第4話 スペイン バルはいかがですか
「あの……、今日はおしゃれをされていたので、ご予定があるんだと思ったんです」
そう言いながら、私のヘアピンを意味するように柾木さんは自分の頭の横を指差した。
「残業されて、遅くなってしまったので、大丈夫かなと思いまして……。プライベートに立ち入ったことを尋ねてしまいすみませんでした」
こちらを見ずに柾木さんは頭を下げた。
私はすぐに言葉が見つからなかった。あんな無関心な顔をしておきながら、柾木さんが私の髪や服装をちゃんと見ていたことに驚いた。そして、ふと気が付いてしまった。
(あれ、ちょっと待って。ヘアピンにまで気が付いたってことは、さっきのひどい顔もしっかり見られてるってことじゃない? きゃー、恥ずかしい!)
私の返事が無かったせいか、柾木さんは私を見た。私はまごついて「あ……、いえ……」と言うのが、精一杯だった。そこでまたチーンとエレベーターの到着を告げる音が鳴った。
今度は、二、三人分の余裕があったので柾木さんは、私にまず乗るように促した。それから、自分が乗り込んで私に背中を向けた。私は柾木さんを間近に肩越しに見上げるような感じになった。一階に着くまでの間、私は柾木さんの後ろ頭を見るともなく、見上げていた。不意に柾木さんのピアスの穴が目に入った。それから、さっきの「ぼっちの宅飲み」発言と素の表情が脳裏に蘇った。
(この人は、私の知らないところでは、ピアスをして、あんな表情をしているんだ)
そう思った途端、私の胸の奥から温かい泉が湧くように広がる気持ちがあった。
(柾木さんのことをもっと知りたい)
温かい泉は、とくとくと早く打つ鼓動となって私の胸を満たした。
エレベーターが一階に着く。ドアが開いて、人々がフロアへ溢れ出す。それに続いて目前にあった柾木さんの肩が離れていく。
(行かないで)
前触れもなくそう思った。その気持ちに戸惑った。どうして急にこんな風に思うんだろう。でも、それはとても正直な気持ちだった。
エレベーターの外で、柾木さんが振り返った。
「お疲れさまでした」
それだけ言ってお辞儀をすると、背中を向けてビルの出口へと歩き始めた。
エレベーター ホールを抜けて柾木さんはビルの出口へ向かって歩いて行く。急いでいる訳ではなさそうだが、リズミカルに歩く一歩一歩の歩幅が広い。私は小さくなる柾木さんの背中を小走りに追いかけた。
「柾木さん!」
振り返った柾木さんは、本当に思いがけないという顔をしていた。その表情に声をかけた事への後悔の念が湧き起こり一瞬言葉に詰まる。続けて気まずい沈黙が流れる。ええい、ままよ。ともかく、言っちゃえ!
「あの……、お詫びと言っては何なんですが、何処かで軽く一杯奢らせていただけないでしょうか?」
柾木さんは、一際意外そうな顔をした。
(あ、「軽く一杯」とか親父くさかったかな? でも、ここで「お食事でも」とか言ったら重いよね? まあ、いいや、一杯、一杯だけだから! お願いします!)
右手を突き出してお辞儀をしたいような気分だった。誰かが「ちょおっと待ったぁあ!」と言いながら走って来ない事を祈りながら。
「でも、ご予定があるのでは? 私の事でしたらお気遣いはご無用ですので……」と、柾木さんは例の生真面目な顔に戻って言った。
(だから違うんだってば!)
「ご予定はありません!」
つい力んで大きな声が出てしまった。柾木さんはまたびっくり顔に早戻りだ。
「こ、これはですね」と、自分の顔を指差す。
「今日はクリスマスだったので、まあ、ちょっとはキレイに見られたいと言うか……」
(彼氏とかじゃなくて世間様にですけどね! でも、あれ? これだと柾木さんのためにおしゃれして来たみたいに聞こえない?)
その時、柾木さんが微笑んだ。それは一瞬、訳知り顔の大胆な笑みになり、たちまち人当たりの良い会社用の笑みに置き換わった。
(その顔!)
私はアイスクリームの当たりが出た時のような気分になった。
(そうなんです、その顔が見たかったの!)
彼の微笑みから、私の言い訳は柾木さんのいいように解釈された事が分かったが、それでもよかった。柾木さんの「素」をまた垣間見ることができたのだから……。
「そういう事であれば、お言葉に甘えてご一緒させていただきます」
優雅にお辞儀をした柾木さんに、私の心は浮き立った。
駅へ続く繁華街を二人でレストランを覗きながら歩いた。さすがにクリスマス イブの土曜日なのでどこも混んでいた。カフェ バーはもちろんのこと、普通のレストランは軒並み全滅、ファミレスも家族連れでいっぱいだった。最後の頼みの綱で蕎麦屋も覗いたが、忘年会で貸し切りだった。私はがっかりして駅の前に立った。
「すみません、思いつきでお時間取らせてしまって……」
(うわーん、またバカなやつだと思われたに違いない)
私はしょんぼりしながら頭を下げた。ほんの少しの間があって、うつむき加減の私を覗き込むように柾木さんは言った。
「あの、電車で五つほど先の駅になるのですが……、私の行きつけのスペイン バルがありまして。もし、よろしければそちらはどうですか。店長とは顔見知りなので、混んでいても隅の席を空けてもらえると思うのですが」
私は思わず顔を上げて柾木さんを見た。マンガだったら、目がキラキラしていたに違いない。
「お……、お願いします! 行ってみたいです!」
こんなに食いついて、かなり残念な子になっているのは自分でも分かっている。それでも、柾木さんの申し出を断るなんて考えられなかった。
柾木さんは、ほっとしたように微笑んだ。
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