1章 錆びつく色の理想郷

1話 錆びつく色の理想郷

 いにしえより引き継がれし神聖な真実ミュトスの1つ、『創造記』。世界の成り立ちについて語られる作中、著者はこの世界を次のように表現している。

 謂く──“色の理想郷”、だと。



 あの日、雨に打たれる世界を。僕は部屋の中から見つめていた。


「リアム」

 慈愛に満ちた声音が青年の名を撫でる。

 窓辺の枠に腕を重ねる青年は名を呼ばれたのにも関わらず、灰色の髪とともに顔を沈めている。

 青年の背後に立つ年老いた男は、痩せこける頬をゆっくり緩めた。

「みんなと一緒に行かなくていいんかい?」

「……だって、ぼく、おかしいから。おかしいイロになったら、いや、だから」

 見た目にそぐわない舌足らずな口調。周りの人間も、青年自身でさえ、「おかしい」と感じるちぐはぐな孤児――名をリアムと言った。

 そのような状況下で唯一「おかしい」と避けることなく接する男――リアムが「先生」と呼び慕うその人物は、彼の側に寄り添い、大きくも幼いリアムの髪を黒斑こくはん浸む掌で触れる。

「1つ。いいことを教えてあげよう」

 ぴくりとしたリアムの反応を捉え、先生はそっと手を引く。リアムは温もり残る頭を動かし、遠慮がちに先生へ視線を送った。

「……いいことって?」

 先生は笑みを浮かべ、窓の外を見遣る。

「空の色は7色だって話さ」

 リアムは丸めた目を窓の外に向けた。だが空は灰色の雲にすっぽり覆われている。先生の話が真実か否か確認できず、リアムは肩を落とす。

「晴れていてもわからないよ」

 先生はゆったりと笑う。

 リアムは、意地悪されたのだなと頬を膨らませた。

「だけどね、空が7色だってわかるときがあるんだ。どんなときだと思う?」

 先生の問題に、リアムは必死に考えてみるもわからず首を捻る。先生はトントンと窓を指で突いた。

「それはね……あれ、だよ」

 先生が窓越しに示したのは、雨上がりの空に大きく架かる虹の橋。7色の虹にすっかり奪われたリアムの双眸そうぼうは、輝きに満ち溢れていた。

「いいかいリアム」

 白み始める視界でリアムの姿が揺れる。

 先生は枯れ切ったその唇を震わせた。

「あの青い空だって沢山の色で溢れているんだから、私たちの心の色だって1つじゃない」

 リアムの頭を撫でれば、嬉しそうに目を細める。

「欲張ったっていい、周りと違くていい。君が思い描く色に染まればいいんだ。たとえその色を隠したとしても、色を映す雨のように、見てくれる人はきっといるから」

 先生の言葉に隠された真意を、幼きリアムは汲み切ることができなかった。

 ただ一つ理解したのは。あの日、あのとき、あの場所で。先生の瞳越しに見た虹を、好きになったことだ。


 石畳みの道。水溜りを跳ねる人々の足。

 傘を畳んだ青年は立ち止まり、雨上がりの空を見上げる。

 大きく架かる虹の橋に。亡き人の面影を重ねた青年は、腰に引っ提げるカメラにそっと触れた。




 本大陸の約5割を占める『オラトリオ地方』。中心部では、かつて大陸を支配していた統一国家の遺産である王城が、お膝元である王都を見下ろしている。

 王都西側。広い敷地内に建てられた大規模な5階建ての施設。そこは『勢力』と呼ばれる組織の1つ、情報の収集・発信を主な活動とする大手メディア【彗星の運び屋メリクリウス】の本拠地。

