第9話 私の知らない柾木さん

 私はふと気になったことを聞いてみた。

「ルシアさんたちは、……櫂さんとどこで知り合ったんですか?」

(ルシアさんに釣られて、つい「櫂」って呼んでしまったけれど、別にいいよね。本人には聞こえてないはず……)

「ティトはカイと同じ大学に行っていました。私は友達のアニタを通じて知りました。アニタはカイの恋人でした」

(えっ……)

 意外な返事に、思わず言葉が詰まってしまった。

(恋人……。しかもスペインの人?)

 そんな私に気が付いて、ルシアさんは言った。

「ずっと昔です。もう二人は会っていません」

 私は両手を振った。

「いいえ! そんなんじゃないんで。ちょっと意外だったので……」

 ルシアさんはにっこりした。

「カイはとてもいい人です。……muy cariñoso…… ¿Cómo podría decir…?」

 ルシアさんは、目の横に指を立てて周りを見て、何かに気が付いてそれに歩いていく真似をしてから、「オー、大丈夫ですか?」と言いながら誰かを気遣うジェスチャーをした。それを見て私は、ルシアさんが「柾木さんは人をよく見ていて気軽に手助けをしてあげられる人です」と言いたいのだと思った。

 それは確かにそうだと思った。表情が硬いので誤解されがちだが、親切だ。今日の休出だって、嫌な顔ひとつしなかったし、次々に指示を受けた私にさっとメモ帳を差し出してくれた。残業になったときだって「私でお手伝いできることがあれば言ってください」と言ってくれたのだ。

 私はアルベルトさんと話を続ける楽しそうな柾木さんを見た。眼鏡を掛けていない柾木さん。……ピアスを着けて、レストランで働いて、スペイン人の恋人がいた柾木さん。

 柾木さんが、アルベルトさんの話に頷きながら、グラスからワインを一口飲んだ。

 私の知らない柾木さんを知っている人がいる。不意に私の頭の中に柾木さんに寄り添う黒い巻き毛のスペイン美人のイメージが浮かんだ。その途端、私の胸は急に重くなった。

(柾木さんが誰と付き合っていたとしても関係ないのに……)

 喉が詰まるような気がして、私は大きく息を吸った。そして努めて明るい笑顔を作ると「私、ちょっとお手洗い行ってきますね」とルシアさんに告げてその場を離れた。

 トイレで鏡を覗くと、眉間にシワを寄せた自分の顔が映っていた。親指と人差し指でそのシワを伸ばして、頬っぺたをモニョモニョとつまみ、鏡ににっこりと笑ってみせた。

 その笑いがあまりにわざとらしく、私は肩を落として溜息を吐いた。

(これじゃ私が柾木さんを好きみたいじゃん……)

 変な感じだ。数時間前までは可もなく不可もなくの会社の人だったのに、今や私は柾木さんの過去を気にするまでになっている。

(……という事は、明日の朝にはまた可もなく不可もなくの人に戻ってるかもしれないしね)

 ちょっとしたモヤモヤ感を残しながら私は自分の気持ちの落とし所を見つけて一息ついた。

 化粧室を出ると、ちょうどアルベルトさんとルシアさんが従業員用のドアに向かうところだった。

 アルベルトさんは「¡Hola, guapa! 俺たち、またすぐ演奏始めるんで、ゆっくりして聞いていってね!」と妙にこなれた日本語で言って私に手を振った。その彼の右手の爪が、柾木さんと同じように斜めに整えられているのを見て、私の中で何かが繋がった。しかし、直ぐにルシアさんが視界に入ってきた。彼女は何も言わずに私をぎゅっと抱きしめ、私の目を覗き込んで微笑んだ。なんとなくルシアさんの言いたいことは分かった。そこまで私が本当に柾木さんの事を想っているのかは私自身にも分からない。でも、私の気持ちを思い遣ってくれるルシアさんの優しさが嬉しかった。私もルシアさんに微笑んだ。

