その癖と申しますのは、りんしよくで、けんどんで、恥知らずで、怠けもので、ごうよくで──いや、その中でも取り分けはなはだしいのは、おうへいで高慢で、いつも本朝第一の絵師と申すことを、鼻の先へぶらさげていることでございましょう。それも画道の上ばかりならまだしもでございますが、あの男の負け惜しみになりますと、世間のならわしとかしきたりとか申すようなものまで、すべてばかにいたさずにはおかないのでございます。これは永年良秀の弟子になっていた男の話でございますが、ある日さる方のおやしきで名高いがきりよういて、恐ろしいご託宣があった時も、あの男はそら耳を走らせながら、有り合せた筆と墨とで、その巫女のものすごい顔を、ていねいに写しておったとか申しました。おおかた御霊のおたたりも、あの男の眼から見ましたなら、子供だましくらいにしか思われないのでございましょう。

 さような男でございますから、きつしようてんを描く時は、卑しい傀儡くぐつの顔を写しましたり、不動明王を描く時は、無頼の放免の姿をかたどりましたり、いろいろのもったいないまねをいたしましたが、それでも当人をなじりますと「良秀の描いた神仏が、その良秀にみようばつを当てられるとは、異なことを聞くものじゃ」とそらうそぶいているではございませんか。これにはさすがの弟子たちもあきれ返って、中には未来の恐ろしさに、そうそう暇をとったものも、少くなかったように見うけました。──まず一口に申しましたなら、まんごうちようじようとでも名づけましょうか。とにかく当時天が下で、自分ほどの偉い人間はないと思っていた男でございます。

 したがって良秀がどのくらい画道でも、高く止っておりましたかは、申し上げるまでもございますまい。もっともその絵でさえ、あの男のは筆使いでも彩色でも、まるでほかの絵師とは違っておりましたから、仲の悪い絵師仲間では、山師だなどと申す評判も、だいぶあったようでございます。その連中の申しますには、かわなり(平安初期の画家・百済河成)とかかなおか(平安初期の画家・せの金岡)とか、その外昔の名匠の筆になった物と申しますと、やれ板戸の梅の花が、月の夜ごとににおったの、やれびようおおみやびとが、笛を吹く音さえ聞えたのと、優美なうわさが立っているものでございますが、良秀の絵になりますと、いつでも必ず気味の悪い、妙な評判だけしか伝わりません。たとえばあの男がりゆうがい(奈良県明日香村にある通称・岡寺)の門へ描きました、しゆしようの絵にいたしましても、世ふけて門の下を通りますと、天人のため息をつく音やすすり泣きをする声が、聞えたと申すことでございます。いや、中には死人の腐ってゆく臭気を、かいだと申すものさえございました。それから大殿様のお言いつけで描いた、女房たちのにせなども、その絵に写されただけの人間は、三年とたたないうちに、皆魂の抜けたような病気になって、死んだと申すではございませんか。悪く言うものに申させますと、それが良秀の絵の邪道に落ちている、何よりの証拠だそうでございます。

 が、なにぶん前にも申し上げました通り、横紙破りな男でございますから、それがかえって良秀は大自慢で、いつぞや大殿様がご冗談に、「そのほうはとかく醜いものが好きとみえる」とおっしゃった時も、あの年に似ず赤い唇でにやりと気味悪く笑いながら、「さようでござりまする。かいなでの絵師には総じて醜いものの美しさなどと申すことは、わかろうはずがございませぬ」と、おうへいにお答え申し上げました。いかに本朝第一の絵師にもいたせ、よくも大殿様の御前へ出て、そのような高言が吐けたものでございます。先刻引合いに出しました弟子が、内々師匠に「えい寿じゆ」と言うあだをつけて、増長慢をそしっておりましたが、それも無理はございません。ご承知でもございましょうが、「智羅永寿」と申しますのは、昔震旦から渡って参りましたてんの名でございます。

 しかしこの良秀にさえ──このなんとも言いようのない、おうどうものの良秀にさえ、たった一つ人間らしい、情愛のあるところがございました。

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