 施設の出入口前で足を止めたのは、灰色の髪と菖蒲色あやめいろの瞳を持つ青年、リアム。傘に滴る雨粒を落とし、職場に向かう。


 ロッカールームを経由し担当部署のフロアに出勤したリアムは、眼前に広がる光景に圧巻されていた。

 飛び交う先輩達の声、鳴り止まぬコール音、その間を縫うパソコンのタイピング音。フロア全体に響き渡る喧騒けんそうはなにも珍しい話ではないが、2年過ぎた今でも慣れない。何人かの先輩達は身に纏う服が昨日のままだ。昼夜問わず拠点と現場を走り回る彼らは、なかなか自宅に帰れないこともある。かく言うリアムも担当していた仕事が落ち着き、5日ぶりに自宅からの出勤となった。

 すれ違う先輩らに会釈と挨拶を交わしながら。リアムは自身のデスクにつき、パソコンを開く。メールの受信欄を確認中、ざわめくフロアを突き抜けるように野太い男の声がリアムの名を呼んだ。

「リアム!」

「はっはいっ!」

 反射的に椅子から立つ。呼び主の姿を探せば、遠く離れたフロアの端に位置する出入口で顰めっ面の男がこちらを見ていた。視線が合うと、男は顎で外を指し示しフロアから立ち去る。

 男の意図を察したリアムは慌ててパソコンの電源を落とし、大きめな鞄を肩に掛けながら駆け足で男を追いかけた。

 がっちり締まった四肢に、整えられた口と顎の髭。生まれつきだという釣り上がった目つきは些細な情報を見逃さず、ときに畏怖いふの念を与える。まさに百戦錬磨、成熟した精悍せいかんな男。【彗星の運び屋メリクリウス】を纏め上げる総監督、コメィト。リアムの上司であり、師と慕う人物である。

 エレベーターで地下に向かい、停めていた愛車の運転席に乗り込んだコメィトに続いてリアムも助手席に乗り込む。

「なにか事件ですか?」

 地下駐車場から地上へ出たタイミングでリアムはフロアの様子からそう問いかけた。だが、ハンドルを握るコメィトは「違う」と否定。

「あっちとは関係ねぇ。取材、星見の塔にな」

 『星見の塔』。それは『オラトリオ地方』を外れ、細く伸びる道の果てに聳え立つ神聖なる塔を指す。唯一神、星神アストルムを讃え建築されたその地では、人々の通過儀礼である儀式が執り行われる。

 神に最も近しい存在、精霊王の源『ロードクリスタル』より生まれ出ずる加護──『ジェム』を賜る儀式。通称“色別しきべつの儀”。

 リアムは、僅かに皺を眉間に寄せた。


 自分だけの色を手に生まれ、生涯をともにする『ジェム』。

 0から1を。無から有を生み出す精霊王の加護奇跡――『スペル』と呼ばれる魔法を習得することができるジェムは、『所持し持っていて当たり前』。生きる為になくてはならないものなのだ。極端だと笑うかもしれないが、それがこの世界の常識である。


 しかしながら、リアムは自分だけのジェムを持たない。その事実を理解した上で連れ出したコメィトは、信号待ちの合間。煙草に火をつけた。

「あっちょっ、ダメですよ! これから取材しに行くんですから!」

 舌を鳴らし、灰皿に煙草を押しつける。

 危ない危ない。肩の力を抜くリアムの顔は普段と変わらない。コメィトは横目でリアムを一瞥、小さく鼻で笑う。

 上司と部下、師と弟子。これらの言葉では表しきれない関係性。例えるなら、父と子のような──強い絆で2人は結ばれている。

「あーあ、めんどくせぇな」

「あはは……」

 愛想笑いで返したリアムはふと気づく。

「……あれ。どうしてコメィトさんがわざわざ出向いているんですか?」

 組織のトップであるコメィトが一現場に赴くのは珍しい。本人は現役の記者であるが、責任者の立場ともなれば仕事内容も当然変わる。まして、それなりの影響力を誇る勢力のトップに足を運ばせるとは。なにか深い事情でもあるのだろうか、リアムは詮索する。