 化粧室から戻って来ると、柾木さんはカウンターに背中を向けて寄り掛かっていた。

 顔が赤くなって、目もちょっと据わっている。酔ってるな。カウンターの上には、新しく注がれた赤ワインのカラフェがあった。二つ目のカラフェに突入したらしい。

 遠くから近づく私を唇の端を少し上げて眺めている。特に胸と腰のあたりを。下心丸出しだ。ポーカー フェイスの柾木さんはどこへ行ってしまったんだ。

 私は気が付かない振りをしてカウンターに近付いた。カウンターの上を見ると、私が飲み残したサングリアのグラスの横に、新しい白ワインのグラスがあった。

 私がスツールに腰掛けると同時に、柾木さんもスツールを回転させてカウンターに向かい合った。その時、柾木さんの目はスカートから覗く私の太ももをしっかり見ていた。

(調子に乗ってるなぁ。デコピンしちゃうぞ)

「これは俺からの奢り。さっき俺が飲んでたテラ アルタ。美味いから」

 柾木さんは白ワインの入ったグラスのベースに指を置いて、グラスを私に向けて押し出した。口調がなんとなくたどたどしくなっている。

「店長が最初に勧めてくれたヘテのワインはさ、マスカットで出来てるの。すげえサラッとしててクリアな味わいでさ、日本酒みたいな感じなんだよ。残り香が酸味のあるフルーツみたいな。で、こっちは白いガルナッチャで作ってあるんだけど、印象がちょっと似てるんだよ。飲み比べたらそりゃ違うけど、爽やかで軽いところが似てんの。でも、こっちのが香りも華やかだし、ちょっと甘味もあって飲みやすいかなって」

 酔ってウンチクを語り始める柾木さん。男の人には酔うと蘊蓄を語りたくなるスイッチが付いてるんだろうか。思わず口元がほころんで柾木さんを見上げると、相変わらず彼の視線は私の胸元に注がれていた。

(うーむ、これは……)

 私は微妙な気持ちになった。例えばこれが社員旅行での事だったら完全にアウトだ。私は可及的速やかに席を辞して、柾木さんに二度と近づかないだろう。でも、今この場所で完全に会社の同僚扱いだったら、私はがっかりするだろう。

(ちょっとは女として興味を持ってもらえてる? スペイン人の彼女と同じくらいに? それとも、単にお酒に酔って気が緩んでるだけ? それでも……)

「柾木さん」

「はい」

 とろんとした目で柾木さんは私を見る。

「ちょっと見過ぎです」

 柾木さんは、ハッとした顔をしてカウンターの方に向いた。

「……失礼しました」

 そして、カウンターの方を見ながら頭を下げた。

(素直でよろしい)

 私は気まずい顔になった柾木さんから目前の二つのグラスに目を移した。サングリアはもう氷も溶けて情けない状態になっていた。柾木さんお勧めの白ワインのグラスを手に取る。それから、さっきの柾木さんの真似をしてグラスを回した。グラスの口に鼻を寄せて、香りを嗅ぐ。サングリアの時とは違って、ワインそのものが香った。いい香りだった。鼻いっぱいにそれを吸い込む。

「イチゴみたいなブルーベリーみたいな香りがしますね……。それだけじゃなくて鼻にチクチク来る感じ?」

 一瞬きょとんとした柾木さんが笑顔になった。私は、グラスを口に近づけて柾木さんを見た。柾木さんがうんうんとうなずく。私はワインを一口飲んだ。

 とてもフルーティだ。でも舌先に感じる甘さは遠くで感じる程度。そのせいで、ワインがとても瑞々しく軽やかに感じられる。飲み込むときに、甘さと酸味が口の奥でふわっと広がり、ベリーの香りと青い草のような香りが喉の奥から鼻に抜けていく。

 私は目を見開いた。

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