第13話 ノック アウト
注: このエピソードには性的な描写があります。十五歳未満の皆さんはウィンドウまたは画面の隅にある左矢印で前のページに戻りましょう。
私が柾木さんに彼らのギターの音の印象や、曲の間に受けたイメージを夢中になって話している間、柾木さんは少年のようにはにかんだ様子で私を見ていた。その表情がとても愛おしくて、アルベルトさんやルシアさんがしてくれたように抱きしめたくなって仕方がなかった。幸いな事に店長さんがデザートを持ってきてくれたので我に返ったけれど。
「クレマ カタラナとカラヒーリョ ヘレサーノ、お待たせ」
店長さんがテラコッタの平たい陶器に入ったクレマ カタラナと、小さなカップに入ったコーヒーを二つカウンターに置いた。クレマ カタラナはスペイン版クレーム ブリュレらしい。カラヒーリョはリキュールを入れたコーヒーで、ヘレスという所で作られたブランデーを入れているのでヘレサーノ、つまり「ヘレス風の」と付くんだそうだ。
「いいんですか? 半分頂いちゃって?」
「うん、俺もさすがにあんな食ってからじゃ甘いものも入んない」
「あ、嫌味ですか? いいじゃないですか、タパスとか初めてだったんだから……」
私は唇を尖らせて、スプーンを取った。
「嫌味じゃないよ、俺だってうまい飯食ったの久しぶりだからね」
そう笑う柾木さんの髪は、ギター演奏のせいで少し乱れていて、汗で濡れていた。
「じゃ、半分に分けますよ」
髪の毛のせいでくだけた感じに見える柾木さんを上目遣いに見ながら、私はテラコッタの陶器に入ったクレマ カタラナのべっこう飴のようになったカラメルにスプーンを差し込んだ。容器の中心を通るようにスプーンでザクザクと分割線を刻んでいく。
「こっから入っちゃダメですからね」
「入っちゃダメってなんだ、小学生かよ」
くだらないことで笑いながら、二人でクレマ カタラナを分け合う。カラメルは結構硬い。クリームと一緒に食べると、口の中でバリバリ言ってちょっと大変だ。二口目は一緒に食べずに、ガラスのようになったカラメルをつまみ上げてかじった。
「一緒に食べなきゃ美味くないよ。このカラメルのガリガリしたとことクレマのトロっとしたのが一緒になって美味いんだから」
柾木さんが物知り顔で講釈する。
「えー、でも、これ結構丈夫じゃないですか」
「崩して食うんだよ。こうやって」
柾木さんが私の分のクレマを覆っているカラメルをスプーンでつついて割り始めた。その割り方が雑でカラメルがグシャグシャになる。
「きゃー、止めてくださいよ。入っちゃダメって言ったじゃないですか」
私は柾木さんの手首を掴んだ。柾木さんは、私の隙をついてカラメルを崩そうとする。私たちは子供みたいに笑いながら、お皿の上でちょっとした小競り合いを繰り広げた。
(酔ってるなあ、私も柾木さんも)
でも、楽しかった。スツールから転げ落ちそうなくらい楽しかった。
私の指先が柾木さんの右手の爪に触れる。それに気が付いて、私は柾木さんの爪を指差した。
「私、柾木さんの爪、オシャレでしてると思ってたんですよ」
柾木さんは自分の爪を見た。
「オシャレでこんな分厚い爪しないだろ」
「だから、ちょっとセンスが残念な人だなって……」
「おい」
柾木さんが私の頭をはたいた。私はけらけらと笑う。
(あー、柾木さん、気が大きくなってるなあ。あはは)
「そう言えば、さっきステージでアルベルトさん、何言ってたんですか? ギター弾く前に、左手を調べてましたよね」
「ああ、あれはね……」
柾木さんが自分の左手の指先を見て、私に差し出した。
「『ちゃんとギター練習してるか?』って聞いてたんだよ。練習しなくなると、指先がすぐ柔らかくなっちゃうの。指先触って硬いかどうか確かめてたんだ」
私は柾木さんの指先を取った。それから、一本ずつ彼の指先を自分の指先で押して確かめた。酔っ払っているせいか、本当に硬いのかどうか分からない。自分の右手の袖をまくりあげて、柾木さんの左手を掴んでその指先を自分の腕に当てた。腕の外側に当ててから、内側にも当ててみる。そのとき、自分が何をしているのか気が付いてどきっとした。そして、気が付いた途端に思ってしまった。
(この指先に触れられたらどんな感じなんだろう)
私の考えを見透かしたように、柾木さんがそっと私の耳元に唇を寄せた。そして、低い声で囁いた。
「ほかのところも触って欲しい?」
……!
