第8話 数Ⅰ

 元の教室に戻ると、次の授業まであと2分しか残っていなかった。黒板の横の時間割を見ると、本日最後の授業は数学Ⅰとなっていた。


「この学校は数Ⅰどこまで進んでるんだ?」彼がそう尋ねた。


「この前二次関数が終わったくらいだよ」


「すると次は三角比か。正弦、余弦、正接、ってやつだな」


「予習ちゃんとしてるんだな」


まあな、と彼は答え、教科書やらノートやらを机に並べていった。ノートを開いてから教科書の三角比の辺りをを開こうとして、手こずっている。当然だ、手袋をしていればそうもなる。


「手袋外せば?」そう提案したが、


「そうはいかない」


と彼から返ってきた。


「昨日はつけてなかったと思うが」


彼が口を開きかけたところで数学担当の相本稔彦がやってきた。40、50代くらいの見た目で髪を短く刈り込んでおり、顔には濃い無精髭がある。よく歴史の教科書で見る昭和の頑固者親父を具現化したような先生だ。


「おし、じゃあ授業始めるぞ。そういやここには野郎が転入してきたんだったか?」


秋夜が首を傾げる。「野郎?」と言っている口の動きだった。


「あ、おめぇか転校生の野郎は。なんだ野郎のくせに女の子みていに白くてほっそい体だな」


秋夜が明らかに顔をしかめた。相本はまるでタイムスリップしてきたかのような、言い方を変えるなら時代錯誤な物言いをする。ジェンダー平等などと言われて久しい日本でここまで明け透けに物を言う人は中々いない。


「ま、さておき。えー、この前までで二次関数は終わったな。じゃあ次の三角比だが」


先生が黒板に向かって話し始めた。皆一斉にワークの問題演習や教科書の予習を進め始める。基本的にこのクラスで数Ⅰの授業を聞く人はいない。各々自分の学習を進め、わからないところや参考になる話が出ればノートを取る。それがこの学校の、というより先生と生徒の方向性だった。騒ぎ立てるような奴はいない。とうの昔に体罰が禁止されたとはいえ、この先生ならどこからともなく竹刀を取り出しそうな物々しさを感じているからだ。


 彼はしばらく辺りの異常な光景を見渡していたが、不意に頷いてからは彼も完璧にこのクラスの一員となった。

 結局今回も誰一人授業を聞くことなく6校時を終えた。この後は清掃後、ショートホームルームになり放課になる。いつもならば。


 しかし夕樹は今日、面談があった。本当ならば放課後に行う担任と生徒の二者面談なのだが、テスト期間や諸行事が立て込み空いている時間が今しかなくなってしまったのだ。

 今は清掃時間なので普通教室は使用できない。そこで図書館で面談は行われることになっていた。


「失礼します」


図書館の戸を開くと既に担任の先生が座っていた。そういえば名前を忘れてしまったな、と夕樹は思った。


「星倉夕樹さん、どうぞ宜しくお願いします」


先生がぎこちなく礼をしたので夕樹もおずおずと礼を返す。


「こちらこそ宜しくお願い致します」


席に座るよう促され、夕樹は椅子を引いて着席した。

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