「俺が行かねぇとうるせぇからな」

 うんざりとした表情でコメィトは嘆息する。不思議に思うリアムをよそに、車は塔近くの駐車場に到着した。




 歴史的にも価値がある『星見の塔』は、世界最古勢力の1つ【カタルシス】の管理下にある。四六時中休みなく警備兵が巡回する厳重な警備でありながら、老若男女分け隔てなく迎えいれる心地良さがその胸を吹き抜ける。『死ぬまでに一度は訪れる場所』、と。あらゆる場所で紹介されるのも頷ける話だ。

 一般訪問者用に開かれている正門の裏、関係者用の扉から2人は塔の中へと進む。

 塔の内部は、中央に陣取る『ロードクリスタル』を囲うように何層もの階が上に重なる。天を貫く高さの『ロードクリスタル』を妨げないよう中心部は吹抜け天井となり、円を描くように手すりが各階に設けられていた。

 案内された2階から儀式の場である1階を見下ろしていると、ブーツの足音が2人の近くで止まる。

「お待たせしました」

 一房に纏め上げた青藍色の髪を揺らし、緩やかなテノールの声を響かせる若い人物の名はソール。コメィトと同じ立場【カタルシス】の首領であり、同時にリアムの友でもある。急足で参上したソールは片手を胸元に添え、軽く頭を下げた。

 ソールの姿を見るや否や、コメィトは呆れた様子で腕を組む。待たされたことに苛ついているのではない。

「あのなぁ、オマエ部下の教育ぐらいちゃんとやれよ。いくら出ないからって1時間に1本電話寄越されちゃあ営業妨害だぞ」

「それはその……申し訳ないです」

 【カタルシス】の内部事情はやや複雑であるがゆえに首領ソールの指導が行き届いていないのもまた事実。眉尻を下げるソールが可哀想に思えたリアムは仲介に入る。

「ま、まあまあその辺りで……コメィトさんが書く記事人気ですし、書いてもらいたい気持ちはわかりますよ」

「馬鹿言え、俺が書いたっていう事実が欲しいだけだろ。それに俺書く気ねぇからオマエ連れてきたし」

「えっー‼︎ 僕が書いたりなんかしたら大ブーイングの嵐ですよ! 僕を嵐の目にするつもりですか⁉︎」

「うるせぇし意味わからん」

 とにかく書けよと念を押され、わかりましたよと口を尖らせる。

「とりあえずソールのこと書けばいい? それなら僕いっぱい書けるよ」

「や、やめてくれ」

「冗談だよ。撮影大丈夫?」

「儀式中でなければ大丈夫。もうすぐ始まるから、終わったあとにお願いしていいかな」

「うん、わかった。ありがとう」

「……そんじゃあ、あとは任した」

 会話の区切りでコメィトは一言告げくるりと反転。1階へと続く階段に向かった。コメィトの目的は階段を降りた先にある塔の出入口だ。

「車で仕事してっから。満足したら来い」

「え、儀式見ないんですか?」

「別に興味ねぇしな。オマエは見たことねぇんだろ、一度ぐらいは見ておけよ」

 ひらりと手を払いコメィトは階段下に姿を消した。残されたリアムは手すりから1階、大広間を見下ろす。中央の『ロードクリスタル』から波紋を描くように長椅子が並べられ、儀式を受ける子供達が次々と席を埋めていく。

「リアム。僕は指揮を取らなくちゃだから先に降りてるよ。鐘が鳴ったら君も来てくれ」

 微笑むソールにリアムは軽く頷き返す。ソールがリアムに背を向けたと同時、リアムは再び大広間を見つめる。


 いつだったか。お世話になっていた孤児院にも儀式を受けるよう通達が下りた。当日になって自分は逃げ出してしまったが、他のみんなはここへ向かったはずだ。

 そのときも、ここに集まる子供達のように。胸を弾ませ、曇りなき眼で、今か今かと待ち侘びていたのだろうか。自分は今でも、儀式を受ける気にはなれないというのに。

 だってこの儀式は、精霊王の加護は……。


 ゴォォン、ゴォォン――と。

 儀式開始、5分前を知らせる鐘の音が響く。物思いに耽っていたリアムはぱちっと目を見開き、急足で大広間に続く階段を駆け降りる。

 関係者らでごたつく大広間に降りてきたリアムは出入り口付近で立ち止まり、『ロードクリスタル』を静観する。混じり気のない真っ白な水晶は、何色にも染まらず、何色にも染まることを体現しているようであった。