その瞬間、私はがつんとやられてしまった。
完全降伏だ。ボクシングで言ったら鼻先をぱしんと打たれて、頭が真っ白になって両手のガードが下がって、がら空きになった感じだ。
私は柾木さんを見た。柾木さんは、私の顔の間近で余裕の笑みを浮かべていた。
考えるよりも先に身体が動いた。私は、柾木さんの両頬を手のひらで包むと、彼の唇に自分の唇を重ねた。彼の唇が欲しかった。その柔らかさを感じて自分のものにしたかった。
柾木さんも私に応えた。口を大きく開けて、彼の唇で私の唇を包んだ。彼の濡れた唇が私の唇の上を滑っていく。その優しい感触を失いたくなくて、思わず彼の動きを追いかける。
不意に、柾木さんが身体を引く。私は泣きそうな気持ちで彼を見た。柾木さんは目を逸らさずに私を見つめている。そして、そのまま左手をバシンとカウンターの上に叩きつけて叫んだ。
「店長!
柾木さんは私の手を引いて、従業員用のドアを通り抜けた。途中にある食料倉庫の入り口の壁にかかっていた私のコートを取り上げると、私の背後から着せた。それから自分のコートとジャケットを掴んで脇に抱えた。キッチンを通り過ぎるときに、料理をしていた一人が柾木さんに気が付いて「おい! 櫂! 来てたのか!」と声をかけたが、柾木さんは片手を上げただけだった。そのまま逃げるようにして店の裏口から一歩外に出た私たちは、途端に十二月の冷たい空気に包まれた。店内の熱気が嘘のようだった。思わず、雪でも降るのかと空を見上げた。駅から見えた街道沿いのホテルの赤や紫のネオン サインが近くに見えた。
柾木さんは、私の手を引いてそちらの方向に歩き始めたが、立ち止まって振り返った。
「……大丈夫?」
私は黙ってうなずいた。柾木さんは、安心したように私の手を握り直した。が、そのとき私の手は震えていた。
「……寒い?」
私はうなずいたが、本当は寒いのか怖いのかわからなかった。柾木さんは、持っていた自分のジャケットとコートで私を包んだ。
「でも、柾木さんが寒い……」
そう言いかけた私の唇を柾木さんの唇が塞いだ。さっきのキスより、ずっと深い、私の中を探るようなキスだった。柾木さんのコートと彼の香りに包まれて、私は柾木さんのされるがままになっていた。柾木さんの両手が私の背中を伝い、私の腰に降りてきた。そして、その両手が私のお尻を包んだ。その感触に私は思わず声を漏らしてしまった。
柾木さんは、私から唇を離して、満足げに私の顔を覗き込んだ。それから、もう一度私に軽くキスをして、私の首筋に顔を埋めて、私をぎゅっと抱きしめた。
「……あかりちゃん、すげえ可愛い……」
私は心臓の奥から全身に向かってぽうっと暖かくなるような感触が広がっていくのを感じた。「幸せ」という感覚があるとしたら、こんな感じなんだろうと思った。柾木さんに可愛いと思ってもらえるのがとても嬉しかった。私は柾木さんの肩の上に両腕を回し、彼の身体を強く私の胸に引き寄せた。
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