第10話 帰路
その後はよく覚えていない。ぼんやりとSHRで先生の話を聞いて、何となく教科書を鞄に詰め込み背負って寮へと歩いていった。秋夜が隣を歩いていたが、何も話しかけてはこなかった。それが夕樹には有り難かった。
途中何度か辺りを見回したが、怪しい人影は見当たらなかった。素人の自分の目がどこまで信用できるかわからないが、あからさまな監視ができるほどではないようだ、と夕樹は少し安心した。
自由意志はなく、強制的に特定の機関に引き抜かれる。表立つことのできない組織。親が働いていたとはいえと一抹の不安はあった。逆を言うと、一抹の不安しかなかった。拒否権がないとわかれば寧ろその組織だか財団だかの機関に入る時、詐欺られないように、などと考えを巡らせていた。
やがて寮となっている建物についた。寮と言っても新しく出来た建物で、ホテルのような外観だった。白塗りの壁に小さめの窓がいくつもついている。設備もしっかりしている。学生証代わりの端末を入口でかざすと、扉が開いた。揺籃高校の、しかも寮使用者の端末でのみ通れるようになっている。秋夜も同じようにしてついて来た。彼もやはり寮を使っているのか、と夕樹は思った。しかしエレベーターに乗って自分の階のボタンを押しても、秋夜はそのままでいた。同じ階なのかとぼんやり思ったが、エレベーターを降りても、廊下を歩いても、自分の部屋の前までずっと彼はついてきた。
「……お前、寮使ってるのか?」
「そうでなくちゃ入口で弾かれるだろ」
「部屋は?」
秋夜がすっと指した部屋は、夕樹の部屋だった。
「馬鹿言うな。ここは私が今使っている」
「相部屋になったんだ。連絡されなかったか?」
夕樹が首を振ると、秋夜は髪に手をやった。
「なんでそういう連絡を忘れるんだよ、この学校は」
秋夜が軽くぼやいた。しかし夕樹は学校が忘れたことはどうでもよかった。
「本当に相部屋なのか?」
「証拠を見せようか」
秋夜はドアについている認証機に彼の端末をかざした。ガチャリと鍵の開く音がした。
「男と女が相部屋か? しかも知り合って1日の高校生を?」
「今どき体の性だけで判断するのは早計だぞ」
「私はヘテロセクシュアルだ」
「僕はバイだ」
「駄目じゃん」夕樹は毒づいた。
「君が嫌なら僕は外で寝る」
秋夜は下を指した。部屋の前で寝るということだろう。夕樹は頷きかけて、自分の部屋の前に彼が座り込み、眠る様子を想像した。
「いや、少し部屋を整理するからその間だけ待ってて」
そう言ってドアを開けて部屋を眺める。いつもの如く机の上の3分の1が教科書とノートと紙の本で埋まっている。ベッドは起きたときのまま、上から寝間着が打ち捨てられていた。とりあえず寝間着をたたみ、布団を整える。そこらへんに放り投げてたシャツをまとめて洗濯かごに投げ入れた。床には何も置いていないのであとは軽く本棚を片付けるだけで済みそうだ。
机の上の本を本棚に戻し、教科書を勉強棚にねじ込んだ所で秋夜を入れた。
「殺風景だな。生活感を感じない。整然としている。色味がない」
「悪かったな。ぬいぐるみの1つもない、可愛げがない奴で」
「別に。君に可愛らしさを求めたことはない」
「それはそれで何だか傷つく」
彼は部屋を一通り見て回り、それから徐ろに1人用ソファに腰掛けた。
「悪くない。僕はここで寝よう」
「ソファで?」
「お望みであれば床でも壁でも構わないが」
「いや、曲がりなりにもこの部屋の住人なのは間違いないんだろ。せめて横にはなったほうがいいんじゃ」
「大丈夫だよ、僕は睡眠の質が体調に影響しないんだ」
そう言って彼は荷物をソファの横におろし、ブレザーの上を脱いで尋ねた。
「服はどうするといい?」
「あぁ……クローゼットがあるから、そこにかけておいてもらえればいい」