 淡く発光する『ロードクリスタル』の正面に、純白の装束を纏う祈祷師の男がゆっくりとした足取りで歩み寄る。

 鳴り響く儀式開始を告げる荘厳な鐘音。静けさが満たす大広間は、祈祷師の垂れ下がるローブが床を擦る音だけが響く。

「――」

 両手の平を天に向け、大きく腕を伸ばし、言の葉を紡ぐ。高らかに語られるのは、星神と精霊王を讃える讃美歌であり、加護を賜る子供達に向けた祝歌。この場にいる誰もが、祈祷師が詠う詠唱うたに耳を傾けていた。

「……?」

 そのうちの1人であったリアムは不意に『なにか』を感じ取った。正体不明の『なにか』が、リアムの胸を悪戯に掻き乱す。詠嘆か、はたまた胸騒ぎか。どちらとも言えないまま、祈祷師による儀式は続く。

 リアムは肩から掛ける鞄の紐を強く握りしめる。全身に流れる血液がドクドクと波打つ。

 そして、張り詰めた糸がぷつんと途切れるように――『ロードクリスタル』から不審音が発せられた。

 始まりはピシッ、と。

 直後には、ビキビキビキッと強引に押し進める音に合わせ『ロードクリスタル』の表面に大きな亀裂が走った。

 前例も、前兆もない。明らかな異常事態。祈祷師の瞳孔どうこうが烈しく揺れ動き、自然と詠唱も途切れる。

 騒然とする大広間。まずは会場内にいる人々を落ち着かせようと、祈祷師が『ロードクリスタル』に背を向けた――刹那。

「――え」

 祈祷師の口から漏れた小さな声に、大広間は静まり返る。

 それが自身の惨状を目の当たりにしたからだということに祈祷師は――四肢の自由も、思考も、視界も。真っ黒に塗り潰されたあとに気づくが遅く。

 物言わぬ黒い物体と変貌した祈祷師の体に纏わりつく――黒い液体は、ヒビ割れた『ロードクリスタル』から際限なく産み落とされる。


「逃げろ逃げろ逃げろぉぉおおおおお⁉︎」


 名も知らぬ誰かの叫び声を皮切りに、一瞬にして大広間は阿鼻叫喚と化した。

 誰よりも『ロードクリスタル』から近いのは、まだ年端いかない子供達。泣き叫ぶ彼らを見捨てる大人達、我が子を守ろうと飛び出す親。醜く逃げ惑う人々を嘲笑うかのごとく、黒い液体は水音を立てながら蠢き、取り憑いた哀れな人間達をことごとく漆黒に染め上げる。かつては人であった黒い物体が次々と床に転がる光景は、とてもこの世のものとは思えない地獄絵図。

「うぐ……ッ」

 出入り口付近にいたリアムは外に出ようと押し寄せる人々の波に押され、壁際へと追いやられていた。身動きが取れずにいたが、波が収まったことでようやく解放。奇跡的に保っていた意識を手繰り寄せ、痛む四肢に鞭を打つ。

 逃げなくては――。リアムの思考を支配するのはこの場からの脱出。幾度となくモンスターに追いかけられ、落とし穴に落ちたリアムであれば逃げることは容易かった。

 視界に、躓いた子供さえ映らなければ。

「っ――!」

 思考を巡らせる余地すらなく。リアムの体は動いていた。

 床に倒れた子供に覆い被さり、自身の体が盾となるよう強く抱きしめる。迫り来る冷ややかな気配を背に覚え、固く瞳を閉じた。

 ぽたぽたと首筋に液体が垂れ落ちる感覚に、死への恐怖から意識を手放す。

 わずかに一瞬。胸を焼き尽くすような熱を感じながら――……。

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