ATLANTIQUES

エベの物語⑧

1925年4月9日


 死せる魂は時の縛めを外れ、地の儚い命には思いもつかぬ永きに渡り彷徨うと言います。

 あの煉瓦で造られた百里ひゃくりもの螺旋を描いて下ってゆく階段は、今もなお陰府の最も深い底へと伸びているのでございましょう。


 暗い陰府のとば口のどこまでも下ってゆく階段を下りてゆく途上には、草も、鼠も、鳥も、虫も、この世で目にするいかなる小さな命もその姿を現すことはありません。

 ひとたび賜った肉を地の神に献げ、ひとり天の神の造れる魂のままに陰府を下る者は、この世でまとった己の姿を思い出すことだにないのでございます。


 煉瓦の陰府路よみじは、朽ちず、苔生こけむさず、こぼれず、陰府の底まで続いてゆきます。

 そのとば口にあってはひとまわりごとに百里を廻る螺旋も、ひとつ下るごとに小さくなってゆき、擂鉢状の陰府の底には、姿こそ見えね、死せる魂が己の濯がれる時を待って控えています。

 この見えざる魂たちは、この陰府路の底で、みな赫赫とした光に包まれているのでございました。


 地の底から掘り出された紅玉でございましょう、爛爛と輝く赤黒い宝玉が、空の中ほどに何の支えもなく浮かんでいるのでございます。

 人の指先におさまるような代物ではありません。山一つをそのまま持ち上げたような、途轍もなく大きなものであることは、遥か遠くから眺めてさえ知ることができます。

 浮かぶ宝玉は、天から降り注ぐ光を浴びつつ、遥か下の地獄にくろぐろとした影を落としているのです。

 一筋の光が天からなおく下って、この宝玉だけを照らして降り注ぎ、暗い巌のごとき宝玉を燦燦と瞬かせており、その影の中に、地獄の中心たる七十余の大元帥が控える万魔殿パンデモニウム、そして淫夫インプらの住まうあばら家の群れが、すっぽりとおさまっているのでした。


 宝玉は鶏の卵に似た形ですが、その表面は宝石らしく平滑に整えられているようでした。

 すると、この宝玉は今より大きかったものが何者かによって取り出され、その何者かが巨大な指と手で、また指物道具で、原石を切り落とし、形を整えたうえで、こうして宙に飾りつけたということになるのでしょう。

 そうして切り出された宝玉ですら、実際にはどれほどの大きさであるか、見当もつきません。

 それをめぐって、無数の有翼有角ガルゴーヤが飛び交っているのが、絹に砂を撒いたように点々と見受けられました。


 陰府の底は地獄とも、すなわち天の神に造られ、やがて神の許から離れて、神神に敗れ、この世の始まりより更に古い過去から、この世の終わりよりも更に遠い未来に至るまで責め苦を受けつづけることを定められた悪魔サタンたちの石屋いわやとも、その細いきびすを接しているのでございます。

 さりとて悪魔サタン淫夫インプも、この世が始まるよりも更に古い過去に鎖し込められている者共、もとより御使いとして亡びることなき魂を授けられた者。死にかつ甦る魂が巡る陰府を仰ぎ見るとて、近付くことだに叶いますまい。

 宝玉の周りを舞う有翼有角ガルゴーヤは、アルビの古い博士によれば旧人アンテホミネスであり、天の神と地の神の創造の御業により試みられ、しかしオメとして選ばれることなく陰府に留め置かれた、脚の無いアダム、翼持つアダムであるということです。


 陰府の底は、輝く紅玉と万魔殿の間、煉瓦の道が途絶え、錬鉄で編み上げられた滑らかな橋の先。

 まばゆい錬鉄を自在に撓め、柑橘のような球状を成した御堂にございます。

 御堂の中心なる御座には、救い主であるイエスさまがあらせられ、いまいちど地の魂を悉く濯がれて、深き地の神へとお還しするのでございました。


 御座にあらせられたのは、かつては古い預言者のひとりでございました。

 預言者は死者の魂を濯ぎ、怨みを聞き届け、思い残しを書留めて、古い生への執着を拂い落します。

 そして死者の魂の一半を地へと還し、一半を天へと導き、天の神による来世への導きをとりなしておりました。


 パリサイびとが来て、罪びと、奴隷、娼婦、らい病の者は通してはならぬと預言者に吹き込みました。

 古い預言者は善き人であったので、天の神に仕えるパリサイびとを敬い、これに従いました。

 陰府は罪びと、奴隷、娼婦、らい病の者に満ち、地獄へと繋がる陰府路の底があわや崩れ落ちるところでございました。


 そこに救い主であるイエスさまが来て、陰府路の底のへりに腰を下ろしている死者に訊きました。あなたはなぜそうして座っているのか。

 死者は答えました。私はらい病やみでした。パリサイびとと、御座のおかたとが、らい病やみは陰府路を渡ってはいけないと言うのです。


 イエスさまは別の者に訊きました。あなたはなぜそうして座っているのか。

 死者は答えました。私は娼婦でした。パリサイびとと、御座のおかたとが、娼婦は陰府路を渡ってはいけないと言うのです。


 救い主であるイエスさまは善き人であるのみならず、義しき人でございました。

 イエスさまは虎のような声で、御堂の古い預言者に問われました。

 古い預言者よ、あなたはなぜ神に従わず、神に仕える者に従うのか。なぜ地の神と天の神のことばに従わず、地の神と天の神が造れる者の言葉に従うのか。


 イエスさまのことばを聴き、古い預言者は迷いました。罪びと、奴隷、娼婦、らい病やみを通してはいけないというパリサイびとの言葉は、偽りなのだろうか。


 そのとき、地獄の底の深みから、地の神のことばいななきのように響いてきました。

 然り、古い預言者よ、救い主に従い、らい病やみ、娼婦、奴隷、罪びとを、天の神の御許へ遣わすべし。


 天の遥か高みから、天の神のことばいかづちのように響いてきました。

 然り、古い預言者よ、悔い改めて救い主にくだり、陰府路の底の魂をみな我が御許へ遣わすべし。


 天の神は、高みから光の帯を降ろして、陰府の底に蟠っていた罪びと、娼婦、奴隷、らい病やみを包み、地の魄を濯いで、天へと召し上げられました。

 そして、陰府路の底を覆っていた煉瓦を雷で打ち砕き、パリサイびとを地獄へと陥れられたのでございます。


 地の神は、錬鉄を編み上げて、陰府路の底と御堂を結ぶ橋をお架けになられました。

 救い主であるイエスさまはその橋を渡って御堂へ向かい、古い預言者の魂を濯いで、天へと送り届けました。

 そしてイエスさまは御座に腰かけ、死せる魂を濯ぐおつとめを引き継がれたのでございます。


 わたくしもまた陰府路の底へ辿り着くと、錬鉄の橋を渡り、イエスさまの控える御堂へ向かうのでございました。

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