第12話 セビーリャ
私は、呼ばれて行った店長さんの背中を見送った。そして、再び店内を満たした拍手に私は振り返った。ステージでは柾木さんとアルベルトさんが立ち上がってお辞儀をしていた。柾木さんは、一歩後ろに下がるとルシアさんをステージの中央に立たせ、今度は三人でお辞儀をした。何人かの人たちはスペイン語で声援を送っていた。柾木さんはお辞儀をし終わると、ステージを降りようとしたがアルベルトさんが止めた。二人は何か話し合っていたが、柾木さんがステージの中央に戻るとまた拍手が湧いた。柾木さんは、椅子に腰掛けてギターを取り、チューニングを始めた。アルベルトさんもその横でチューニングを始める。柾木さんは手を休ませないままスペイン語で話し始めた。
「Iba a pasar una Nochebuena solitaria hoy. Pero una guapa en mi oficina ¡me invitó a salir de una copa!」
柾木さんが片手でガッツポーズをすると、観客の何人かが拍手をしたり口笛を吹いたりした。
「Creo que fue un regalo de Papá Noel para mí porque he hecho bien este año」
再び何人かが笑う。
「Esta es para ella, Sevilla por Albéniz」
拍手が起きる。柾木さんは今度は日本語で言った。
「この曲をあかりさんに贈ります。アルベニスの『セビーリャ』です」
今度は店内すべての人が拍手をした。幾人かは柾木さんの視線を追って私の方を振り向いた。私は、恥ずかしさでキョロキョロしながら一緒に拍手をした。
柾木さんが演奏を始めると、その曲がすぐに分かった。私がさっき柾木さんに話していた、父の「珠玉のギター名曲集」にあった私の好きな曲だ。
柾木さんは長い指を扇を広げるように動かして弦を掻き鳴らす。それが華やかなアルペジオとなって響く。しかし、それを聞いたアルベルトさんは笑いながら首を振った。柾木さんもそれに気が付いてニヤリとアルベルトさんと目を合わせる。今度は同じ箇所を指をあまり動かさずに弾いた。今度の音は騒々しさが抑えられていて、一つひとつの音に透明感が出ている。でも華やかさは変わらない。どうしてそんな事ができるのだろうと思いながら柾木さんの演奏を眺める。この曲はソロのギターでしか聞いた事はないが、アルベルトさんと柾木さんのデュエットだと音に深みが増して聞こえる。時々、アルベルトさんはギターのボディーを叩いてドラムのようなリズムを加えていた。
私は目を閉じた。二人の奏でる音に身を任せる。リズムのゴンドラに乗っているようだ。そのゴンドラに揺られながら、私は父の CD のジャケットにあった色鮮やかな花が窓辺やベランダからこぼれ落ちるスペインの石畳の通りを思い描いた。所々に聞こえるアラブ調のメロディーは、通りの壁に嵌っていた幾何学模様のタイルを思い出させた。やがて幾層にも重なる音たちは様々な色の花びらとなって空から降り注ぎ、私はそれを見上げた。物哀しいバラードのようなメロディーが流れ、その向こうに南の国の青空が見える。柾木さんがアニタさんと見上げたスペインの空が——。
拍手の音が私を空想から現実に引き戻した。目を開けたとき、視界はうるんでお店の中はぼやけて見えた。不思議に思っていると、近くで良太くんの声が聞こえた。
「使い終わったグラス片付けますね。あと、こちらデザートのメニューです……って、えっ、大丈夫ですか?」
良太くんに目を移したときに、頬に温かいものが伝った。そこで私は初めて自分が泣いていたことに気が付いた。
「あ……、大丈夫です。なんか、ギターの音を聞いてたら気持ちが高ぶっちゃって……」
鼻をすすりながら、かばんからハンカチを出そうとしたら、良太くんがカウンターの上から新しい紙ナフキンを取って渡してくれた。その拍子に、先程店長さんが渡してくれたチラシがカウンターの上から落ちた。良太くんが手を伸ばして、そのチラシを床から拾った。私は鼻をかみながら、良太くんがチラシをカウンターの上に戻すのを見た。
「……このコンサートのお知らせ、俺も渡そうと思ってたんですよ。先輩、ここで演奏するの二年ぶりくらいなんで。先輩自身もですけど、俺もめっちゃ楽しみにしてるんです」
紙ナフキンで、赤くなった鼻を隠したまま私はうなずいた。
「うん、来ようかなって思ってます」
良太くんが笑顔になった。
「そうすか? ぜひお願いします! あの、チャージで千円かかるんですけど、ドリンク一杯無料になるんで。高めのグラス ワイン頼めば実質タダっすよ!」
私は涙目のまま笑った。
「でも、これ……、新年なのに、なんでまだクリスマスなんですか?」
私はチラシの「スペインではまだクリスマスなんですよ」という文言を指差した。
「なんか、スペインのクリスマスは一月六日にするらしいっすよ。その日にどっかから来た三人の偉い人がキリストを見つけたらしいです」
「そうなんだ……」
私はチラシを手に取った。
「あとですね」
良太くんが声をひそめる。私は思わず顔を近付けた。
「先輩、その日が誕生日なんすよ。だから、コンサートの後にみんなでサプライズを予定してて」
私は良太くんを見上げてコクコクとうなずいた。
「絶対来ます。サプライズも何か買うなら……」
そこまで言ったところで、柾木さんたちが戻ってきた。柾木さんが「演奏した後はなんか甘いもん食いたくなるんだよね」と言う言葉に、ルシアさんが「演奏の後だけじゃない。いつもでしょう」と笑っているのが聞こえた。
「良太、お前……近過ぎない?!」
突然柾木さんの鋭い声が響いた。後ろでは、アルベルトさんがニヤニヤしていて、ルシアさんがそんなアルベルトさんをたしなめていた。
「あ、いや、これは、その……」
青くなる良太くんに私は助け舟を出した。
「私を心配してくれてただけなんです」
……つもりだったが、空気は余計微妙になった。そして柾木さんの視線が私の潤んだ目元に留まる。
「どうしたの? 大丈夫? こいつが何かやりましたか?」
柾木さんの声は上ずっていた。
「ううん、そうじゃなくて」
手を降って否定する私に、良太くんは「後は任せました!」と言って逃げて行った。柾木さんは私を見つめたままだ。
「あの……、柾木さんたちの演奏聞いてたら、よくわからないけど涙が出てきちゃって……」
そう言って、青い空のことを思い出したら、また涙が溢れてきた。柾木さんは、言葉をなくしてその場に立ち尽くしていた。涙を拭く私に、ルシアさんが近づいて私を抱きしめた。
「Oh, cariño. Eres tan dulce……」
私は涙目のままルシアさんに抱かれていた。ルシアさんの肩越しに、柾木さんと目が会う。柾木さんは、「ありがとう」と唇を動かした。
演奏に感動したと言う私にアルベルトさんはご機嫌になって、今度こそ柾木さんの制止を振り切って私を抱きしめて、例の音だけのキスを盛大に立ててルシアさんと一緒に店の奥に去って行った。
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