第3話 エレベーター ホールでの会話
エラーが見つかって修正と再テストが終わったのは、七時半を回った後だった。それから、速攻で朝岡課長にメールとメッセージを送る。朝岡課長の返事を待っている間に、異なる条件でテストを繰り返して、問題が無いことを再確認する。設計にもメールを送って会議の時間を打診する。朝岡課長は三十分ほどで回答をくれた。問題は見つからず、仕様書とテスト結果をクライアントに送った。もちろん、部長、課長と設計にも CC を入れた。最後に指差し確認をして、キーを柾木さんに返しに行ったのは八時十五分過ぎだった。
「ありがとうございました!」
深々と頭を下げる私に、征木さんは「朝岡課長からの回答はありましたか?」と聞いた。
意外な質問に私は頭を上げて、困惑した顔で「……はい」と答えた。
「クライアントにメールするときに、部長と設計部署に CC を入れましたか?」
柾木さんは真顔で続ける。ははあ、どうやら朝岡課長からの指示を確認してくれているらしい。人の仕事なのによく覚えてるな、この人。
「はい」と続けて答える。
「設計に会議の連絡はしましたか?」
私は気を付けをして、元気に「はい!」と答えた。
「よろしい。それではお疲れさまでした」
柾木さんはほんの少し微笑んで言った。私は嬉しくなってその場に佇んだが、柾木さんはまたすっと真顔に戻って、キーを保管庫に片付けた。そして、タイピングの続きを始めた。
「……あの、柾木さんはお帰りにならないんですか?」
気になって聞いてしまった。
柾木さんはちらっとだけ私を見上げて言った。
「今この部分が書き終わったら退社します。ご心配なさらずにお先にどうぞ。私は戸締まりを点検してから帰りますので」
邪魔だから早く帰れ、と言われているような気になって、私は気弱になった。
「……わかりました。お疲れさまでした」
それだけ言って私はすごすごとその場を立ち去った。
「お疲れさまです」
柾木さんの冷静な声が響いた。
オフィスのドアを抜けて、エレベーターに乗る前に化粧室に行った。
(どうしよう、まだ三人はクリパしてるだろうけど、今から行ったらもう遅いよね。諦めるかぁ……)
そう思いながら鏡を覗くと、疲れた顔の自分が見えた。クリスマスらしく着飾ってきたピンクのスカートも一日座ってシワが寄っていた。
(げっ、ひどい顔! 髪の毛もぼさぼさだし! 私、こんな鬼ババアみたいな格好で仕事してたんだ……)
かばんの中からポーチを出して、髪とメイクを整える。
口紅を塗り直しながら、(柾木さんにヘンな顔見られちゃったな……)と考えた。が、はっと気が付いて、(いや! そんな意識されてないよね。ろくろく目も合わせてもらえなかったし)と思い直した。
メイクを直し終わって、左右から見て変なところがないかどうか鏡で確認する。スカートも手のひらでシワを伸ばし、パーティー用に持ってきたラインストーンの入ったヘアピンも付けた。もうパーティーには行かないので家に帰るだけなのだが、今日はクリスマス イブで着飾っている人たちが多いと思うと、少しでもきれいにしておきたかった。例えばこれからフライド チキンを買うにしたって、「一人寂しくチキンにかじりつくんだろうなあ」と思われるより、「これから彼のお家で二人でパーティーなんですね!」みたいに見られたい。……まあ、そんな人はこんな時間まで休出してないだろうけど。
自分でもバカバカしくなって、溜息を吐いて化粧室を出た。ふと目を上げたところで、どきんとする。
薄暗い廊下の向こうに柾木さんが立っていたのだ。エレベーターの階数表示を見上げていたので、エレベーターが来るのを待っていたのだろう。私に気が付くと、征木さんは会釈をして「お疲れさまです」と言った。
私も「お疲れさまです」と返して、ゆっくりと近づく。遠からず近からずの距離に立って、柾木さんと一緒に階数表示を見上げた。薄暗い中、階数を示す数字が明るく灯って見える。しかし、表示されている階数はなかなか変わらない。混んでいるようだ。沈黙が廊下を満たす。
不意に柾木さんが私を見て言った。
「間に合いそうですか?」
友達とのパーティーの事を言っているのだとは思ったが、なぜ彼がそれを知っているのかわからず、柾木さんを振り返りながら突拍子もない声が出た。
「はいぃ?」
うわーっ! ヘンな声! またやってしまった!
柾木さんは「ふっ」と、本当に少しだけ吹き出した。内心、恥ずかしくてどこかに隠れたくなる。その気持を隠すために横を向いた。柾木さんは、すぐ真顔になり、ちょっと頭を下げた。
「……すみません。余計なことを申し上げました。忘れてください」
あ、怒ったと思われてしまった。恥ずかしかっただけなのに。再びエレベーターの階数表示を見上げた柾木さんの横顔を見ながら、彼が私のパーティーのことを知っている理由を考えてみた。
……やはりよくわからない。勇気を出して聞いてみることにした。少し息を吸い込んで。
「あの、怒ったわけではないんです。ちょっと、ヘンな声出してしまって恥ずかしかったので……。あと、どうして約束があると思われたのかなって……」
柾木さんが意外そうな顔をして私を見る。
その瞬間に、チーンとエレベーターが到着する音がした。あー、もう。タイミング!
エレベーターのドアが開いて、薄暗い廊下に明かりが溢れた。エレベーターの中はほぼ満員だった。
うちの会社が入るビルは、かなり古い高層ビルでフロア数が多い割にエレベーターの数が少ない。さらに最上階には飲食店やジムなどの商業施設があって、朝だけでなくお昼時や夜間にも混む事が多い。
(まあ、来るのに時間かかったもんね。そうかなって思ってた。それにしてもみんなクリスマスを満喫してるなあ)
柾木さんがエレベーターの中の人に「次を待ちます」と言った。誰かが「閉じる」ボタンを押して、エレベーターの扉が閉じた。私たちは再び、薄暗がりの中に残された。柾木さんはエレベーターの「降りる」ボタンを押すと、咳払いをした。
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