良秀はそれから五、六か月の間、まるでおやしきへも伺わないで、屛風の絵にばかりかかっておりました。あれほどの子煩悩がいざ絵を描くという段になりますと、娘の顔を見る気もなくなると申すのでございますから、不思議なものではございませんか。先刻申し上げました弟子の話では、なんでもあの男は仕事にとりかかりますと、まるで狐でもいたようになるらしゅうございます。いや実際当時の風評に、良秀が画道で名を成したのは、福徳の大神に祈誓をかけたからで、その証拠にはあの男が絵を描いているところを、そっと物陰からのぞいて見ると、必ず陰々として霊狐の姿が、一匹ならず前後左右に、群っているのが見えるなどと申す者もございました。そのくらいでございますから、いざ画筆を取るとなると、その絵を描き上げるというよりほかは、何もかも忘れてしまうのでございましょう。昼も夜も一間に閉じこもったきりで、めったに日の目も見たことはございません。──ことに地獄変の屛風を描いた時には、こういう夢中になり方が、はなはだしかったようでございます。

 と申しますのは何もあの男が、昼もしとみをおろした部屋の中で、ゆいとうだいの火の下に、秘密の絵の具を合せたり、あるいは弟子たちを、すいかんやらかりぎぬやら、さまざまに着飾らせて、その姿を一人ずつていねいに写したり、──そういうことではございません。それくらいの変ったことなら、別にあの地獄変の屛風を描かなくとも、仕事にかかっている時とさえ申しますと、いつでもやりかねない男なのでございます。いや、現に竜蓋寺の五趣生死の図を描きました時などは、あたりまえの人間なら、わざと眼をそらせて行くあの往来のがいの前へ、悠々と腰をおろして、半ば腐れかかった顔や手足を、髪の毛一すじもたがえずに、写して参ったことがございました。では、そのはなはだしい夢中になり方とは、いったいどういうことを申すのか、さすがにおわかりにならない方もいらっしゃいましょう。それはただいま詳しいことは申し上げている暇もございませんが、主な話をお耳に入れますと、だいたいまず、かような次第なのでございます。

 良秀の弟子の一人が(これもやはり、前に申した男でございますが)ある日絵の具をといておりますと、急に師匠が参りまして、

おれは少し午睡ひるねをしようと思う。が、どうもこのごろは夢見が悪い」とこう申すのでございます。別にこれは珍しいことでもなんでもございませんから、弟子は手を休めずに、ただ、

「さようでございますか」と一通りのあいさつをいたしました。ところが、良秀は、いつになく寂しそうな顔をして、

「ついては、己が午睡をしている間じゅう、まくらもとにすわっていてもらいたいのだが」と、遠慮がましく頼むではございませんか。弟子はいつになく、師匠が夢なぞを気にするのは、不思議だと思いましたが、それも別に造作のないことでございますから、

「よろしゅうございます」と申しますと、師匠はまだ心配そうに、

「ではすぐに奥へ来てくれ。もっともあとでほかの弟子が来ても、己の睡っている所へは入れないように」と、ためらいながら言いつけました。奥と申しますのは、あの男が画を描きます部屋で、その日も夜のように戸を立て切った中に、ぼんやりと灯をともしながら、まだやきふでで図取りだけしかできていない屛風が、ぐるりと立てまわしてあったそうでございます。さてここへ参りますと、良秀はひじをまくらにして、まるで疲れ切った人間のように、すやすや、ってしまいましたが、ものの半時とたちませんうちに、まくらもとにおります弟子の耳には、なんともかとも申しようのない、気味の悪い声がはいり始めました。

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