第15話 慌ただしい月曜日
オフィスに入ってすぐ、私は柾木さんのデスクの方を見たが、柾木さんはいなかった。少しがっかりしたような、安心したような気持ちだった。
今日からバルセロナのベンチャーの社長さんが来日している。オフィスは普段の月曜以上に慌しかった。柾木さんが昨日羽田に迎えに行ったのは、この社長さんだろう。今日は、彼を迎えるレセプションが九時から大講堂で執り行われる予定だ。全社員は、よほどのことがない限り出席することになっている。土曜日に柾木さんがぷりぷりしながら書いていた挨拶を、うちの社長が読み上げるはずだ。
私は土曜日に設計部署に送った会議の問い合わせの回答を確認するために、メール アプリを開いた。設計部署は普段はデータ センターのあるビルで働いているのだが、今日はレセプションで大講堂に来るため、レセプションの後に続けてうちの部署で会議をしたいと返事が来ていた。それとは別に同じ部署から別のメールが入っていた。火曜日の午後に、ベンチャーの社長さん向けに発表するプレゼンの相談だった。私たちが担当している戦略的プロジェクトは、このベンチャー企業が開発したセキュリティー システムを使った日本で初めてのプロジェクトなので、設計部署のエンジニアの一人がプロジェクトの内容を英語でプレゼンすることになっている。仕様変更が出たので、その修正を反映する打ち合わせをしたいとのことだった。私はレセプションが始まる前に両方のメールに返事を書いた。
大講堂は喧騒に満ちていた。各々席を選んで行くが自然と同じ部署の人たちが集まる。私は朝岡課長と一緒に座った。ステージの上では総務課の平橋課長が司会を務めていた。奥の方では磯谷社長とベンチャーの社長、マテウ オルティス氏が座っていた。そして、二人の後ろに柾木さんが控えていた。
思わずどきりとする。
いつものサラリーマンの典型のようなスタイルの柾木さん。でも、私はもう彼をこれまでとは同じようには見られなかった。ギターを弾いて、よく笑う柾木さんの姿が重なって、眩しいものを見ているような気持ちになった。
しばらくして磯谷社長の挨拶が始まった。システムのことだけでなく、バルセロナの美しい街並みや文化、そして親切な人々を褒める言葉が散りばめられていた。
「ヨイショばかりしたってしょうがない」
そう嘯いていたが、具体的に語られるバルセロナの様子はそれを確かに体験した人の生き生きとした興奮に彩られていた。
磯谷社長に続いてオルティス氏が壇上に立った。オルティス氏は四十代半ばの隆とした背の高い人物だ。女性たちの間に華やかなひそめきが広がった。そしてステージの端には、マイクを持った柾木さんが立つ。平橋課長からの紹介を受けたオルティス氏は、スペイン語で挨拶を始めた。社内には英語のわかる人はそこそこいるはずだが、スペイン語が分かる人はあまりいないはずだ。私も土曜日にたくさん聞いたのでスペイン語だと確信できるがそうでなかったら怪しいくらいだ。そうしてオルティス氏が手にしていた挨拶の原稿を演台に放り出してしまったので、社員はみんな呆気に取られた。しかしオルティス氏はにこにこしながら柾木さんを見た。そんなオルティス氏に会釈して、柾木さんは話し始めた。
「本日はお招きいただきありがとうございます。今日このようにして社員の皆さんに集まっていただき、一堂にお目にかかれる事は大変な喜びです。クラヴェ ア フチューロ代表のマテウ オルティスです。これから皆さんと共に事業を始めるにあたり、英語の挨拶を用意してきたのですが」
柾木さんはここで一瞬言い淀んで、咳払いをした。
「社内にスペイン語に精通した人物がいることが分かりましたので、本日はわたくしにとってより身近な言葉であるスペイン語でお話ししたいと思います」
私の周りではヒソヒソ話が広がった。
「柾木さんってスペイン語できるんだ……」
「今のぶっつけ本番って事だろ。ぺらぺらなんじゃね?」
「ワタシ的には評価爆上がりなんですけど」
最後のコメントは、柾木さんの爪を不潔っぽいと言っていた女子だ。私はムッとしたが、先週まで自分も「可もなく不可もなく派」だったので大きな事は言えない。
オルティス氏ははっきりとした口調で話しながら、折り折りに柾木さんを振り返って訳を待った。柾木さんは、オルティス氏が話をしている間に取ったメモを見ながら、つっかえる事もなくきれいな日本語に訳していた。挨拶を終えたオルティス氏に社員が拍手を送ると、オルティス氏は手を降って応え、舞台端の柾木さんに自身も拍手を送った。柾木さんは恥ずかしそうに微笑んでお辞儀をした。その途端、元アンチ柾木の女子が隣の女子に囁いた。
「笑うと結構カワイイね」
(……柾木さん! あまり素を出してファンを増やさないでください!)
心穏やかでないまま、私は大講堂を後にした。
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