「了解」
彼はブレザーをハンガーにかけたあと、ネクタイを乱暴に引っ張って外して同様に引っかけた。そしてシャツのボタンを躊躇いなく目の前で外し始めた。
「あの、神崎さん?」
「なんだ急に改まって」
「できれば着替えはバスルームでしてほしいんですけれど」
すると彼は手を止め「そういうものか」と呟いてから、ソファの横の荷物から衣服を引っ張り出してバスルームに向かった。その背を見ながら夕樹は半分独り言のように訊いた。
「出会ってからずっと思ってたけど、お前のその独特な貞操観念はどうやったら出来上がるんだ?」
「さあな」
そう言うと秋夜はバスルームのドアを閉めて内側から鍵をかけた。かと思えばほんの2、30秒後に着替えを済ませて出てきた。
彼は上にくすんだ空色をした大きめな七分袖のカーディガンを羽織り、白いズボンを履いて出てきた。七分袖の袖や閉じられていないカーディガンの前から中の黒い長袖のインナーが見えていた。秋夜の身長が高いのも相まって大人びた印象を感じさせる。彼はハンガーを手に取り、シャツをかけようとした。夕樹は黙ってバスルームの横にあるかごを指さした。2つあるうちの1つには先ほど夕樹がまとめて投げ入れたシャツが入っていたが、もう一つは空だった。「あそこに入れればいいのか」と問う秋夜に首肯した。彼は丸めたシャツをかごにすっと投げ入れた。かごからはみ出すこともなくシャツは綺麗に入った。夕樹が口笛を吹くと彼はなんとも得意げな顔をした。子供っぽくて何だか安心した。
さて、と秋夜が手を打った。
「僕と君はこれから同じ部屋に住むんだ。まずは僕から軽く自己紹介をしよう」
秋夜が微笑を浮かべて、やや芝居がかった言い方をした。
「僕は神崎秋夜。身長172cm体重55kgで視力は左右合わせて2.0ある。IQは127、特別な疾患はなくて」
「ちょっと待って」
夕樹は口を挟んだ。何か引っかかるところがあったからだ。やがて正体がわかった。
「自己紹介って、もっと自分の性格や趣味を話すものじゃないか? 何と言うか、身体的な特徴じゃなくて、人格の紹介とでも言えばいいのかな。言うとしても誕生日とか、血液型とか」
秋夜は納得したように頷き、ドサッとソファに腰を下ろした。
「じゃあ君の聞きたい内容を教えてくれ。答えられる範囲で答えよう」
「そう……だね。じゃあ誕生日は?」
「ない」
「ない? ないってなんだ。知らないのか」
「悪いが質問を変えてくれ」
秋夜が鬱陶しそうに手を振る。変にはぐらかされ、夕樹は少し頬を膨らませた。聞けといったのは彼だというのに。しかし答えられる範囲でとも言っていた。ため息をつきつつ、次の質問に移った。
「血液型は?」
「ない」
「また『ない』か」
「そう言われてもないものはないよ」
秋夜が困ったように眉を下げた。どうやらからかっているわけではないようだ。しょうがないのでまた別の質問に移った。
「好きな色は?」
「青紫色」
「デンプンに反応したヨウ素液みたいな?」
「あそこまで濃いのはあんまり。明度は中間くらいで、彩度は低い方が好みだね。どんな色でも、鮮やか過ぎるのは目に痛い」
彼が眩しいものを見るように目を細める。哀愁とはこういうものなのだろうと思うほど憂いを帯びていた。しかしその哀しみは瞬きする間に消えてしまった。
「ほかは……そうだね、趣味は?」
「読書だ。ファンタジー小説が好きかな。でも異世界転生俺TUEEものじゃなくて、異世界でも現実でも、ちゃんと人が人として奔走しながら生きようとしている話が良い。そりゃあ僕だって楽して生きたいけどさ、特別な能力を神から授かって世界は自分の思うがまま、っていうのは味気ないとは思わないかい? 生き方に迷って、葛藤を繰り返して、時々間違いながら、それでもより良く生きようとする姿こそ人間のあるべき姿だと思っていてね……」
