほんとはここまで言うつもりなかったんだよ?でも、麗奈のこと本当に本当に好きだから、気を許しちゃったのかな?」


 このまで心の内を曝け出すなんて、生まれて初めてしたかもしれない。

 きっと麗奈に会わなければ、私がこんな事を言う機会なんてなかっただろう…。

 麗奈に会えてよかった…好きになったのが麗奈で良かった!


「麗奈…」

「はい」

「好き……好きです」

「…!私も大好きです♡」




本当は書くつもりがなかった結稀の本音。

なんか本筋からブレるのでは?と思っていましたが、実際はそんなところはなかったかも。

突然の本音で意味わかんないと思いますが、二人の距離がより縮まったと思ってくれればと思います。それでは。

 


 

 

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