第8話 二杯目に突入
「お前、失礼なヤツだなぁ」
店長さんは、柾木さんにそう言うと私の方を振り返っていった。
「遠慮せずに好きなもの頼んでくださいね。こっちで量は調整しますんで」
柾木さんはまだ笑ったままだったが、私は店長さんのお言葉に甘えて何でも食べたいものを選ぶことにした。
途中からまた柾木さんが手伝ってくれて、最終的に選んだのは、ゆでダコにオリーブ オイルとパプリカのかかったガリシア地方の料理、白花豆をソーセージやベーコンで煮込んだアストゥリア地方の伝統料理、そして本日のおすすめだというアロス ネグロというイカ墨で炊いたパエリアだった。野菜が足りないからと思って、レタスの上にトマト、ツナ、ゆで卵、オリーブに人参の千切りを乗せた地中海風サラダも頼もうとしたら、絶対に食べ切れないからと柾木さんに止められてしまった。店長さんが代わりにトマトの上にみじん切りにした玉ねぎとオリーブを乗せた小皿を作ってくれた。お料理は全部美味しそうだったので、写真に撮るのも忘れなかった。
二杯目のグラスは、カヴァで作ったという白いサングリアを頼んだ。柾木さんは、リオハの赤をカラフェで頼んでいた。
ステージの音楽は一休みして、録音の店内音楽が流れ始めた。クラッシック ギターのソロで、導入部の掻き鳴らすような華やかな音が印象的な曲だった。聞いたことがある好きなメロディーだったので、一緒に口ずさんだ。柾木さんが、ちょっと驚いた顔をして私を見た。
「……知ってる?」
「うーん、名前は忘れちゃいました。でも、父が持っていた『珠玉のギター名曲集』っていう CD に入っていて、子供の頃、日曜日とかによく聞かされてましたね」
私はリズムに合わせて体を揺らせた。
「ははは、ありがちだね」
「ありがちですよねー」
私は体を揺らせたまま、指を立てた。
「もっとありがちなのが、父は『禁じられた遊び』を練習しようとしてギターを買ったはいいけれど、最初の数小節で挫折して、あとは部屋の隅でほこりを被ってしまったという……」
柾木さんはまた笑った。本当に楽しそうな笑いだった。もっとこんな笑顔を見たいと思って、何か面白い話をしようと思ったのだけれど何も浮かばなかった。代わりに柾木さんが話を継いだ。
「あかりさんはギターを弾こうと思わなかったの?」
(ん? あかりさん……? 私、あかりさんになったんだ!)
ちょっとニヤけそうな口元を明るい切り返しでごまかすことにした。
「いやー、父にも『もったいないから、あかり、練習しろよ』なんて言われたんですけどね。私、手が小さくて……」
そう言って、私は自分の左手を広げて柾木さんの方に向けた。私の手を見た柾木さんは、自分の右手を広げて私の手に合わせた。私は思わずどきんとしたが、おとなしく柾木さんの手の温かみを自分の手のひらで受け取った。
「んー、そんなに小さくないんじゃない? ネックに指は十分回るんじゃないかな」
柾木さんの広げた手は大きかった。指が長くて、中指は私の指より一関節近く長かった。椰子の葉のように広がった指の先からは長い爪が伸びているのが見えた。その爪をよく見ると、爪の最長部が爪の中心ではなく、小指の側に偏っていた。
それについて聞こうと思った途端、「¡Hombre, Kai! ¡Estas aqui!」と大きな声が聞こえた。
振り返ると、先程ステージで演奏をしていた男女が私たちの背後に立っていた。柾木さんは、笑顔になって椅子から降りるとその男性に向かって腕を広げた。
「Hola, amigo. ¿Qué tal?」
「¡Bien, bien!」
(スペイン語? これスペイン語だよね? 柾木さん、スペイン語喋ってる!)
