1925年4月7日②
朝、顔を洗い、食事を終えた頃になって、森から笛の音が聞こえてきた。気が変になったと思った。こんな朝早くから幻聴を聴くのではお終いではないのか。ジェズュ!
笛の音はヨーロッパ風だった。それが余計に幻覚の疑いを強くした。
これがもし全く聞き覚えのないアフリカ土人のものだったなら、気付かないうちに有人島に漂着したのだということになり、まだ理解できる(土人が私をどう扱うかという別の問題が生じるとしても)。
しかし……そう、かつてパリの支配がまだ現代ほど過酷でなかった頃、プロヴァンスの自由な歌声と調べが村々に響いていた頃に、祖父と一緒に私が親しんだ節に似た何かが、文明土を遠く離れたアフリカの外洋の森の奥から響いてくるのは、どういうわけか?
笛の音は近付き、甲高い音は明るい、しかしどこか尖った印象を与えてきた。
旋回するような節にまぎれて男たちの野太い歌声も聞こえてきた。かすかに聞き取れる単語。それ以外は野獣の唸りや土人のまくし立てる言葉と変わりがない。少しでもわかる言葉があるのが怖かった。
私は火かき棒を持ち船の前に立った。土人相手に銃を見せて理解できるか知れない。脅威とすぐわかるものを構えておく方がましだ。
泥の色の顔、顔、顔が現れた。
まず若い男たちが現れて、槍を片手に、木の瘤を刳り抜いて作った笛を片手に吹き鳴らしながら、全身でリズムを刻みつつ、白い砂を踏み躙るような足取りで、森と浜との境に一列に広がっていく。
次に子供たちが来て、彼らは熱帯の怪鳥のように歌っている。若者たちに比べるとさながら牛か山羊のような緩慢たる動きで歩き、これもまた列を成して広がっていった。
最後に首長階級に属するらしい男たちと、長老らしい老人たちが来て、鰐の唸りに似た声を響かせる。先程聞こえた歌声は彼らのものだったらしい。先導する歌声に子供たちが合わせるのか。よく磨かれた深い色の木の杖を持っていた。
詞は私の知らないものだった。ヨーロッパでも、アフリカでも、アジアでもない。どこの言葉だろう?
左右に少年と青年が広がる列の中ごろに彼らは並び、木の瘤の笛の演奏が終わった。
森の中から湧き出るように現れた男たちは、みな体中に赤茶色の泥を塗りたくり、目の周りは炭だろうかとくべつ黒い色に染めていた。
どんな悍ましい土人が出てくるかと身構えていた私は、現れた男たちの存外西欧人に似ているのに安堵した心地だった。
赤い肌はただ泥を塗られただけで、ところどころから見える地肌はわれわれ文明人の白皙のそれに近い。
やや癖のあるらしい暗い色の髪も、さながら肉と一体化しているようだが、アフリカ人のように髪それ自体が塊となっているのではない。
濁りのない瞳をもつ白目ははっきりと見開かれており、これはアジア人には無い特徴だった。
だらりと垂れさがった陽物はどれも割礼を施されておらず、新大陸の土人がやるというように先を紐で縛ってまとめている。
熱帯に適応した西欧人の姿がそこにはあった。
男たちの中の一人、とりわけ体格に恵まれ、濃い髭を生やした壮年の男が、堂々たる足取りで歩み出て、
「
と言った。
はっきりとわかる……
「
すると、これが功を奏したらしい。男たちの土色の顔がにっこりとゆるみ、それまでの厳めしげな雰囲気が抜けていった。
このときの私の驚きはいかばかりだったろうか……男が初めて口にしたこの言葉と、彼らと初めて交わした私の言葉だけは、そっくりそのままここに書き移しておく。(以後は表記上の簡単のためにフランス語で記すが、やはり男達は南仏の郷里言葉で話していた)
いくらか問答があった。
どこから来たのか。
人であるか。
預言者を騙るか。
神を信じるか。
友好の用意はあるが如何か。
食糧や水に不安はないか。
武器は捨てるか。
それらの結果、彼らは私を友好的に迎え入れることに決めたらしい。髭の男が近付いてきて、私に手を差し伸べた。
「アブラム」
「ジャン」
握手をし、私は森に続く道へと引き入れられた。
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