第10話 フラメンコ

「うわぁ、美味しい」

(語彙!)

 柾木さんも笑顔になる。私はワイン グラスを覗き込んだ。

「私、そんな意識してワインなんて飲んだことなかったんですけど、本当だ。違いますね。さっき柾木さんが言っていた『華やかな香り』の意味がわかります。うん、美味しい!」

 柾木さんは、遠慮の塊で残っていたガリシア風タコの最後の一つを指差した。

「これはさ、魚介類と食っても魚臭くならないんだよ。試してみ?」

 あー、魚臭くならない白ワイン。わかる、わかる。魚介類には白って言われるけど、時々、一緒に飲むと妙に魚臭さが強調されてしまう白ワインがあって、なんでかなぁと思っていたのだ。

 私は、最後の一つのタコをフォークで突き刺して口に入れる。タコの美味しさを満喫した後、ワインを一口飲む。

(うん! 爽やか!)

 タコの旨味と一緒に、ワインのほんのり甘い酸味が喉を降りていく。ほっぺたがきゅっとなるくらい美味しい。私は思わず足をバタバタさせながら、両手を握って柾木さんを見た。興奮するくらい美味しかったのだ。

 柾木さんは、カウンターに片肘をついて、そちら側の手の丸めた指に頬を乗せて私を見ていた。軽く微笑んだ口元。私を見るその目は優しかった。

 その目に心臓を射抜かれる。そして、柾木さんの右手が私の頬にすっと伸びてきた。私は動かなかった。柾木さんの指先がほんの少し、私の頬に触れた瞬間、店内の明かりが急に落ちて、人々がわっと拍手をした。店の片隅にスポット ライトが灯る。

 柾木さんは一瞬躊躇した後、そのライトを振り返った。私も、強い鼓動を胸の奥に感じたまま、そちらに視線を移した。

 店の一角にあるステージにアルベルトさんとルシアさんが戻ってきていた。スポット ライトはルシアさんに当たっており、その光の中でルシアさんは両手を上げてフラメンコのポーズをとっていた。店の中のお客さんたちは、しんとなってその光景を見つめていた。

 ステージの奥で椅子に座ったアルベルトさんが静かにギターを弾き始めた。それを追って物悲しげな歌声を響かせる。ルシアさんは、ゆっくりと体を回転させながら足でリズムを取り始めた。観客の中から「オレー!」とか「ハッ!」とか掛け声が投げかけられる。そして突然激しくギターが掻き鳴らされた。それと同時にルシアさんが足をステージに置かれた板の上に叩きつける。ギターのリズムに乗って、ルシアさんがスカートを持ち上げ、フラメンコ シューズのかかとでカスタネットを連打するような乾いた音を繋げていく。スペイン人と思われるお客さんの中には、一緒になって手を叩いている人たちもいて、その人達はとても複雑なリズムをアルベルトさんのギターに合わせて奏でていた。その合間、合間に、本当にタイミングよく掛け声がかかる。その様子は、歌舞伎の大向うにちょっと似ていた。

 そのうちに、アルベルトさんが椅子から立ち上がり、ギターを弾きながらステップを踏み始める。ルシアさんは、手を叩いてアルベルトさんのステップを引き立てる。アルベルトさんのステップが終わると、今度はまたルシアさんがステップを踏み始める。見ていると、フラメンコは求愛のダンスなんだということがわかる。言葉ではなく、身体全体で自分の気持を情熱的に伝える。特にアルベルトさんとルシアさんの息の合ったリズムはぞくぞくするほど官能的だった。二人は徐々に近づいていき、ステージの上の板の上で互いに寄り添いながらより激しいリズムでタップを踏み始めた。そして、それが最高潮に達したときに、二人同時に足を打ち付けてダンスを終えた。

 店内にはどっと拍手の音が溢れた。指笛を鳴らす人たちもいる。私はフラメンコなんて絵や写真でしか見たことがなかったけれど、その迫力に飲まれて皆と一緒に拍手をしていた。柾木さんを見ると、楽しそうに手を叩いてスペイン語で何か掛け声をかけていた。

 次の曲は、リズミックだが比較的ゆっくりとした歌だった。もう少し現代的なメロディーで、一緒に口ずさむ人たちもいたのでよく知られている曲なのだろう。ルシアさんも気軽な感じであまりステップを響かせることなく踊っていた。それでもアルベルトさんに向かって甘えてみたり背中を向けたりしながら踊っていたので、恋の曲なのだと思った。そのうち、スペインの人らしい男性が飛び入りして、ステージの上で踊り始めた。アルベルトさんほどの迫力のあるステップではないが、なかなか様になっている。観客も面白がって声を掛けている。ルシアさんも彼に合わせて、踊っていた。そのうち、男性が膝を突いてルシアさんに両手を広げたので、観客はどっと笑った。そこにアルベルトさんがギターを弾いたまま立ち塞がり、観客の男性では太刀打ちできないような複雑で早いステップを踏んだので、男性は早々に舞台を立ち去り、再び観客の笑いを買っていた。

「面白いね」と言いたくて、柾木さんを見やると、柾木さんは舞台のアルベルトさんに釘付けだった。アルベルトさんの弾くギターのリズムに合わせて、右手の指が膝の上で順繰りに動いている。左手もギターの弦を押さえるように形を変えていた。

 柾木さんとアルベルトさんが同じ爪をしている理由がこれで分かった。

(柾木さんはギターの勉強をしに、スペインに行ったんだ)

 柾木さんは、スペインのどこかの音大に入ったのだろう。そこで、アルベルトさんと出会い、アニタさんと恋に落ちた。アニタさんと気持ちを通じ合わせるために、スペイン語も一生懸命学んだに違いない。

 学生だから、お金もあんまり無くて、床屋もあまり行かなかったかもしれない。髪を長くして、ピアスを着けて、着たきりの T シャツの若い柾木さんを想像した。言葉がうまく通じない代わりに、その長い指で、アニタさんのために愛のメロディーを奏でたのかもしれない。行ったこともない国のまぶしい太陽の下で彼女のためにギターを弾く柾木さんを思った。

 それはとてもロマンチックな光景だった。しかし、二人が別れてしまったということは現実はそれほど甘くはなかったのだろう。アニタさんという人を私は知らないけれど、アルベルトさんやルシアさんのような人たちと友達ならば、きっといい人なんじゃないだろうか。そんな人との別れは寂しくて残念なことだと思った。

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