男性は柾木さんに抱きついて、背中をバンバンと叩いた。それから、男性の後ろに立っていた女性も柾木さんに近づいて腕を回した。柾木さんは女性の両側の頬にキスをした。実際には、頬を合わせてキスをする音を立てただけだが、それでも私はびっくりしてしまった。
それから三人はしばらくスペイン語で楽しげに言葉を交わしていた。私は柾木さんのペラペラ具合にすっかり感心してしまった。
男性の方が私の方に目配せをしながら何かを柾木さんに言った。
「¿Es tu novia?」
柾木さんは大げさに「ノォォォ、ノォォ」と言い、最後に何か一言付け加えた。
「Todavia no」
男性は大きく笑うと、また柾木さんの背中をバンバンと叩いた。
何を言っているのかはわからなかったが、男性が何か誤解しているようなのはわかった。
柾木さんは私を見ると言った。
「あかりさん、こちら、この店のオーナーのアルベルトさん」
私はスツールから立ってお辞儀をした。
「はじめまして、三枝あかりです」
「こんにちはー、ティトです。よろしくー」
そう言ってアルベルトさんは、両手を広げて私に近づいて来たが、柾木さんがそれを阻止した。
「すいません、挨拶は日本式でお願いします」
「えー」とアルベルトさんは口を尖らせたが、仕方なさそうに私にお辞儀をした。私も日本風にお辞儀を返した。柾木さんが今度は女性の方を指し示す。
「こちらがアルベルトさんの奥さんのルシアさんです」
「ルシアです。よろしくお願いします」
ルシアさんの方は構わず私の両肩に手を乗せると、先程柾木さんとしたように、私の両方の頬にキスをした。近づいたときに柔らかくルシアさんの香水が匂った。女性同士とはいえ、こんな風に挨拶をしたことがなかったので私はどぎまぎしてしまった。
その間にも、アルベルトさんと柾木さんはスペイン語で何か話し始めていた。柾木さんは店長さんに空のグラスを二つ頼むと、自分のカラフェからワインを注いでアルベルトさんとルシアさんに手渡した。そして自分もワインの残ったグラスを持ち上げて飲み始めた。私がどうしようかと思っていると、私のサングリアのグラスも渡してくれようとしたが、なんだか立ち飲みするのも気が引けて断った。私はスペイン語の会話がまったくわからずに戸惑いながらただそこに立っていた。そんな私にルシアさんが声をかけた。
「あかりさんは、カイの会社の人ですか?」
日本語で話しかけてくれたルシアさんに心底ほっとしながら、私は彼女を見た。
「そうです。働いている部署は違いますが」
「そうですか」
ルシアさんは、アルベルトさんと話をする柾木さんをほんの少しの間だけ眺めた。
「カイは会社を楽しんでますか?」
(会社を楽しんでる? そもそも会社って楽しいかな? でも、この質問はきっと柾木さんのこと、心配してるってことだよね)
「うーん、マジメですね。私は今日まで柾木さんとあまり話したことがなかったんですけど、いつも、こう……、事務的な感じ?」
私はロボットのようにお辞儀をする真似をした。ルシアさんは、苦笑して溜息を吐いた。
「……カイはとても頑張っています。多分、あんまり会社好きじゃない。自由な生活、好き。でも、お父さんとお母さんと約束しました。会社、行きます」
「そうなんですね……」
会社での柾木さんの様子と、ここにいるときの柾木さんの様子の違いがわかったような気がした。
「私たちがこのレストラン始めたとき、カイはたくさん助けてくれました。ノボルに会ったのも、カイのおかげ」
「……ノボル?」
首を傾げた私に、ルシアさんはカウンターの向こうの店長さんを指差した。
(そっか、店長さん、ノボルって言うんだ)
「私たち、レストランしたかった。でも、日本のやり方よくわからない。日本のレストラン、知ってる人が必要。ノボルもレストランしたかった。でも、一人は難しい。私たち、一緒にレストラン始めました。カイが色んな人、探しました」
ルシアさんは電話帳を見ながら電話をかけるジェスチャーをした。
「そうでしたか……」
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