変なツボを刺激してしまったのか、結構長く語りだしてしまった。途中から哲学の話に逸れていったことは辛うじて覚えていたが、他は聞いた瞬間から忘れてしまった。意識を手放す寸前に辛うじて秋夜は話を終わらせてくれた。
「で、何の話だったかな。ああそうだ自己紹介の途中だったね。悪い悪い」
「あぁ……ええと、好きな食べ物は?」
「食べ物か。困ったな、ゼリー飲料って食べ物かい?」
「ゼリー飲料が一番好きなのか」
「まあ、それで差し支えない」
曖昧に頷きながら、夕樹は訝しんだ。最初に会ったときから思っていたが、どうやら秋夜は遠巻きに眺めるのがちょうどいいタイプの人間なようだ。
「他に質問は?」
「いや、もういいよ。それより夕食を取りに行こう」
この寮に食堂はないものの、近くに食事処やコンビニはたくさんあるので、皆そこで各々自分の食事を用意している。しかも学生証を見せれば食事代は一日5000円まで無料になるという特権がある。魔法産業のお陰で日本は一気に好景気となった。夕樹もそのサービスを利用しており、いつも近くのカフェで軽い食事をしていた。
「いや、僕は自分で買ったものがあるから大丈夫だよ」
秋夜はそう言ったが、夕樹は食い下がってみた。
「ゼリー飲料が夕食、とか言わないよな」
「いや、そうだけど」
「今日はたまたま夕食を買えなかったとか?」
「毎日3食これだけど。あと錠剤」
彼の取り出した弁当入れの中には銀色に光るスパウトパウチが入っていた。夕樹の知らない製品だった。中身を尋ねると、栄養剤とだけ返ってきた。なんと味気ない食事だろうか。夕樹は秋夜に学生証である程度食事が買えることを説明したが、彼は一向に興味を示した素振りは見せなかった。
パキッとキャップを開け、彼が“夕食”を摂り始めた。それほどまで彼が好む物に対し、夕樹は好奇心が湧いてきた。
「それはどこで買える?」
「非売品だよ。僕は特別」
「へえ、じゃあどうやって手に入れたんだ?」
すると秋夜は押し黙り、静かにパウチゼリーを飲み続けた。地雷だっただろうかと夕樹が後悔していると、秋夜が静かに口を開いた。
「ひょっとして、だけどさ……僕と一緒に食事がしたいの?」
夕樹は言葉に詰まった。確かにそういう側面があるのは確かだったが、全部まるっと肯定するのは何となく躊躇われた。その沈黙をどう受け取ったのか、秋夜はふっと笑った。
「ま、どこかに行くならついていってみるよ。この近くの町も知りたいし、僕は君と一緒に過ごしたいし」
パウチゼリーを飲み終えパックを潰しながら、秋夜は立ち上がった。せっかくだから見た目にも食欲をそそるような料理を出す店に行き、味気ない秋夜の食生活をに彩りを与えてやりたい。どこが良いだろうかと考える内に、はぐらかされた質問のことは忘れてしまった。
迷った結果、いつもの喫茶店に行くことにした。歩いて10分ほどで着く上に、シックな店なので好みはどうあれ万人受けするだろうと思ったからだ。
「よし、じゃあ出発するか」
最低限の貴重品を持って玄関近くに行くと秋夜が怪訝そうに訊いた。「制服のままで行くのか」と。
「そっちの方が楽だもん。揺籃生だって、見れば一発でわかるから」
「なるほどね。僕も着替えなければ良かったかな。僕、制服はなんだか堅苦しくて苦手でね」
だろうな、と呟いた。しかし同時に違和感も覚えた。堅苦しくて嫌だと言う割にはシャツを第1ボタンまで閉めていた気がする。ネクタイもきっちり閉めていたし、校則の見本か思うほどしっかりした着こなしだった。案外規則は守る質なのかもしれない。
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